ペリー艦隊の日本人、サム・パッチこと仙太郎の生涯

日本史の画期となった嘉永六年(1853)の黒船来航時、ペリー艦隊の中に水夫として一人の日本人がいた。彼は安芸(現在の広島県)出身の船乗りで、乗っていた船が嵐にあい漂流、米国船に救出された後、志願してペリー艦隊の水夫となった。日本名は諸説あるが仙太郎、水夫たちの間ではサム・パッチと呼ばれていた。

仙太郎は天保元年~二年(1831)頃、瀬戸内海に浮かぶ生口島で生まれた。長じて船乗りとなり、嘉永三年(1850)、新たに建造された栄力丸の炊(かしき=料理担当)として雇われる。栄力丸は大坂・江戸間で酒樽を輸送する樽廻船で、船頭(船長)万蔵以下十七名の船員で運行されていた。

栄力丸乗組員名簿(足立「黒船に乗っていた日本人」および「社団法人 全日本船舶職員協会「黒船に乗った日本の漂流船員」村上 貢(弓削商船高専・岡山商大名誉教授)」より)

万蔵(船頭)、長助(舵取)、浅五郎(賄方)、甚八、幾松、喜代蔵、清太郎、徳兵衛、民蔵、利七(表方)、京助、安太郎、彦蔵(茶汲または炊)、次作、亀蔵、岩吉、仙太郎(炊)

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栄力丸遭難事件

1850年十二月二日(嘉永三年十月二十九日)、遠州灘を航行中の栄力丸は突然の嵐に見舞われる。転覆の危機を乗り越えたが、マストが折れ航行不能となり漂流状態に陥った。食糧を数か月分積んでいたことが幸運であったが、結局五十二日もの長きに渡る漂流を余儀なくされ、船も破損が進んでいつ沈んでもおかしくない状態が明らかで、万事休すとなるかにみえたそのとき、航行中だった香港・サンフランシスコ間で物資の輸送を行う米国籍の輸送船オークランド号に発見・救助される。奇跡的に一人の死者も出さなかった。

ジョセフ・ヒコ

ところで、この船に一人、日本近代史上重要な人物が乗っていた。当時十四歳の少年彦蔵(浜田彦蔵)は、住吉丸という船に乗っていたが、熊野の久喜港で出会った栄力丸の船員らに気に入られ乗りかえていた。彼は後にジョセフ・ヒコと名乗り米国に帰化、刻苦勉励して米国領事館付通訳として来日したあと、日本初の新聞「海外新聞」を発行して後世「新聞の父」と呼ばれ、大蔵省に勤めて大阪造幣局の設立や国立銀行条例制定に尽力するなど歴史にその名を刻むことになる。日本人として初めて米国大統領(第十四代フランクリン・ピアース)と会見した(後に、十五代ブキャナン、十六代リンカーンとも会見し、生涯三人の大統領と会った)当時としては非常に稀有な人物である。

漂流民アメリカへ

米国に着いた彼らは遭難民として手厚く遇され、彼らも産業革命真っ只中の米国に非常に驚かされたようだ。この頃に撮られたというおそらく仙太郎であろうと思われる写真が残されている(横浜美術館収蔵)。この写真が撮られたという1851年より以前の日本人の写真は見つかっていないため、仙太郎は日本人で初めて写真を撮られた人物とされている。

アジアの海へ

この十七名の日本人漂流民に目を付けたのが、東インド艦隊司令長官ジョン・H・オーリック提督であった。オーリックは『この事件が日本国と商業関係を築く好機になるかもしれない。または少なくとも、かの島との交流を容易にする足場になる』(パーカーP49)と、ダニエル・ウェブスター国務長官に提案、これが認められ、彼ら十七名は香港に送られることになった。1852年二月のことである。

オーリック提督の解任からペリー提督の就任まで

時系列について少し整理しておこう。オークランド号が栄力丸漂流民を乗せてサンフランシスコに入港したのが1851年三月四日、この事件は新聞等でも報じられて対日使節派遣の機運が高まり、その二ヶ月後にオーリック提督が東インド艦隊司令長官に就任し、同年六月十日、サスケハナ号に乗船したオーリック提督は日本への使節としての任を与えられて出発する。しかし、オーリックは部下との不和や寄港地でのトラブルなどからわずか五か月後の1851年十一月十八日に解任される。同時期に海軍省郵政長官だったマシュー・ペリーに新司令長官の打診が行われるがペリーは固辞、最終的にその打診を受諾し内命が下るのが1582年一月二十二日、正式辞令は同年三月二十四日となる。その後、ペリーが現地艦隊に着任するのは1853年五月四日で、オーリック提督が暫定的に指揮をとっていたものの病気がちになり、指揮権者不在の状態がおよそ一年半続いていた。まさにその渦中で彼らは移動を余儀なくされていた。

万蔵の死

航海の途中、1852年四月三日、立ち寄ったハワイで彼ら漂流民の精神的支柱であった船頭の万蔵が病死してしまう。同五月一日、香港に到着し、彼らはマニラ沖で米国海軍東インド艦隊旗艦サスケハナ号に乗せられた。オーリック提督下での彼らの扱いは酷いものであったらしく、ジョセフ・ヒコが後年サスケハナ号の人は「荒っぽくて不親切であった」(「アメリカ彦蔵自伝1」P91)と述懐している。オーリック提督が解任された腹いせでひどい扱いをさせたのか、解任後ということで統率が効かない状態になっていたのか、そのあたりはよくわからないが、ジョセフ・ヒコによればサスケハナ号の乗組員の気風として清国人に対する差別意識が強くあり、清国人と日本人とを同じように捉えて清国人に対するように日本人に対して接しているのだという。

香港の日本人漂流民力松

サスケハナ号で軟禁状態にあった彼らと接触したのが、香港で暮らす日本人通訳力松である。力松も1835年に嵐にあいフィリピンに流された漂流者の生き残りで、日本に帰れず米国人女性と結婚して香港で英国艦隊の通訳などを行っていた。力松は彼らが米国の外交カードに使われるだけであること、かつて自分たち漂流民引き渡しを試みたモリソン号に対し徳川幕府が砲撃を行ったことなどを説き、サスケハナ号からの脱出を提案するが、このときは誰も応じていない。しかし、力松の言葉は十六人の間に不和の種を蒔いた。

分裂する栄力丸漂流民

或る日、八人あるいは九人が中国人僧侶の手引きで脱出するが途中武装した盗賊団に襲われて金品を奪われて命からがら船に戻ってくる事件があった。続いて、彼ら漂流民の後見人として米国での生活を助けここまで同行していたトーマス・トロイが自身の米国への帰国と最年少の彦蔵の同行を船長に提案、さらに彦蔵の他次作と亀蔵の計三名の解放を実現させた。トロイは帰国後彼らの職を探し、彦蔵には税関長であったサンダース氏を紹介して、ジョセフ・ヒコとしての将来を切り開くことになる。

上海の日本人ビジネスマン音吉

1853年三月、ペリー提督未着任のままサスケハナ号は上海に到着する。ここで英国の貿易商社デント商会の関係者がサスケハナ号に乗船を許された。彼もまた、漂流民として現地に住みついた日本人音吉という人物である。音吉もまた彼ら十三人に助力を申し出て、船長と交渉、十三人のうち四人の解放をとりつけた。音吉は貿易商社での経験から非常に高い交渉力を持っていたこと、一方で米国艦隊に決定権者が不在であったことなどの影響が大きい。さらに、残り九人の上陸許可も得ることが出来、結果として全員の解放を実現させた。

水夫サム・パッチの誕生

しかし、晴れて自由の身となりながら、仙太郎はあらためてサスケハナ号に戻ってきた。1853年四月九日のことである。彼は自ら合衆国海軍への入隊を志願した、という。本当に彼の意志であったのかは諸説あるが、良くわからない。足立和は「黒船に乗っていた日本人」で人質となったと書いているが、パーカーは当時の航海日誌から足立の人質説を否定している。1853年五月四日、着任直後のペリーは自身の許しなく彼ら日本人漂流民を解放したことに激怒して呼び戻そうとしたが、音吉は英国の保護をちらつかせてそれをはねつけたという。船を降りた者たちは音吉の下でしばらくアヘン貿易に従事したあと、清国の商船で開国後の日本に帰還することになる。

水夫となった仙太郎はサム・パッチと呼ばれて、『みんなが彼の不運に同情し』、『その善良な性格から仲間の水兵たちに好かれていた』(「ペリー艦隊日本遠征記 下」P439)とペリー提督は記している。

黒船来航

1853年五月十七日、着任早々ペリー提督は日本に向けて艦隊を動かした。世にいう「黒船来航」の始まりである。一週間余りで琉球に到着して強引に琉球国王宛の親書を手渡し一部艦隊を那覇沖に停泊させた後、残りの艦隊で小笠原諸島を経て、1853年七月八日(嘉永六年六月三日)、ついに浦賀沖に姿を現す。艦隊旗艦「サスケハナ」と随行艦「プリマス」「ミシシッピ」「サラトガ」の四艦である。ペリーは開国を促す大統領の親書を手渡し、再訪を伝えて艦隊を引いた。このとき、仙太郎は日本側に見られないように姿を隠していたという。

琉球人カマタ・ノージュ

1854年一月、再集結したペリー艦隊はあらためて日本へ艦隊を進める。このとき、那覇沖で面白い人物がサスケハナ号に乗り込んできた。密航者である。尋問を担当した宣教師ベッテルハイムの記録によれば、彼はカマタ・ノージュと名乗る琉球人の船乗りで、今よりマシな生活がしたいのだという。さらに、嘘かまことか、首里の王宮の五十人の愛妾に関するゴシップ(「あまりにも猥雑で書きとめる気にならない」と尋問者が記すほどの)だとか、薩摩からの秘密信号の情報だとかをあれこれと喋り、雇用を求めてきたという。彼の採用には反対者もあったが、ペリーは消極的ながら彼の水兵としての入隊と認め、以後、琉球人カマタ・ノージュはジャック・カヌーと名乗ることになる。

「サム」と「ジャック」は意気投合したらしい。ペリー提督がサスケハナからボーハタンへと旗艦を代えたとき、彼ら二人もボーハタンに移動したが、ボーハタン号船長代行エドワード・ヨーク・マッコーリーは、浦賀沖に到着して日本側使節がボーハタン号に乗り込むとき、二人が『丸窓から顔を出して、横付けされたボートにいる同胞に向けてげんこつを振り回して日本人への敵意を表し』(パーカーP77)ている様子を目撃している。また、仙太郎は日本語の読み書きも出来なかったが、カマタはある程度読み書きも出来たらしく、おそらくこのとき、仙太郎はカマタの手助けで故郷の友人に宛てた手紙を書き記している。

サム・パッチ、幕府役人に平伏する

交渉の場で日本側代表は驚きの知らせを受け取った。ペリー艦隊参謀長ヘンリー・A・アダムス大佐から、黒船に日本人水夫が乗っていると聞かされたのである。日本人水夫からの故郷への手紙を受け取った浦賀奉行所与力香山栄左衛門は、その男、サム・パッチとの会見を希望した。

ペリー艦隊日本遠征記から、その最初の会見の様子をそのまま引用する。

『約束に従って、サム・パッチが日本の役人の前に連れてこられたが、彼は高官たちを目にしたとたん、見るからにすっかり恐懼して、すぐさま平伏した。サムは故国に着いたら命が危いというので、航海中に水夫仲間からよく笑われたり、からかわれたりしていた。この哀れな男はたぶん自分の最期のときが来たと思ったのだろう。アダムス参謀長は、恐怖をあらわにして惨めにうずくまり、全身を震わせているサムに、膝を上げて立つように命じた。いまはアメリカの軍艦の中にいて、サムが乗組員のひとりとしてまったく安全であり、恐れることはなにもないことを気づかせても、同国人が目の前にいる間は安心させることができないと分かったので、すぐに立ち去らせた。』「ペリー艦隊日本遠征記 下」P143)

身体に染みついた封建体制への恐れが、帰国すなわち死を想像させて仙太郎を震え上がらせていた。確かに、黒船来航以前なら死罪とは言わずとも厳罰をもって処せられていただろう。しかし、まさに彼が乗ってきたその船によって時代が変わっていた。幕府側は仙太郎の存在を知り、彼に黒船の建造を任せられないかと考えていたらしい。単なる料理担当者・一水夫である彼に対するものとしては非常な過大評価で、まず間違いなくその期待は失望へと変わるものであったが。そのような期待とあわせて、香山は彼が家に帰る機会を損なうべきではないと自身の日記に書き記しており、封建制度下で苗字すら与えられていない下層民に対する接し方とは一線を画し、同胞としての日本人保護という観点に立っている。しかし、仙太郎の不信感をぬぐうことは出来なかった。

合衆国の旗の下に

1854年三月三十一日(嘉永七年三月三日)、日米和親条約が締結され日本は開国。諸外交が一通り片付きペリー艦隊の離日を数日後に控えたある日、日本側は通訳森山栄之助を通じて仙太郎の引き渡しを伝え、ペリー提督は本人の意思に基づくこと、並びに帰国しても彼が罰されないことを求め、あらためて仙太郎への説得が行われることになり、香山・森山らと仙太郎との二度目の会見が開かれた。

しかしこのときも仙太郎は恐れのあまり平伏して身動きがとれないほど萎縮してしまった。それを見かねたペリー提督副官ベント大尉は『アメリカ艦上の合衆国国旗のもとでは、人間の形をしたいかなるものに対しても、そのような屈従の姿を見せるべきではない』(「ペリー艦隊日本遠征記 下」P439)として、『すぐに立ち上がれと、断固として命令し』(同P439)、仙太郎はやっと立ち上がることができた。

森山栄之助は仙太郎に対して、こう説得したという。(パーカーによる森山の日記の要約)

『アメリカ人が、あなたを釈放しても構わないと思っていたなら去年の春にあなたは帰国できただろう。確かに、あなたは黒船で日本の各地を訪問したが、それは罰のための根拠にならない。世話をしてくれた人への義務に関して、私はそれがあなたの心の重荷であることは分かるけれども、漂流者の保護は国家間の相互の義務であり、決して得難いものではない。救助された後、本当に人間のなすべきことは自分の故国と両親と友のもとに帰ることである』(パーカーP82)

仙太郎はそれに同意し外国人の中で暮らすことの辛さなどを吐露したというが、結局、『日本人たちがどんなに言葉を尽くして説得しても、彼は船を去ることに応じなかった。』(「ペリー艦隊日本遠征記 下」P439)

ペリー艦隊は日本を離れ、アメリカへの帰路についた。

ダン・ケッチ

上海で、仙太郎はかつての仲間と再会する。上海に残った十二人の栄力丸漂流民たちのうち、十一人までは1855年二月までに順をおって日本に帰国していくが、その予定は、当時中国全土覆っていた太平天国の乱によって全く先行きの見えない状況に置かれざるを得なかった。苦しい待ちの時期を耐える彼らだったが、岩吉という男はそれに耐えきれず彼らと離れて一人潜伏生活を送っていた。そこに、日本から戻ってきたペリー艦隊が寄港すると、岩吉はサスケハナ号を訪れ、米国行きを志願、認められて水夫となり、彼はダン・ケッチと呼ばれることになった。

ペリー艦隊日本遠征記によれば、彼は、『ペリー提督の保護下にあり、並々ならぬ才知と旺盛な知識欲を発揮している。いま彼がめざしているように、わが国について多くのことを学んでから日本に帰るならば、彼は疑いなく、わが国に関する少なからぬ情報を故国にもたらすことになるだろう』(P441-442)と言われている。また、ダン・ケッチは日本名から名付けられた名だが、死刑執行人を指す俗語「ジャック・ケッチ」を連想させるので、ジャックではなくダンだったのは幸いだったとその名の不吉さを示唆しているが、これは後に予言じみた記述となった。ペリー提督も一目置く才知の持ち主であったが、同時に野心と自負心もまた高く、それが後々彼の運命を左右することになる。

ジョナサン・ゴーブルとの出会い

仙太郎は、ペリー艦隊で一人の米国人の知己を得た。ジョナサン・ゴーブルという人物である。

ゴーブルは強盗未遂(金銭の脅迫)罪で投獄経験があり、獄中で信仰に目覚めて洗礼を受け、出所後1851年に海軍入隊、ペリー艦隊ミシシッピ号に乗り込み日本にやってきた。ペリー提督によれば、ゴーブルは仙太郎に関心を持ち、彼に英語を教え、またキリスト教への改宗を勧めていたという。アメリカへの帰国後、仙太郎はゴーブルに連れられて彼の家で共同生活を送ることになった。

1855年、仙太郎とゴーブルはバプテスト系のマジソン大学のアカデミー(中等部)に入学、大学寮に入寮し、このとき仙太郎は自身をサムエル・センタロウと名乗っている。しかし、英語だけではなくラテン語やギリシア語など高度な知識が求められていたから、仙太郎は別プログラムの特別学生という扱いで、記録に残る彼の成績は五十人中四十八番目という結果であったが、それでもこの間の学問の経験は英語力と西欧文化への理解を深めることとなり、彼の人生で後々生かされてくる。

暴君の支配

1856年、ゴーブルはエリザ・ウィークスという女性と結婚するが、在学中の結婚を禁じた校則に反するため彼は放校処分となり、新居を構えて賃料の支払いのため下宿人を迎え、仙太郎は様々な雑役を担う使用人としてゴーブルに雇われることになった。敬虔なキリスト教徒であったゴーブルだが、使用人に対する主人としての顔は粗暴で残酷だった。屈強な元海兵隊員ゴーブルは毎日のように仙太郎に暴力を振るい、仙太郎はマジソン大学の学長に助けを求めたが、学長は事なかれ主義を貫いた。繰り返される暴力に耐えきれず一度は入水自殺を試みるが、「あまりに冷たく、安楽に死ねない」(パーカーP95)と考え、思いとどまる。彼の弱者への暴力癖は生涯止むことが無いのだが、一方で奴隷制廃止を唱える生粋の北部人であり、敬虔なクリスチャンであるという二面性が、彼の強烈な個性となっていた。

暴君ゴーブルの下で使用人としての立場に甘んじた仙太郎を支えていたのは、仲間たちとの日本での再会であったという。様々な証言から当時の仙太郎はキリスト教への信仰心を持っていなかったことがわかっているが、1858年、彼はついに洗礼を受けることになった。著名な新渡戸稲造には未邦訳の英語文献が多数あるが、その中の一つ”The Intercource between the United States and Japan : An Histrical Sketch”に、当時の仙太郎のことを記した描写があるようだ。パーカーによれば、新渡戸はこの仙太郎の洗礼について「貧しい異教徒が水につけられて、クリスチャンと呼ばれた」(P99)と皮肉っているという。ともかく、仙太郎は日本人初のバプテストとなった。この仙太郎の回心という”成功”に快くしたゴーブルは、ついに日本宣教に向けて本格的に動き出す。

1859年、ついにゴーブルはアメリカバプテスト自由伝道協会から日本伝道宣教師として認められ、翌1860年四月、ゴーブルは妻子と召使の仙太郎を伴って横浜に到着する。仙太郎、十年ぶりの帰国であった。

ダン・ケッチ殺害事件

仙太郎の帰国に先立って、彼を恐怖させる事件が日本で起きた。かつての仲間ダン・ケッチこと岩吉の死である。

ダン・ケッチ=岩吉は米国に戻った後、英語力を磨き、デント商会音吉のつてで英国領事館に入ると、仙太郎より先に日本に帰国、英国公使ラザフォード・オールコックの下で通訳として働くようになっていた。『彼でなければ持ちだせない日本の秘密文書を、イギリス領事館へ持ち込んで来る』(足立P221)というから、通訳としてだけでなく諜報活動など当時の英国領事館の裏の仕事を担い、重用されていたようだ。一方で、英国領事館員という立場を盾に、増長して横柄な態度に出ることも多く、多くの人と衝突し反感を持たれていたという。彼の解雇をオールコックに勧める者も少なくなかったが、岩吉の有用性からオールコックはそのままにしておいた。この頃、米国公使ハリスの通訳となって来日していたジョセフ・ヒコもかつての仲間のよしみで岩吉に何度も忠告したが、英国国旗と懐のピストルが彼を慢心させていた。

1860年一月二十九日、英国領事館があった白金高輪東禅寺の門前で、岩吉は凧揚げをする子供たちに手を貸しているその背後から深く編笠をかぶった男に短刀で一突きにされる。殺害者は確実に殺すために短刀を柄までねじ込み、刃は彼の身体を貫いて右胸の上に突き抜けた。英国国旗がはためく真下、門前は鮮血に染まり、息絶えた岩吉を見届けて男はどこかへ立ち去ったという。衆人環視の中の凶行であった。

攘夷の嵐が日本全土を覆い、外国人排斥運動は外国人と開国論者へ対するテロリズムへと進展する。ダン・ケッチ殺害の二ヶ月後、同年三月、桜田門外の変によって大老井伊直弼が暗殺され、以後、1861年の英国公使オールコック襲撃事件「東禅寺事件」を始めとする外国領事館に対する襲撃、外国人に関る日本人に対する凶行が繰り返されていく。

仙太郎が戻るのは、そのような日本であった。

サム・パッチと日本の宣教師たち

ゴーブル一家と仙太郎は1859年十一月五日にサンフランシスコを出航。途中ハワイ島にも立ち寄って、米国要人とハワイ王族との謁見にも参加、仙太郎はカメハメハ四世の妃エンマ王妃拝謁の栄に浴した。横浜到着は1860年四月一日、横浜の成仏寺に入ることになった。

横浜の宣教師の拠点成仏寺

1858年七月、日米修好通商条約が締結され下田、函館に続いて神奈川、長崎、兵庫などが開港されると、開港地における外国人の居留と信仰の自由が保障され、宣教師が次々と来日することになった。その宣教師の住まいとして提供されたのが各地の寺院である。横浜では米国領事館とされた寺院本覚寺にほど近い成仏寺が宣教師館と定められ、宣教師たちが共同生活を送ることになった。

1859年十月、まず成仏寺に入ったのが宣教師兼医師のジェームズ・カーティス・ヘップバーン、後にヘボン式ローマ字の考案で知られるヘボン博士である。続いて十一月に宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンが来日していた。仙太郎来日時、ヘボン家とブラウン家の他、若干の下宿人と、両家に雇用された日本人使用人がおり、そこにブラウン家の客分としてゴーブル一家が入った。翌年にはジェームズ・ハミルトン・バラとマーガレット・テイト・キンニア・バラのバラ夫妻が来日して成仏寺に入り、横浜におけるキリスト教布教の拠点となった。バラ夫人については以前書いた記事「若き米国人女性宣教師マーガレット・バラが見た幕末日本」も。

懸け橋となるサム・パッチ

仙太郎はゴーブル家の使用人という立場であったが、すぐに他の宣教師たちから信頼を勝ち取ることになる。宣教師たちはヘボンもブラウンも片言の日本語しか話せず、一方で日本人使用人は日本語しか話せない。両方の言語に通じている仙太郎は非常に重宝された。日本人の使用人は少なからずスパイの役目を兼ねていたし、コミュニケーションの不全は外国人雇用者と日本人使用人との間の相互不信の種であったが、両方の言語に通じた仙太郎はその潤滑剤となることができ、お互いの誤解を解くことに貢献した。あわせて、仙太郎がクリスチャンとして禁酒を守っていたことも大きい。当時の日本人は皆、「飲んだくれ」の傾向が強く、酒を飲んで前後不覚になったり暴れまわったりして、使用人たちも例外ではなく仕事を全うできず、度々解雇されている。双方の言語・文化・マナーに通じ、忠実で勤勉というのは得難い強みであった。

また、仙太郎はゴーブルや宣教師・外国人たちに日本語を教授したりもしていたようだが、残念ながら、『粗野で低級な日本語しか提供できなかった』(パーカーP118)ため、別に通訳や教師となる日本人が雇用されている。

支配からの解放

来日してすぐゴーブルは壁にぶちあたる。まず、金銭問題で彼は満足に支援を集めることができず、常に金に困っていた。ブラウン家から少なからず借金をしてもいた。また、粗暴で、ちょっとでも気に入らないことがあると仙太郎を始めとした使用人に暴力を振るうため、宣教師の間でも白眼視されるようになり、孤立していた。結局一年余りでゴーブル一家は成仏寺から出て別に横浜で住宅を借り、その住宅に下宿人を入れてその賃料で生活を支えることになった。ここで仙太郎の扱いが問題となる。ゴーブルにはもう仙太郎を雇う資金が無かったため、ブラウン氏が仙太郎を雇用すると提案、六年に渡った暴君の支配から仙太郎は解き放たれることになる。ブラウン氏は当時の宣教師の間でも評判の人格者であった。1862年、ヘボン一家が成仏寺を出て、ブラウン家とバラ家だけになると、仙太郎は両家の使用人の代表的な人物になっていた。

外国人排斥

1862年九月の生麦事件に端を発して翌63年の薩英戦争に至る日英関係の悪化と、米国の南北戦争(1861-65)による外交的影響力の低下は、外国人に対する幕府の強硬姿勢として現れ、外国人居留地への破壊活動が横行、これを幕府も黙認し、成仏寺の外国人宣教師たちにも立ち退きが求められることになる。63年五月、外国人居留地を幕府軍百名が安全保護の名目で包囲、緊張が走る。このとき避難のためバラ夫妻の幼子を抱きかかえて守っていたのは仙太郎であったと伝わる。薩英戦争で軍事力の差を見せつけられた幕府は英国の要求に屈し、ブラウン家、バラ家にも別途邸宅が提供されることになった。

バラ夫人とサム・パッチのアメリカ行

バラ夫人は当初は仙太郎に対して不信の目を向けていたが、すぐに高い信頼に変わっていた。1866年、次女を出産した彼女は産後の療養のため米国に一時帰国を決意、そのとき仙太郎は随行を頼まれる。ただ、バラ夫人に従って米国に入国して以降、1870年に帰国するまで仙太郎の足取りはぷっつりと途切れてよくわかっていない。バラ夫人の実家まで随行したとも、途中で別れたとも言われているが、バラ夫人の実家であるヴァージニア州は南北戦争では南部に属した地域であったから、もしかすると人種差別にあう可能性を配慮して、途中で仙太郎と別れたのかもしれない。ともかく、次に仙太郎が姿を見せるのは1870年の横浜、帰国後のバラ家であらためて使用人として家事を取り仕切る姿であった。

クラークとサム・パッチ

大政奉還と静岡藩の人材育成熱

1867年、第十五代将軍徳川慶喜は大政を奉還、翌68年の鳥羽・伏見の戦いの敗走後、江戸城開城を経て徳川家は駿河に移封、徳川宗家を継いだ徳川家達を初代として静岡藩が創設される。多くの幕臣を抱えた静岡藩で大きな動きとなったのが人材育成である。津田真道、中村正直(スマイルズ「自助論」、ミル「自由論」の翻訳で名高い)、西周らが中心となり、学問所創設へ向けて動き出し、維新後には洋学・科学を学ぶ外国人教授招聘の動きが本格化する。1871年、勝海舟は福井藩の藩校で教鞭をとるアメリカ人理学教師ウィリアム・グリフィスに語学・理学教師の推薦を依頼する。そこでグリフィスが推薦したのが、彼の出身大学ラトガース大学の同窓エドワード・ウォーレン・クラークという二十二歳の若者であった。

エドワード・ウォーレン・クラークとの出会い

1871年十月、横浜に降り立った彼は勝海舟、大久保一翁、中村正直らに歓待を受け、続いて、同じラトガース大学出身の宣教師ジェームズ・ハミルトン・バラを訪ねた。クラークの紹介者グリフィスが来日時バラ家に滞在していた縁でもあった。

その頃、バラ夫妻はトラブルを抱えていた。原因はジョナサン・ゴーブルである。バラはゴーブルの家を借りており、また新居建築のために新たに住宅建築契約をゴーブルと結んでいたが、ゴーブルの労働者への暴力などを巡って対立し係争となり、その裁判手続きと費用が彼らの生活に重くのしかかっていた。そこで、長く仕えてくれた仙太郎の新たな職場として、来日したての教育者クラークを紹介したのだった。

クラークは一般的な宣教師の六倍もの額にあたる報酬を受け取ることになっており、仙太郎に対しても通常の使用人の四倍の給与を支払ったという。右も左もわからないクラークにとって、職務に忠実で、英語も日本語も堪能、西欧文化を理解し、外国人に仕えた経験も豊富で、西洋料理から日本料理まで熟練したコックであり家事一切を取り仕切れる仙太郎は非常に魅力的な人材であった。

静岡で腕を振るうサム・パッチ

静岡学問所ではクラークによって当時最高水準のテキストを使った実験重視の理化学の授業が実施され、多くの若者が学んだ。また、彼にあてがわれた邸宅では日々来客がひっきりなしに訪れては会食が行われ、仙太郎が万端取り仕切っていた。勝海舟、大久保一翁、中村正直らの他、諸大名、お雇い外国人らが恐らく仙太郎の料理に舌鼓を打ったであろう。

クラーク家でのあるクリスマスパーティの模様が紹介されている。『有り余るほどのカモとチキン、ケーキやパイ(ひき肉、カボチャ、カリン)大量のトウモロコシ、豆、エンドウ豆、サコタッシュ(トウモロコシと豆の煮つけ)、トマト、ジャガイモ・・・非常に美味のゼリーと甘菓子・・・他の果物はもちろん、オレンジや新鮮なリンゴがあった』(パーカーP169-171)さらに『上手に詰め込まれ、丸々とし、オイスターソースで味付けられていた』七面鳥が出され、四十人ものゲストは大満足であったらしい。彼らに限らずその後クラーク邸を訪れた人びとはみな仙太郎の手腕を褒め称えたという。

東京へ

1872年、学制の施行によって、各種藩校は政府の下、統廃合されて一年余りのクラークの静岡での生活は終わるが、改めて1873年から東京開成学校(後の東京大学)の化学教授として招聘され、それにともなって仙太郎もクラークに随行し、東京へ向かった。東京でも仙太郎はクラークの有能な執事であり料理長として信頼され、クラークの友人であるグリフィス、勝、大久保、中村らのほか、徳川家達、さらにはかつての雇い主であったブラウンやバラらを饗応している。また、1873年、結婚したと伝わっているが相手の女性については記録に残っていない。

サム・パッチの死

東京に移住したころから、仙太郎は病気がちとなる。脚気であった。入退院を繰り返し、宣教師アーサー夫妻のつてで(おそらく同じ明六社メンバーである中村正直らの紹介もあっただろう)、1874年三月から仙太郎は銀座の森有礼の邸宅の一角に住まわせてもらい療養生活に入る。1874年十月八日、穏やかな療養生活の甲斐なく、サム・パッチと呼ばれた男、仙太郎は四十四年の生涯を終えた。

サム・パッチの墓碑

中村正直が仙太郎のために東京本伝寺の中村家の墓所を提供し、墓碑銘は彼の英名サム・パッチから「三八君」と刻んだ。

『三八君安芸の生まれ 本名仙太郎 米名サム・パッチ 幕末ジョセフ・ヒコ等と難破漂流し米船に救われ 後日ペリー提督と共に通訳兼水兵として日本を訪れた
帰米後日本人最初のバプテスト派洗礼者となり再びゴーブル牧師と共に来日し聖書摩太福音書(全文ひらがな)の翻訳に協力しその完成に尽力した 其の後クラーク教師に仕え晩年は敬宇先生の馭者として生涯を終える』

後世、1982年になって中村家の人によって刻まれた碑文だが、その内容には多くの疑問が呈されている。まずペリー提督の通訳ではなかったこと、ゴーブルの翻訳した摩太福音書についての関与は無関係であるとするのが有力で、中村正直の馭者(御者)であった記録は無い。

ジョナサン・ゴーブルの二つの顔

ゴーブルはその人格と粗暴さから敵ばかりであり、生活にも困窮し子供も亡くすなど非常に苦しい生活を送っていたが、それでも日本に残って、1872年、彼は日本初の聖書の日本語口語訳である全文ひらがなで記された「摩太福音書」を発刊する。使用人などの弱者に対する容赦のない暴力と他者への攻撃性、庶民に寄り添う布教活動という矛盾を抱えた人物として彼は日本キリスト教史に名を遺した。

その後の漂流民たち

仙太郎、岩吉、ジョセフ・ヒコ以外の栄力丸漂流民たちだが、ハワイに眠る万蔵を除いて皆日本に帰ることができている。ただし、京助は1854年に長崎で取調べを受けている最中に死去、他は皆天寿を全うした。中でも清太郎と浅五郎は姫路藩に士分として取り立てられて、それぞれ本庄善次郎、山口浅五郎と名乗り速鳥丸と神護丸という二隻の西洋式帆船の建造に携わり、近代造船の草創期にその名を刻んだ。

「無名にひとしい人たちへの紙碑」

幕末、開国後に海外に雄飛した日本人の話は数知れないが、開国前に海外に出た日本人の話はあまり語られることがない。栄力丸漂流民だけでなく、この記事で紹介したような、米国人女性と結婚し宣教師グループと組んで日本人漂流民の援助活動を行った力松、英国商社でアヘン貿易に従事し、ペリー相手に一歩も引かぬ交渉力を見せた音吉など漂流民となったがゆえに日本に戻れず、現地でたくましく生きる名も無き人々の姿というのは、やはり面白い。彼らに焦点を当てた書籍というのももっと出て良いと思う。

歴史に事跡を刻むような英雄豪傑・政治家でもない、卓越した能力を誇るでもない、ごくごく普通の人でありながら波乱に満ちた生涯を送らざるを得なかった、「歴史の中の人生」にはかねてから興味を持っている。民俗学者宮本常一は「わすれられた日本人」で「無名にひとしい人たちへの紙碑」と自身の本を評しているが、僕もそのような記事が書ければいいと常々思っていて、何度か試行錯誤しながらブログを書いてきた。サム・パッチという無力だが実直で誠実な、それゆえに常人ならざる人物たちを動かし、支えた彼の生涯を紹介したこの記事が、「無名にひとしい人たちへの紙碑」として描けているとしたら幸いだ。

参考書籍・論文・ページ

・F.カルヴィン パーカー 著「仙太郎―ペリー艦隊・黒船に乗っていた日本人サム・パッチ
・足立 和 著「ペリー艦隊 黒船に乗っていた日本人―「栄力丸」17名の漂流人生
・マシュー・カルブレイス・ペリー著「ペリー艦隊日本遠征記 上
・マシュー・カルブレイス・ペリー著「ペリー艦隊日本遠征記 下
・小島 敦夫 著「ペリー提督 海洋人の肖像 (講談社現代新書)
・浜田 彦蔵 著「アメリカ彦蔵自伝 (1) (東洋文庫 (13))
・高谷 道男 著「ヘボン (人物叢書)
・マーガレット・テイト・キンニア・バラ 著「古き日本の瞥見 (有隣新書)
・横浜プロテスタント史研究会 編「横浜開港と宣教師たち ―伝道とミッション・スク-ル (有隣新書66)
社団法人 全日本船舶職員協会「黒船に乗った日本の漂流船員」村上 貢(弓削商船高専・岡山商大名誉教授)
・宮永孝 著「北米・ハワイ漂流奇談
古写真を読む ―横浜写真ことはじめ―
播磨町 新聞の父 ジョセフ・ヒコ ≪2014(平成26)年は、ジョセフ・ヒコ新聞発行150周年≫
・茂義樹 書評論文(1990)「川島第二郎著 『ジョナサン ・ ゴーブル研究』
・蔵原 三雪 論文(1997)「E.W.クラークの静岡学問所付設伝習所における理化学の授業 : W.E.グリフィスあて書簡から
・今野 喜和人、刀根 直樹 訳「E.W.クラークのNew-York Evangelist投稿記事(その1)
・今野 喜和人、刀根 直樹 訳「E.W.クラークのNew-York Evangelist投稿記事(その2)
・今野 喜和人、刀根 直樹 訳「E.W.クラークのNew-York Evangelist投稿記事(その3)

参考資料解説

本記事は主にF.カルヴィン パーカー 著「仙太郎―ペリー艦隊・黒船に乗っていた日本人サム・パッチ」と足立 和 著「ペリー艦隊 黒船に乗っていた日本人―「栄力丸」17名の漂流人生」を多く参照しているが、パーカー著は仙太郎について非常によくまとまった本ながら、もとの文章の問題か翻訳の問題か意味が取りづらく、また歴史記述の間違いも散見された。例えばゴーブルとサムがハワイを訪れた時点でのハワイ国王はカメハメハ三世となっているが、三世は1854年に死去しており、王妃がエンマという点からもこれは四世の間違い。井伊直弼が直助となっているのは誤字。また、1873年の記述で文部大臣森有礼となっているが、森が文部大臣に就任するのは1885年、など。また、カタカナ語に訳したり、適切でない表現になっていたりするのも気になった。ダン・ケッチを暗殺した男がかぶっていたのは麦藁帽ではなく編笠だろう。日本での最初のプロテスタント矢野の息子はビジネスマンとカタカナ語にするより普通に商人でいいのではないか。ほか、徳川プリンスとか面白いい響きではあるけども、まぁ、丁寧に史料を参照しつつ翻訳しておられると思うが、やはり専門の歴史家のチェックを受けておけば良質な史料になっただろうに惜しいと思う。

一方足立著は主に漂流から帰国までに焦点が当てられているので仙太郎についての記述はそれほど多いわけではなく、むしろダン・ケッチやジョセフ・ヒコらに関する参考にさせてもらった。こちらは目立った間違いはみつけられなかった。香山が浦賀奉行となっているぐらいか。実際には対外交渉のため浦賀奉行を自称した与力。足立著についてはパーカー著でも適宜書名は出さずと言及(例えば仙太郎が人質だったか否かなど)されているので合わせて読みたい。足立著とWEBで公開された記事「社団法人 全日本船舶職員協会「黒船に乗った日本の漂流船員」村上 貢(弓削商船高専・岡山商大名誉教授)」および宮永孝 著「北米・ハワイ漂流奇談」を参照することで、パーカー著の記述を整理しながら全体の流れを把握、「ペリー艦隊日本遠征記」ジョセフ・ヒコ自伝「アメリカ彦蔵自伝」などの一次史料を参照しつつ、「ペリー提督 海洋人の肖像」でペリー艦隊派遣までの歴史的事実を確認、ほかwikipediaの関連記事を参照してチェックした。

来日後は同じくパーカー著の他、宣教師関連の書籍、論文を参照。成仏寺を中心とした歴史の流れは横浜プロテスタント史研究会 編「横浜開港と宣教師たち ―伝道とミッション・スク-ル (有隣新書66)」と高谷 道男 著「ヘボン (人物叢書)」で事実関係を確認した。高谷著では「ペリーの艦隊が香港から連れてきた漂流民仙太郎」となっているが、この記事で書いた通り、事実関係が逆でペリーの艦隊がアメリカから香港に連れてきた漂流民である。他、ゴーブル、クラークらについては上記の論文・資料の通り。ゴーブルの二面性については茂義樹書評論文の『ゴーブルは他の全ての宣教師が高等教育を受け、中産階層の伝道に励んでいたのに対して、生活苦と戦 いながら日本の庶民とともに生き、彼らに伝道することを目指した宣教師であった。(中略)しかし、そうした孤立感故か、日本人への乱暴、暴言はやまず、それが彼を破滅に追いやる一因になる。』という記述に基づく。

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