醤油の歴史

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古代日本の調味料

奈良時代から平安時代にかけて、貴族たちのあいだで儀式料理として唐の饗応料理の影響を受けた大饗(饗膳)料理とよばれる食事様式が形成されるが、これはたくさんの料理を並べて好みに応じて調味料をつけて食べるもので、使われた調味料は塩・酢・酒・醤(ひしお)であったという。

醤とは食材を塩漬けにして発酵させたもので、動物性の魚醤・肉醤と植物性の草醤・穀醤とに大別される。魚醤は魚の内蔵を塩蔵したもので後に塩辛に、草醤は野菜・果物を塩漬けにしたもので後に漬物に、穀醤は米・麦・豆などの穀類に塩を加えて発酵させるもので後に味噌・醤油へと発展した。日本へはまず草醤が最初に伝わったと考えられており、記録に残る古いものとして、孝謙上皇の女官から平城宮の食料担当者にあてた請求書の文面として醤・酢・末醤(みそ)が挙げられている西暦763年頃と推定される木簡や万葉集にもいくつか醤や酢が詠みこまれた歌もある。いずれも現代の醤油・酢・味噌とは違い泥状の調味料で、これらが中世以降日本の料理の変化とともに形を変えていく。

中世の醤油

醤油の始まりとして伝わるところによると、紀州由良興国寺を開いた僧侶覚心(法燈国師)が建長六年(1254)、宋から径山寺味噌の製法を持ち帰り、それを湯浅の人々に教える過程で桶に溜まった液汁から醤油が考案されたというが、これを裏付ける史料はなく伝承の域を出ない。その他の様々な伝承を除いて、醤油の誕生として現状考えられているのは、中国で明代に大豆・小麦を原料とする醤油製法が確立、日明貿易で日本に伝わり、これを改良して日本独特の醤油が生まれたとする説が有力のようだ。

十六世紀の奈良興福寺多聞院の僧英俊による「多聞院日記」には天文十九年(1550)から天正二年(1572)にかけて醤・味噌・唐味噌という名称が散見され、これらはいずれも大豆、大麦、小麦、塩、麹などの組み合わせで作られたもので、特に唐味噌が最も醤油の製法と相通じており、十六世紀中頃の南都で「事実上醤油に相当する唐味噌汁が使用されるにいたっていた」(「日本の味 醤油の歴史」P9)。ちなみに穀醤としての「味噌」は古くからあるが、現代のような調味料として使われる味噌のルーツは寛永二年(1625)に三河で工業的生産が始まった豆味噌、続く正保二年(1645)に仙台藩屋敷で生産が始まった赤味噌(仙台味噌)を嚆矢とする。醤油・味噌の一般化は江戸時代に入ってからのことだ。

醤油の種類

現在、醤油は「濃口醤油」「淡口醤油」「溜醤油」「白醤油」「再仕込醤油」の五つに大別される。

「濃口醤油」

「濃口醤油」は現在日本で作られる醤油の約80%を占める一般的な醤油で前述の「多聞院日記」の唐味噌も濃口醤油であったと考えられており、十七世紀半ば以降紀州の湯浅と湯浅から製法が伝播した関東地方を中心に発展した。

「淡口醤油」

「淡口醤油」は国内醤油生産の約十五%を占める、関西を中心とした醤油で濃口醤油より熟成期間を短くすることで発酵作用を抑え、色と香りが薄くなる一方で塩分が多めで、煮物、吸い物、鍋物によく使われる。十七世紀半ば、播州龍野が発祥の地とされる。

「溜醤油」「白醤油」

「溜醤油」「白醤油」はどちらも愛知・岐阜・三重の東海三県で主に作られている醤油で「溜醤油」は穀物原料を大豆しか使用しないことで「濃口醤油」より色も味も濃く、つけ醤油や照り焼きに使われ、「白醤油」は逆に穀物原料を小麦しか使用しないことで色が殆ど無く、つゆ、吸い物、鍋料理などに使われる。「溜醤油」は穀醤から派生した醤油の原初に近いものと言われる。「白醤油」の誕生は1802年に三河国新川の現ヤマシン醤油によって始められた説と1811年に尾張国山崎で始められた説がありよくわかっていない。

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「再仕込醤油」

「再仕込醤油」は別名「甘露醤油」ともいい、西中国から北部九州にかけて生産されている醤油で、すでに出来上がった濃口醤油を使って仕込みを行うことで濃く、甘みを帯びている点に特徴がある。また仕込み期間も長く、製造工程の手間から価格も高めとなっている。近世後期、天明年間(1781~89)に防州(山口県)柳井で作られ始めたのが起源で、その後北部九州に広まった。その拡散の過程ははっきりしないが、「日本の味 醤油の歴史」P188によれば、石炭産業の隆盛で過酷な労働をする炭鉱労働者の間で甘みを含んだ濃いい味が好まれたことの影響があるのではないかと推測されている。代表的な九州のメーカーとしてフンドーキン、フジシン、ジョーキュウなど。

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以下、主に「濃口醤油」「淡口醤油」を産んだ関西、関東の醤油産業誕生の歴史を簡単にまとめ。

関西の醤油

湯浅醤油

醤油発祥の地として古くから伝わるのが紀州湯浅である。前述の興国寺の伝承にもあるように湯浅では何時頃からかは定かではないが古くから醤油の製造がなされている。永禄年間(1558~70)にはすでに複数の造家で製造が行われていたというが史料でそれを実証するのは困難だという。

湯浅の濃口醤油は元禄年間に紀州から銚子に移って醤油醸造家を開いた浜口儀兵衛家(現在のヤマサ醤油)など、関東の醤油産業に強い影響を及ぼしているほか、享保十一年(1726)の調査では江戸の醤油の入荷量の76%が関西産の醤油であり、まだ関東の醤油醸造が勃興する前は湯浅を中心とした関西の醤油が日本の醤油製造を担っていた。しかし、十九世紀に入るころから関東の醤油製造の興隆、凶作や社会経済的混乱によって低迷、関東市場から後退、大坂市場も後進の讃岐小豆島や淡口醤油で知られる播磨龍野との競争を余儀なくされ、明治期以降、他の地域の醤油メーカーが企業化し大資本を投下していく波にも乗り遅れて停滞傾向が続くことになった。現在は湯浅の小規模醤油製造業者共通のブランドとして湯浅醤油の名が使われている。

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龍野醤油

播磨国龍野では周辺に播州小麦と三日月大豆の産地を抱え、製塩で有名な赤穂ともほど近いことから醤油の製造に適していた。天正年間(1573~92)に横山家と円尾家によって醤油製造が始められ、寛文年間(1661~73)に円尾家によって淡口醤油が開発されたという。寛文十二年(1672)、龍野藩主となった脇坂安政以降歴代藩主によって醤油製造業が保護され、円尾家が龍野醤油の中核として成長、1770年代までに京都市場を開拓、天保期(1830~44)に一時経営危機に陥るも、大坂市場に進出して他の龍野醤油業者とともに関西で淡口醤油を広めた。

明治に入り、商人浅井彌兵衛が龍野藩の醤油製造所「物産蔵」を払い受け醤油製造業に参入、商標をヒガシマルとした。明治二十九年(1896)、浅井醤油合名会社設立、同社を中核として同じく龍野の旧藩主脇坂家が出資する菊一醤油合資会社と1942年に合併し龍野醤油株式会社が設立、1964年ヒガシマル醤油株式会社となり、現在に至る。

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小豆島醤油

瀬戸内海に浮かぶ小豆島は古くから製塩業が栄え、瀬戸内海海運の要衝でもあり、高温乾燥性の気候が醤油製造に適していたことから十八世期末の寛政年間(1789~1801)に他地域に遅れて醤油製造が始まった。零細製造業者が中心であったが、後発地として大規模な資本投下が必要な醤油製造の規模拡大のため、明治期に入ると他地域に先んじて会社形態を取る醤油製造企業が次々と見られ、機械化、近代化をいち早く進めたことで競争力を獲得、企業競争を経ての技術革新もあって後発ながら醤油産地として地位を築くことになった。代表的なメーカーとして1907年設立の丸金醤油(現ジャパン・フード&リカー・アライアンス)などがある。

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関東の醤油

銚子醤油

銚子は黒潮の流れを介して紀伊半島との結びつきが強く、醤油製造も紀州とのつながりで早くから行われていたという。銚子の飯沼村で初代田中玄蕃が醤油製造を始めたのが元和二年(1616)といわれ、田中玄蕃家は銚子の代表的な醸造家として現在の国内第三位メーカーヒゲタ醤油となる。また、紀州湯浅に隣接する広村から移住してきた浜口儀兵衛によって醤油醸造が始められ、同家は現在の国内第二位メーカーヤマサ醤油となる。

十八世紀前半、江戸市場は関西の醤油がシェアを占めていたがおよそ一世紀かけて銚子と野田の関東醤油がシェアを奪うことになる。文政四年(1821)時点で江戸市場の醤油は一二五万樽中一二三万樽が関東産となっていたという。一貫して田中家・浜口家が中核として銚子の醤油生産をリードし、野田の茂木・高梨家(キッコーマン)との競争や江戸の問屋優位のパワーバランスが銚子の各醤油醸造家に協力関係と資本集中をもたらして、明治になるとヤマサ醤油株式会社、ヒゲタ醤油株式会社の下に統合されていった。

特に浜口家は幕末明治期に入ると地方名望家として知られ第七代儀兵衛梧陵は出身地の紀州藩で勘定奉行となって藩政改革を実施、稲むらの火の故事でも有名で堤防建設など災害対策にも貢献、維新後は自由民権運動を主導したり、初代和歌山県議会議長に就任したりしている。また十代儀兵衛梧桐は積極経営で知られ日本郵船や鐘淵紡績の株主となるほか、和歌山、千葉の企業への積極的出資を行い産業振興に貢献した。ただ、積極経営が祟って日露戦争直後の時期に醤油製造から撤退を余儀なくされてもいるが、日本の植民地開拓による醤油市場の拡大によって復活した。ヒゲタ醤油は戦時下の統制経済の影響で一時キッコーマンの傘下となったが、戦後、分離。あらためて国内三位のメーカーとしてシェアを保持している。

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野田醤油

伝承では永禄年間(1558~70)に飯田市郎兵衛が武田信玄に溜醤油を献上したのが野田の醤油醸造の始まりとされるが定かではない。飯田家は代表的な野田の醤油醸造家の一つだが、近世野田の醤油醸造は寛文元年(1661)に髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始したことに始まる。翌寛文二年、茂木佐平治も醤油醸造に乗り出し、以降、茂木・高梨両家が野田の代表的な醤油醸造家となる。

茂木・高梨家は後にキッコーマンブランドの下で日本を代表する巨大企業へと成長するが、すでに十八世期末頃までに江戸の代表的な醤油ブランドとして名が知られていた。この成長の背景として江戸市場の拡大や利根川水運の利便性などの他、両家の本家と分家の相互扶助関係や、古くからの醤油製造のノウハウ蓄積による技術改良などが考えられているが必ずしもその成長の過程がはっきりしているわけではない。文化期(1804~18)に髙梨兵左衛門家は野田周辺で親鸞ゆかりの寺社巡りが流行ると送迎サービスを始めこれに絡めて自身の醤油ブランドジョウキュウ印の知名度を上げたり、明治元年、茂木佐平治家は吉原に亀甲萬(キッコーマン)印の提灯を下げ、得意先の接待を行って広告に力を入れたりと、先駆的なマーケティング戦略が知られており、他のメーカーとくらべても宣伝を重視していたことは確かなようだ。

明治十九年、いち早く茂木・高梨家を中核として野田醤油醸造組合を結成、同組合は単なる同業者の集まりではなく両家を頂点とした価格協定・出荷統制・原材料調達・職人の賃金協定などカルテル的な組織で、同組合の影響力は他府県にも及んでいたという。組合の強い結束を背景に問屋優位の流通構造を改革、茂木・高梨家では一族が続々と科学者への道を進んで醤油醸造の科学的研究を行い、技術面でも優位性を獲得していく。一時キッコーマンブランド使用を巡って内部対立があったが、大正六年(1917)、新会社野田醤油株式会社を設立、大正九年(1920)、茂木家のキッコーマンに銘柄を統一し、銚子のヤマサ、ヒゲタとともに関東三印として知られることになった。以後、龍野・小豆島がシェアを握る関西、再仕込醤油が大勢を占める九州へと進出、ナショナル・ブランドとしての地位を築いていくことになる。

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また、野田醤油は大半がキッコーマンへ統合されたが、この大合同に参加せず、現在も残るブランドとしてキノエネ醤油がある。他、常州(茨城県)の江戸崎醤油、田崎醤油など茨城県も醤油産地として知られている。

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参考リンク
教科書にものった「稲むらの火」 【ヤマサ醤油株式会社】
野田の醤油発祥地
野田の醤油醸造 – Wikipedia

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