今ホットな安土城謎の直線道路「大手道」論争―「信長の城」千田 嘉博 著

戦国時代の城で現存しているものは皆無である。なにせ四百年以上前の建築物だけに、遺構が残っているだけで貴重、多くは地中深く埋もれているか、その歳月によって跡形もなく破壊されて消え去っているものも少なくない。そこで、考古学的アプローチで城郭を調査研究することで、その姿を浮き彫りにしようとする城郭考古学という学問分野が発展してきた。本書で、城郭考古学の第一人者である著者によって描かれるのは織田信長が拠点とした様々な城たちの姿である。

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信長初期の城「勝幡城」「那古野城」「清須城」

まず紹介されるのが信長出生の城、「勝幡城」である。信長の出生地としては勝幡城、那古野城、古渡城の三説があったが、近年、那古野城が織田家の支配下に入ったのが信長出生後ということが判り、那古野城とその奪取後に建てられた古渡城説が消え、勝幡城が信長出生地とされた。しかし、同城は江戸時代の治水工事によって城址の中心を日光川が貫き痕跡もほとんど残っていないため、航空写真や地形図と残された絵図、日記等の記録から推測するしかないのだというが、それでも当時の尾張屈指の規模の城であったようだ。

続く、最初の信長の居城「那古野城」と、尾張守護斯波家の本城で没落した同家を擁して入城して尾張支配の中心とし、後に織田家代々の象徴的な城なった「清須城」の二つの平城形式の居城から見えるのは、信長の権力の不安定さだ。那古野城は信長と有力家臣の、清須城では守護、守護代、小守護や有力武士たちの大型の館城がそれぞれ分立的に並び立つ構造で、諸勢力の軍事力に依存した連合的な権力構造であったと見られるという。

戦国期城郭としての「小牧山城」「岐阜城」

信長は桶狭間の戦いで今川義元を倒し、翌年、擁立していた斯波氏の他吉良氏・石橋氏ら尾張の名族を国外に追放、尾張を完全に支配下におくと、永禄六(1563)年、美濃進出を睨んで天然の要害の地に新拠点となる「小牧山城」を築いた。当時主流となっていた戦国期城郭の特徴である山城で、山城の採用は他国の戦国大名から大幅に遅れたものだったが、従来の権力分立的な構造から一転、信長が暮らした山頂の主郭と山麓の信長館に防御機能が集中、信長を頂点とした求心力のある城郭を作ろうとした。特に当時1530年代の畿内を先駆として広まっていた石垣の利用を尾張では初めて導入し、その石垣が残る貴重な城址となっている。また、城下町は、伝統的な正方形街区に代わる長方形街区が導入され、長方形街区の町割りはわかっている限り最古のもので、後に長方形街区と短冊型地割が近世城下町の基本形となる点で、近世城下町の先駆として評価されている。

小牧山城とその城下町は信長の強い意思を反映し本腰を入れて作られた尾張屈指の城だったが、稲葉山城が美濃三人衆の内応などにより永禄十(1567)年陥落、予想外の早さで美濃を支配下に治めることが出来たため、せっかく作られた小牧山城はわずか四年で廃城となり、後に家康によって小牧・長久手の戦いで再建されるまで忘れられていった。

信長は稲葉山城に大規模な改築を加えて「岐阜城」と改め、新たな拠点としたが、その岐阜城の特徴は小牧山城で構想された求心的な構造の発展型で、特に信長とその家族が住んだ山頂の山城と、信長が家臣たちと会う山麓の御殿との二重構造で、これは「戦国大名としての家政的支配(主従制的支配)を担い、それを表象した空間」(千田P149)としての山城と、守護公権を引き継いだ国政的支配(統治権的支配)を担う場であったとともに、それを表象した空間」(千田P149)としての山麓御殿という構造であったとされる。これはなにも岐阜城独特の特徴というわけではなく、同時代の戦国期城郭が大なり小なり持っていた特質であり、戦国期城郭における『山麓と山城に分かれた御殿の分立は、近世城郭では本丸へ御殿を一元化することで解消』(千田P150)されていくことになる。

では、安土城はどのような城であったのか?ここで本書が一石を投じたのが安土城の大手道を巡る議論であった。

安土城大手道論争

安土城は天正四(1576)年から築城が開始され天正七(1579)年に天主が完成して信長が移り住んだ信長の新居城であったが本能寺の変直後主郭部分が炎上、それ以外の部分は残って主郭焼失後も嫡孫三法師ら信長の一族が入ったが、羽柴秀吉の権力が確立されていく過程でその織田政権の首府としての機能を失い、天正十三(1585)年、秀吉は安土城の近くに八幡城を築いて、安土城は廃城となった。

安土城については、平成元年から二十年がかりでの大規模な調査が行われ、様々な画期的発見がなされた。特に幅六~七メートル、長さ一八〇メートルも続く直線道路「大手道」の発見は様々な記録にも残っていなかっただけに大きな議論を呼んだ。この大手道は何のために作られたのか、現在の主流は天皇行幸を目的として作られたとする説である。天正十(1582)年信長公記に安土城の御幸の間を家臣に見学させたとあること、天正四(1576)年の山科言継の書状に正親町天皇の安土行幸の申し出がある旨記されていることなどが間接的な根拠として、当時の信長の権力構造が天皇との結びつきを強めていた点も踏まえて、安土城は都城を模して造られ大手道は天皇行幸を目的としたと考えられた。これを踏まえて近年の信長研究では信長は天皇の権威の下での武家支配を構想していたとする説が有力となり、ここ数年で次々出された信長関連書籍も概ねこれを前提としている。

この天皇行幸説に対し、千田氏は『安土城の城郭構造の分析を十分しないまま、行幸ですべてを説明した』(千田P200)と強く批判を加えている。

『安土城では山麓から山腹にかけて大手道を直線的にしたことを、直接、行幸のためと記した文学資料は皆無でした。また考古学的な発掘でも、大手道の設計を行幸と結びつける物質資料は、もちろん検出されていません。大手道が行幸のための特別な道であったという説は、そもそも発掘で見つけた遺構を、発掘成果や城としての構造解釈からではなく、文学史料から説明しようとしたものといわざるを得ません。信長が小牧山城で直線大手道を先行して用いたことは確実でした。わたくしは安土城の山麓―山腹大手道が直線だった理由を行幸で説明するのは成り立たないと思います。』(千田P201-202)

として、安土城大手道は天皇行幸を目的としたのではなく、安土城を小牧山城、岐阜城の構造の延長線上にある信長を頂点とした求心力の具現化として捉え以下のように大手道に権威の象徴性を見ている。

『当時、大手道を進むと、大手道のはるか先の高みに天主がそびえていました。大手道は信長の権威を人々に印象づける極めて強い象徴性を発揮したのです。直線を選択した理由には、それが周辺の城内機能にとって合理的であったことに加え、ビスタ(見通し)を意識した政治的演出があったと評価できます。』(千田P204)

一つ一つ丁寧に城郭の構造を分析して論を組み立てており、確かに説得力のある説になっている。

これに対して、名指しで批判された研究者の一人である松下浩氏は先日当ブログでも紹介した近著「織田信長 その虚像と実像」(2014)で以下のように反論している。

『ところが、千田嘉博氏は近著「信長の城」の中で、安土城の直線の大手道について、小牧山城の直線の大手道との構造的な類似性から、大手道の構造は行幸に対応するためではなく、信長を頂点とする権力の階層性を視覚的に表示するものと評価した。
しかし安土城と小牧山城を同じ論理で説明しようとすること自体無理がある。永禄六年(一五六三)築城の小牧山城と天正四年(一五七五)築城の安土城では織田政権の歴史的段階もその取り巻く状況も大きく異なっており、それにあわせて築城の目的や意図も異なっていると考えられるからである。そもそも安土城の構造自体は状況証拠に過ぎず、そのことから信長の政策を説明することはできない。安土城の直線大手道が行幸以外の別な理屈で説明できるからといって、行幸のために作られたとする説を否定することはできない。行幸説を否定するならば、信長が行幸を考えていなかったことを明らかにする必要がある。また、権力構造を視覚的に表示しようとしたとする説についても、まずは信長権力の構造を明らかにすることから出発しなければなるまい。その点、千田氏の説は信長の権力構造についての検証がなされていない。小牧山城の築城段階、安土城の築城段階の信長の権力構造について明らかにした上で、小牧山城、安土城の構造との関連性を説明しなければならないと考える。』(松下P97-98)

として、こちらも精力的に信長の当時の権力構造と安土城の構造についての関連性を丁寧に論じている。ただ、「信長の城」を読む限り千田氏も信長が天皇行幸を考えていたことは認めており、信長が行幸を考えていなかったか否かは問題ではなく、大手道建設の第一目的が天皇行幸か権力構造の視覚化か、信長の城の構想に小牧山城から安土城まで連続性が認められるか、というところが論点になっているようだ。

両書を読み比べると、安土城までの道路予想図自体、千田著では大手道が黒金門に接続し、松下著では黒金門ではなく本丸南出入口に接続しているなど千田著と松下著でがらりと違っているのも非常に面白い。直接的な史料が無いがゆえの意見の相違で、おそらくそうそう簡単に決着がつくものでもないだろうが、これが歴史研究の面白さだよなと思う。多分二~三十年もすれば論争に一定の決着がついてある程度定説が固まるだろう。個人的には天皇行幸説の方により説得力を感じているが、一方で千田氏の丁寧な城郭構造から考える姿勢にも好感を覚えていて、ぜひ、今後のさらなる論争に期待したいところだ。

参考書籍・論文
・松下浩著「織田信長 その虚像と実像 (淡海文庫)
・鈴木 重治 西川 寿勝 編著「戦国城郭の考古学 (21世紀を拓く考古学)
・木戸雅寿論文(2007)「安土城の大手道は無かった―登城道と御成道―」財団法人滋賀県文化財保護協会紀要20号

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