近世オーストリアの名将プリンツ・オイゲンの戦争と生涯まとめ

第二次世界大戦時の軍用艦艇を擬人化した人気ブラウザゲーム「艦隊これくしょん~艦これ~」にその名を由来とする旧ドイツ海軍重巡洋艦のキャラクターが登場したことで、「プリンツ・オイゲン」という名は以前と比べると格段によく知られるようになってきていると思う。ということで十七世紀後半~十八世紀前半のオーストリアの軍人プリンツ・オイゲンについて。

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プリンツ・オイゲンについて

プリンツ・オイゲン(1663-1736)ことオイゲン=フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリナグンは十七世紀後半から十八世紀初頭、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家に仕えた軍人で、対オスマン戦争、スペイン継承戦争などで活躍し、後のオーストリア=ハプスブルク帝国の基礎を軍事面の成功によって築いた人物として評価され、フランス皇帝ナポレオン1世も古今東西の名将七人の中の一人に数えている。

プリンツ・オイゲンのプリンツは公とか公子などと訳される貴族・地位の高い人への敬称で、オイゲンはイタリア系フランス貴族出身のハプスブルク家に仕えたオーストリア軍人で生涯爵位を得なかったことからプリンツ・オイゲン(オイゲン公、公子オイゲンなど)の名で知られるようになった。たまにサヴォイア公オイゲンという記述を見かけたりもするが、当時のサヴォイア公はヴィットーリオ・アマーデオ2世で、プリンツ・オイゲンはサヴォイア家の傍流ソワソン伯爵家の五男なので間違いだ。

母オランプは、かつてはとルイ14世の寵愛を受けていたがそれを失い、権力闘争に敗れて亡命、長兄がかろうじて伯爵家を継いだものの官職も領地も大半を失っていたからフランスでは没落貴族といっていい。母とルイ14世の関係から、ルイ14世の子ではないかという説も根強い。軍人になりたかったが小柄であったこともあり、ルイ14世には聖職者になるよう命じられてどうにも鬱屈していたときに、オスマン帝国の第二次ウィーン包囲が始まり、フランスを出奔、ハプスブルク家に仕えるようになった。

ウィーン解放後の大トルコ戦争で活躍して頭角をあらわし、1697年のゼンタの戦いでは司令官として約三倍のオスマン軍を撃破、一躍キリスト教世界の英雄となった。ゼンタの戦いではオスマン帝国の大宰相以下中枢がことごとく戦死し、以後主な戦争もないまま、カルロヴィッツ条約へと至るから、オスマン帝国の没落の始まりを象徴する戦いの一つにも数えられる。

1701年から始まったスペイン継承戦争では最初イタリア方面司令官、後に軍権を掌握して軍事と軍政両方のトップとなり、対仏戦争を指揮した。英国の名将マールバラ公との共闘で精鋭フランス軍を次々と撃破してルイ14世を追い詰め、フランス軍随一の名将ヴィラール元帥との数々の対決は戦史に残る名勝負だ。

プリンツ・オイゲンの代表的な戦争

「兵は神速を貴ぶ」「兵は拙速を聞く」など軍事で迅速な行動を重視する格言はいろいろあるが、プリンツ・オイゲンの数々の戦術に共通するのもまさにこれで、迅速かつ意表をついた行動でフランス軍やオスマン軍を度々驚かせている。一方で、神聖ローマ帝国は兵站、補給線の確保という点で非常に脆弱であったから、食糧や兵員の確保には相当苦労させられており、常に寡兵での戦いを余儀なくされていた。

スペイン継承戦争の推移を見ていると、兵の動員力が前半はフランスが圧倒的なのに対して、徐々にハプスブルク家が盛り返し、後半には動員数が増えて(フランスの衰退分を差し引いても)互角になっていくので、あまり歴史に記述されないが、兵站の確立という点でプリンツ・オイゲンは少なからず功績があったのではないかと思う。

というかスペイン継承戦争時のフランスってオランダ、スペイン、イタリア、ドイツの四正面作戦を展開し、かつすべての戦線で互角以上の兵力を動員していてなんだこのチートという感じ。それを十年以上続けたら、そりゃ財政破綻します。

以前、近世欧州列強の動員力推移については表を紹介しました。

1470~1710の欧州列強の兵動員数の変化
山内進「掠奪の法観念史―中・近世ヨーロッパの人・戦争・法」に1470年から1710年までのスペイン、オランダ、フランス、イングランド...

ルイ14世が死に際して五歳の後継者ルイ15世に残した言葉はいろいろ切ない。

『まわりの国とは平和に暮らすように。私は戦争を好みすぎた。その点だけは私を見習ってはいかん。あと金の使いすぎもだ。』(友清P391)

プリンツ・オイゲンの代表的な戦争をいくつか紹介していくと、前述のゼンタの戦いのほか、スペイン継承戦争時のアルプス越えに始まるイタリア攻略(1702)、マールバラ公との最初の共同作戦でドイツ戦線のフランス軍を壊滅させたプリントハイム(またはヘヒシュテット)の戦い(1704)、ネーデルラント戦線の帰趨を決したアウデナールデの戦い(1708)、宿敵ヴィラールとの死闘マルプラケの戦い(1709)などが有名。

プリンツ・オイゲンのイタリア攻略

スペイン継承戦争が勃発すると最初の主戦場はイタリアになった。フランス軍を率いるのはカティナ元帥。カティナは平民から元帥にまで上り詰めた老練な将軍で、このとき64歳。防衛戦術においてはフランス軍随一と評判であった。カティナはスペイン軍とフランス側についたサヴォイア公軍と連携して北イタリア一帯の国境線を封鎖、鉄壁の防衛線を築き、「翼でも生えなければ」突破は無理だとフランス軍の兵士たちは自信を持っていた。

ここでプリンツ・オイゲンは東アルプスを越えて中立国ヴェネツィアを通っての北イタリア進出という奇策を取る。このルートは中立国を通過するがゆえに不可能と考えられていたが、02年6月、これを成功させると、一気にカティナ軍右翼を急襲、虚を突かれたカティナは後退を余儀なくされ、これを間髪入れず追撃して、今度はカティナ軍左翼に痛撃を与え、カティナ軍はモデナからミラノ国境付近まで退却した。二度に渡る敗戦で、カティナはルイ14世の怒りを買い更迭、ヴィルロワ元帥に代わった。

ヴィルロワ元帥はカティナと違って大貴族出身、ルイ14世の古くからの友人で、廷臣としては優秀だったが、将軍としては無能とはいえないまでも凡庸な、将才ではなく忠義によって取り立てられたタイプだった。ヴィルロワは交替の際にカティナの守りを固めるようにという忠告を無視して攻めに出たところをプリンツ・オイゲンによって撃破され、1702年1月、ヴィルロワはロンバルディアの都市クレモナに司令部を置いたが、同市には密かに都市に潜入する抜け道があり、プリンツ・オイゲンの副官コメルシーがこの存在を密告によって知り、急襲。不意を突かれたヴィルロワは敢え無く捕虜となった。

二人の元帥を次々と手玉に取られたルイ14世が次にイタリア方面軍司令官として送り込んだのがヴァンドーム公ルイである。ヴァンドーム公はプリンツ・オイゲンの母オランプの姉の子、すなわち従兄弟にあたる人物で、貴族らしからぬみすぼらしい格好と兵士との親密さで貴族の間では評判が悪かったが、公明正大、兵士からの人望が篤く、何より有能だった。スペイン継承戦争においてはヴィラール元帥と並びフランス軍を支える双璧といって良い活躍をすることになる。

このヴァンドーム公にプリンツ・オイゲンはひどく苦戦させられる。というのもこの頃には早くも帝国の補給線がボロボロで現地徴収を余儀なくされ、しかもそれでも足りずにジリ貧状態に陥ったからで、それを察してかヴァンドーム公は持久戦に出たから、無理な作戦を取らざるを得ず、右腕の副官コメルシーを戦死させる損害を負いながら、どうにか戦線を維持させた。兵站で苦労させられた経験から、1703年、彼は半ばクーデターに近い形で国政を壟断する貴族たちを追放して軍権を掌握、軍政の総責任者に就くことになった。

プリントハイムの戦い

1704年初頭のスペイン継承戦争の全体像としては、ドイツ方面でヴィラール元帥の活躍により帝国のドイツ方面軍が撃破されてバイエルン選帝侯・フランス連合軍が帝都ウィーンに迫る勢い、イタリア方面では着々とヴァンドーム公のフランス軍が支配地域を増やして神聖ローマ帝国を圧迫、ネーデルラント方面ではマールバラ公率いる英蘭軍がフランス軍を圧倒してフランスは防戦一方、スペイン戦線ではヴァンドーム公と並ぶ名将との誉高いベリック公の活躍でフランス軍が同盟軍を圧倒、ハンガリー方面では引き続きフランスに支援された反乱軍が活発で帝国の兵力の大半を割かざるを得ない、という情勢で、対仏同盟諸国にとっては特にドイツ方面での戦線の立て直しが急務となっていた。

そこで、帝国ロンドン駐在大使ヴラティスラフの発案でマールバラ公軍のドイツ遠征が企図される。英蘭軍総司令官マールバラ伯(のち公爵)ジョン・チャーチルは元王ジェイムズ2世の側近で、名誉革命時にはステュアート朝軍副将であったが、ジェイムズ2世が戦わずして退くと、兵をとりまとめてオラニエ公ウィレムに降ったから、名誉革命最大の功労者として革命後も重用された。英国首相ウィンストン・チャーチルは彼の子孫にあたる。

このとき、フランスのネーデルラント方面軍は身代金と引き換えに解放されたヴィルロワ元帥が復帰して指揮していたが、マールバラ公は彼の裏を書いて大規模な陽動作戦を展開、ヴィルロワがそれに引きつけられている間に、ドナウ川の海運を使って主力を一気に高速移動させバイエルンへの進出を成功させた。マールバラ公のドイツ進出に大きく遅れて、その意図に気付いたヴィルロワも総兵力四万六千のうち二万五千をネーデルラントに残し、残り二万一千をドイツへと移動させはじめる。フランス軍と対仏同盟軍双方の主力がドイツに集結しつつあった。

1704年夏からプリンツ・オイゲン、マールバラ公共同作戦が展開される。ドイツ方面のフランス軍情勢としては、バイエルン選帝侯マルサン将軍率いるフランス連合軍二万三千、これにドイツ方面のフランス軍主力三万六千が合流を図ろうとする。主力軍を率いるタラール将軍もまた優秀な指揮官でその騎兵隊は勇猛さで知られ、兵の面倒見がよく、彼の部隊ではビスケット等お菓子を大量に積んだ荷馬車が従い、兵士たちに振る舞われていた。また将軍自身もお気に入りのワインや料理を持参して戦場に臨んでいたというから、粋なフランス軍人という印象が強い。(これはフランス軍の兵站の強靭さを示すエピソードでもある)1704年8月3日、両軍が合流し計五万九千、さらにネーデルラント方面からマールバラ公を追ってヴィルロワ軍二万一千が迫ってきていた。

対するマールバラ軍は三万八千、ネーデルラントから迫るヴィルロワ軍を牽制しつつプリンツ・オイゲン軍一万六千がマールバラ軍と合流を図ろうと移動中だったが、フランス軍がドナウ河畔プリントハイム村周辺に集結した情報を把握すると、急ぎ、マールバラ公に連絡を取った。いわく「すべてが迅速さにかかっています

8月13日午後、両軍が合流してプリントハイムに集結しているフランス・バイエルン軍に攻撃をかけた。プリンツ・オイゲン軍一万六千がバイエルン・マルサン軍を牽制して身動きを取れなくしている間に、マールバラ軍三万八千でタラール軍三万六千を撃破するというもので、フランス軍はこれほど早く両軍が合流して移動してくるとは思っても居なかったから、軍勢が見えた時は敵の斥候隊かと勘違いしたほどだったという。

完全に虚を突かれたフランス軍の準備が整う前に一気に同盟軍が攻勢に出る。当初の予定どおりバイエルン・マルサン軍はプリンツ・オイゲン軍の前に身動きが取れず、マールバラ公軍の攻撃でタラール軍の大半がプリントハイム村に閉じ込められた状態になり、タラールは自ら騎兵隊の陣頭に立って奮戦、一時マルサン軍左翼のアイルランド歩兵部隊(通称「ワイルドギース」)が包囲網をくぐりぬけてマールバラ軍を混乱させるも、その日の夕方のうちに勝敗は決した。最後まで奮戦したタラール自身も含めてタラール軍一万一千が捕虜となり、バイエルン・マルサン軍も敗走、その途中でバイエルン軍は逃亡者が続出して軍の体をなさなくなり壊滅、バイエルン選帝侯自身もフランスへの亡命を余儀なくされた。

この戦いによって、フランスのドイツ戦線は完全に瓦解、ルイ14世は窮地に立たされることとなった。

アウデナールデの戦い

1704年のドイツ戦線の崩壊に続いて1706年にはヴィルロワ元帥指揮のネーデルラント方面軍がマールバラ公によって壊滅させられ、その対処のためにイタリアのヴァンドーム公をネーデルラントへ、国内で内乱の鎮圧にあたっていたヴィラールをドイツ戦線の再建に向かわせたが、ヴァンドーム公が退いた後のイタリアをプリンツ・オイゲンが奪取してイタリア半島の大半を支配下に治める勢いに盛り返し、前半の優位はどこへやら、フランスはひどく追い詰められていた。とどめを刺すべく、今度はプリンツ・オイゲンのネーデルラント遠征が実現、オイゲン・マールバラ公連合軍は、1708年、フランス軍精鋭ヴァンドーム公軍と対決する。

ルイ14世はこのとき人事面で大きな失敗をする。孫のブルゴーニュ公ルイ(ルイ15世の父)がネーデルラント方面での指揮を執りたいと願い出てきたため、これを認め、実質ヴァンドーム公が指揮を執るにしろブルゴーニュ公を総司令官としたのだった。絶対君主ルイ14世も、人の子、おじいちゃんなので可愛い孫には逆らえない。

1708年六月、フランス側はプリンツ・オイゲンがネーデルラント方面へと進出してきていることは承知していたが、プリンツ・オイゲン軍の位置から、それより先にスペイン方面のベリック公の援軍との合流が先に出来るだろうという見込みの下で行動していた。ところが、プリンツ・オイゲンは6月29日、募兵もそこそこに凄まじい速度で軍を動かした。60時間で50マイル(約80キロ)というから、大規模な軍の移動としては異例のスピードでマールバラ軍と合流、7月11日、目の前にオイゲン・マールバラ軍が姿を表した時、伝令の報告を聞いたヴァンドーム公は「悪魔があいつらを運んできたに違いない」と叫んだという。

アウデナールデの戦いは当時としては異例の展開をたどった。通常であれば軍が集結して布陣してから開戦となるところが、今回は先陣から会敵次第戦闘に入り、以降、到着した部隊が順次投入されていくというもので、それだけに戦闘指揮が非常に困難なものとなった。

連合軍は総数約八万、フランス軍約八万五千だったが、このフランス軍の主力を構成するブルゴーニュ公軍がイレギュラーな事態に対応出来ず、定石通り安全な陣地の確保に時間をかけてしまい、その間ヴァンドーム公軍がひたすら同盟軍の攻撃に晒されるという事態になった。ヴァンドーム公軍がマールバラ、プリンツ・オイゲン両軍の波状攻撃で大ダメージを受けて戦闘能力を喪失したあと、布陣を終えたブルゴーニュ公軍を連合軍が包囲、フランス軍は敗走した。

怒り心頭のヴァンドーム公はルイ14世にこう書き送った。

『どうすれば歩兵六十個大隊、騎兵百八十個大隊が、六時間もの間我々が奮戦するのを眺めるのに満足して、天井桟敷からオペラでも見るように見物していられたのか理解に苦しむ』(友清P232)

この戦いに参加したザクセン軍司令官シューレンブルクはプリンツ・オイゲンが語った言葉としてこう書き留めている。

『自分は、作戦会議というものは、だれかがなにもやろうとしないときにだけ、さらに、下級将校や部隊そのものについて、悪しき印象が感じられたときにだけ、もたれるべきものだと考える。自分は(中略)あれこれ指図について文書に書いたことはない。なぜなら、軍隊というものは、戦闘配置についた時点で、各人がなすべきことについて心得ているはずだからだ』(マッケイP145~6)

続いて要衝の都市リールも奪われ、フランスはネーデルラント方面の支配権を喪失した。

マルプラケの戦い

いよいよスペイン王位どころか、フランス本国すら危うくなってきたルイ14世は和平交渉を各国と行おうとするが条件面で折り合わず、というかルイ14世が妥協できず、ヴィラール元帥にすべてを託した。

ヴィラール元帥は1703年、イタリアからドイツ方面へ移動したカティナ元帥の幕僚として神聖ローマ帝国ドイツ方面軍を撃破したことで頭角を表し、以後、ウィーン攻略作戦の立案、フランス内乱「カミザールの乱」の鎮圧、崩壊したドイツ戦線の立て直しなどで文字通りフランス軍の柱石として活躍した。広い戦略眼を持った自他共に認めるフランス軍随一の名将である。一方で傲慢な態度で直截な物言いが周囲とぶつかりやすく、それが理由で少なからず失敗している。

プリンツ・オイゲンもマールバラ公も戦局と国際情勢とを鑑みて最早大規模な会戦は現実的ではないと考えていたという。では、不屈のルイ14世にどうやって休戦を飲ませるのかというと、フランスの首都パリを突くという結論に至る。ヴィラールもその可能性を考慮して、徹底的な防御網を築いていた。

1709年6月27日、オイゲン・マールバラ連合軍はリールの東トゥルネーを包囲して二ヶ月あまりかけてこれを攻略、フランスの絶対防衛線の要衝モンスへと進軍を開始する。一方でヴィラールも兵をまとめてモンスの東、マルプラケ村の森林地帯に陣を敷いた。

『九月七日、八日、彼は、軍の両翼を二つの森の中におき、その真ん中に、砲兵隊と歩兵隊の十字砲火の狙い撃ちの目標として、隙間をつくっておいた。樹木は切り倒されて、鎖でつながれ、防御壁にされた。森の中に要塞がつくられたのである。』(マッケイP159)

9月10日、同盟軍がマルプラケに布陣、翌9月11日未明、戦闘が始まった。実数についてマッケイは連合軍十一万・フランス軍八万、友清は連合軍八万六千・フランス軍七万六千、飯塚は連合軍九万・フランス軍八万人余りと書いている。何にしろ、スペイン継承戦争史上最大の会戦となった。

ヴィラールが自陣中央に敵を誘い込もうとしているのを見て取ったプリンツ・オイゲンは両翼への圧力を加える作戦に出る。まず連合軍右翼プロイセン部隊がヴィラール元帥率いる仏軍左翼に攻撃を加え、ザクセン軍が続くがヴィラールの守りに押し返される。九時半、オラニエ公率いるオランダ軍がブーフレール元帥率いる仏軍右翼を一時後退させて防御陣を奪取するが、すぐに激しい反撃にあって一時間で五千もの損害を出して撤退を余儀なくされ、一進一退の攻防から次第に総力戦となった。プリンツ・オイゲンもマールバラもヴィラールも銃弾の雨をかいくぐりながら指揮を取っていたが、次第に連合軍が圧倒し始める。乱戦の中でヴィラールが左足に銃弾を受けて昏倒、ブーフレール元帥が指揮権を引き継いで猛攻をしのぎつつ、全軍を撤退させ、午後三時までに戦闘は終了した。

フランス軍の死傷者約一万二千に対して、連合軍の死傷者約二万四千、死傷者の搬送作業になお3日を要したといい、スペイン継承戦争最大の会戦にしてもっとも悲惨な死闘となった。

連合軍を率いるオイゲンとマールバラ公には、盤石の布陣のヴィラール軍を無視してモンス攻略を続けるという選択肢もあったが、敢えて会戦に臨む方を選んだ。フランス軍主力を叩いて勝利を確実なものにするという目的とは別に、フランス軍随一の名将が背水の陣で手袋を投げつけてきているのだからそれに正々堂々応える、というある種の騎士道精神的な意識もあったのかもしれない。ゆえにこの戦いには批判も多く、例えば同会戦に参加した英国軍ケイン准将は「われらの二人の将軍は、必要もないのに、かくも多くの勇敢な兵士の命を捨てさせたことに対し、非難されるべきである。」(マッケイP161)と書き残している。

スペイン継承戦争にはこのような戦争指揮官の責任について議論となり得る例が多く見られる。他にも、プリントハイムの戦いに先立ち、マールバラ公はバイエルン選帝侯を和平交渉に向かわせる意図で、バイエルンの農村を多数略奪・破壊してまわった。当人にとっても苦渋の決断で、「この上なく不本意なことで、絶対必要でなければ、何があろうとこんなことに同意したりはしない」と妻にあてて心情を吐露した手紙を送っているが、彼の子孫、英国首相ウィンストン・チャーチルはこう批判する。

『権力者はどう感じたかではなく、何を行ったかによって判断されるべきである。意志がもたらした悲惨を嘆いて見せるのは、傷ついた良心にとっての安易な慰めでしかない』(友清P110)

マルプラケの戦いの勝者がどちらであったのか。フランス軍は指揮官ヴィラールが負傷したものの、死傷者は連合軍の半分で、撤退も秩序だったものだった。一方で連合軍は直接の戦闘では最終的に仏軍を後退させたが、死傷者は仏軍の二倍に上り、結局追撃を行う余力も残っていなかったし、後にモンスを攻略したものの、それ以上のパリへの進撃も行われなかった。当事者たちの間でのいろいろな見解を総合すると、連合軍側は勝利したものの犠牲が大きすぎた、と捉えており、フランス軍は敗北したが敵の侵攻を防ぎ甚大な損害を与えた、というものだったようだ。

何にしろ、この戦いの犠牲の巨大さが各国で和平の機運を高めたことは間違いない。

あと後世、ナポレオン1世をしてドゥナンがフランスを救ったと言わしめた「ドゥナンの戦い」も面白いのだけど割愛。

ラシュタット条約

スペイン継承戦争の講和条約はユトレヒト条約ラシュタット条約の二つがあるのはよく知られているとおりだが、前者がフランスと神聖ローマ帝国以外の諸国との講和条約で、後者がフランスと神聖ローマ帝国との講和条約になる。そのラシュタット条約の全権代理となったのがプリンツ・オイゲンとヴィラールで、この二人のやりとりがちょっとおもしろい。

『二月にはいり、オイゲン公子は思い切った手に出た。自分に与えられた訓令をヴィラールに開示し、ヴィラールにも手の内を明かすように求めたのである。腹のさぐり合いが付き物の外交交渉ですっかり手の内を明かすというのは実に思い切った考えだった。二人は合意できた点のみを盛り込み、スペイン王位やカタロニア問題は棚上げにした条約を作り上げた。』(友清P363-364)

スペイン王位を巡る争いから始まった戦争の講和条約にスペイン王位について取り決めないというのは斬新だが、スペイン王位に未練たらたらの皇帝カール6世を納得させる内容にまとめることで戦争の終結を優先させ事実上ブルボン家のスペイン王位継承を認めたものだ。神聖ローマ帝国は1725年のウィーン条約で正式にスペイン王位を認めることになる。一方でカタロニア問題というのは、カール6世派のカタルーニャ勢力問題で、結局力づくで鎮圧された。これ以前から様々な対立があるが、これもまた現代まで残るカタルーニャ問題の遠因の一つである。

プリンツ・オイゲンの代表的な名言としてよく引用される「和平を目的としない戦争は、すべて愚行である」の言葉どおり、スペイン継承戦争の後半になると彼は和平という落とし所をどう見出すかに最大の目標を置いて行動していたようで、戦いのための戦いに陥りがちな当時の軍人たちとは一線を画している。もちろん、ある程度の地位の軍人ともなれば戦争の終わりを考えるのは当然の思考であって、プリンツ・オイゲン以外の多くの将軍たちも同様の考えの下に行動していたから特別視するものではない。一度戦争が始まれば、それぞれが目指す和平の形のわずかな違いがさらなる戦いを求めざるを得なくなるという連鎖に陥ることを、プリンツ・オイゲンの戦い、ひいては歴史上の多くの戦争が物語っていると思う。

コンパクトなオーストリア国家

ドイツ三十年戦争の敗北によって神聖ローマ帝国におけるハプスブルク家主導の絶対主義化の夢は潰えたが、それに代わる新たな国家像としてハプスブルク家の世襲領土を中核とする近代国家化が模索されていた。それが具体的に形になるのがプリンツ・オイゲンの時代のことである。その構想者となったのが、上記のプリンツ・オイゲンとマールバラ公共闘を演出した外交官ヴラティスラフで、ヴラティスラフはヨーゼフ1世(在位1705~11)治世下でボヘミア宰相に抜擢され外交を統括、スペイン継承戦争の講和会議ユトレヒト会議を主導していた。

彼の構想が『世襲領土とイタリアからなるコンパクトなオーストリア国家の創出』(マッケイP185)で、彼はスペイン継承戦争終結前の1712年に亡くなるが、彼の構想はプリンツ・オイゲンも共有するところであり、ヨーゼフ1世、カール6世などハプスブルク家当主たちも認めていた。スペイン継承戦争を通じて、彼らは神聖ローマ帝国の広大ゆえの脆弱さを痛感し、プリンツ・オイゲンが国政を主導する1720~30年からマリア・テレジアの代にかけて「帝国」から「国家」へと変貌するための土台が作られる。

スペイン継承戦争後、プリンツ・オイゲンは再侵攻してきたオスマン帝国を撃破、オスマン帝国の侵攻に呼応してイタリアに進出しようとしたスペインを撃退すると、ハプスブルク家のイタリア・オーストリア地域への支配を確立し、以後協調外交に転じる。この時期には肩書はネーデルラント総督にして帝国軍事委員会総裁(軍政のトップ)兼軍務総監(軍のトップ)だが事実上帝国宰相あるいは副皇帝とでも言える権力を振るっている。ロシア、プロイセン、スペイン、イギリス、帝国諸侯、イタリア諸国と順次同盟を締結してオーストリアを中心とした安全保障体制の確立を主導した。

一方でこの同盟関係はフランスを孤立させる冷戦的な様相でもあり、このフランス側の危機感が後のポーランド継承戦争の引き金となる。同時にプリンツ・オイゲン(と英国首相ウォルポールの協調)によって構築された戦後体制は準戦時下における和平の存続とでもいえる体制であったから、諸国は平和な中で軍事力を増強し続け、彼の死後、十八世紀半ばから始まる一連の国際戦争の土壌ともなった。

フリードリヒ2世とプリンツ・オイゲン

ポーランド継承戦争では総司令官として出陣したが、すでに70歳になり全く精彩を欠いて後手に回った一方で、対するフランス軍の方もプリンツ・オイゲンという名前だけで恐れて大規模な攻勢に出ず、結局膠着状態のまま終戦を迎えている。このポーランド継承戦争で、プリンツ・オイゲンの下についたのがプロイセンの王太子フリードリヒ、のちの大王フリードリヒ2世で、彼は毎日のようにプリンツ・オイゲンと食事を共にして、オイゲンの戦略を学んだという。

フリードリヒはこのときのオイゲンについて「彼の身体はそこにあったが、魂は去っていた」(マッケイP319)と彼らしい毒舌で切り捨てつつも、まぁ、この人は基本的に史上屈指のツンデレなので、かつての名将の言葉に熱心に耳を傾け、『とくに、計画は綿密に作成せよ、チャンスは、それが訪れたとき、しっかり掴め』(マッケイP319)という言葉に強い印象を受けたという。後に、フリードリヒ2世はその言葉を忠実に、かつ、より洗練させて、オーストリアに対し実践してみせるのはよく知られている通りだ。

フリードリヒ2世のプリンツ・オイゲン評は以下のとおり。

『プリンツ・オイゲンがオーストリアに仕えたのはオーストリア軍にとって幸運だった。フランスで彼は僧服を着せられ、竜騎兵一個中隊を求めたが国王ルイ十四世から拒否された。彼の天分を理解しない宮廷は彼にマダム・クロードという渾名を与えた。彼はフランス宮廷を見限り、レオポルト帝に仕えて大佐に任命され、連隊を持ち、軍事的天分を発揮した。彼は大元帥、軍事委員会総裁となり、カール六世の筆頭大臣にさえなった。彼はオーストリア領のみでなく、帝国を支配する事実上の皇帝であった。彼の精神力が保持されている限り、オーストリアは勝利を重ねた。だが高齢と病がつのってくると、帝室の繁栄のために尽くしたその頭脳も機能をはたし得なくなった。コンデ公も、オイゲンも、マルバラ公も、精神の衰えが肉体の終わりに先行することに気付いている。人間というのは哀れなものだ。』(飯塚P281)

皇帝にも模されるほどの絶大な権力をふるいながら、彼は生涯叙爵せず一軍人として通し、愛人はいたが結婚せず、子どももおらず、死に際しても遺言状を作成しなかったから、十八世紀バロック建築の代表である彼の居宅ペルヴェデーレ宮をはじめその財産の大半はハプスブルク家が収蔵することとなった。

なぜプリンツ・オイゲンはドイツの英雄になったのか

ということで冒頭に戻るのだが、イタリア系フランス貴族出身のオーストリア軍人がなぜナチス・ドイツ海軍の重巡洋艦に名を使われるようなドイツの英雄となったのか、である。彼は近代になるとドイツの国家的英雄に祭り上げられていくのだが、その経緯についても簡単にまとめておく。これについては飯塚著が詳しい。

プリンツ・オイゲンの「再発見」は二十世紀初頭、第一次世界大戦下のオーストリア=ハンガリー二重帝国である。1915年、詩人ホフマンスタールは戦時下の愛国心を高揚させるため、「プリンツ・オイゲン、高貴な騎士」という書籍を発表した。プリンツ・オイゲンがオスマン軍を撃破して英雄になるという読み物で、その背景として流れるのは大ドイツ主義的理想である。

大ドイツ主義あるいは汎ドイツ主義は十九世紀後半にオーストリアで誕生した思想運動である。普墺戦争の敗北とドイツ帝国の成立によってオーストリアはドイツ領土の大半を喪失するが、その結果、帝国内のドイツ系住民の割合は減少、そこで、オーストリアのドイツ系住民とドイツ帝国との統合による民族国家の建設をしようという主張が高まってくる。当時の不況と反ユダヤ主義の台頭とも相まって、非アーリア民族の敵視と排除、アーリア民族の純化を目標とする運動が盛んになった。この主な大(汎)ドイツ主義運動提唱者ゲオルグ・シェーネラーについては以前まとめたので以下の記事を参照ください。

シェーネラーとルエーガー~ヒトラーが範とした二人の反ユダヤ主義者
アドルフ・ヒトラーは「わが闘争」で強く影響を受けた人物として二人の政治家の名を挙げている。ゲオルク・フォン・シェーネラー(1842 – 19...

第一次大戦はまさにそのドイツ帝国とオーストリア帝国、さらにオスマン帝国の協力による戦争であったから、この大ドイツ主義運動は盛んになり、愛国心を高揚させる様々なパンフレット、書籍が次々と発表される。プリンツ・オイゲンも、その文脈で再登場させられた。

『ホフマンスタールがこの作品によって表現しようとしたオーストリア国家と大ドイツ理想像は次のようなものである。――神聖ローマ帝国は三十年戦争とそれに続くウェストファリア平和条約によってますます形骸化した。しかし、それから間もなくはじまった「トルコの脅威」がハンガリアからウィーンの城壁に迫るにおよんで、オーストリア帝国は統一体として目覚める。この時、レオポルト帝のもとに馳せ参じたプリンツ・オイゲンの活躍によってハプスブルク君主国は救われた。ホフマンスタールは十八世紀の偉人としてプロイセンのフリードリヒ二世(大王)をプリンツ・オイゲンと対比させる。それはまた、十九世紀後半にプロイセンが主体となって組織されたドイツ帝国(一八七一年)とオーストリア帝国が、一八〇六年にすでに解体された神聖ローマ帝国に代わってその機能をはたすべきだというホフマンスタールの主張を裏付けるための伏線でもあった。大ドイツはこの二大帝国の協調によって発展する運命にあるというのである。

(中略)

また、プリンツ・オイゲンの対トルコ戦・東欧制覇からホフマンスタールは、ドナウ沿岸諸国がオーストリアの文化理念に臣従すべきだとする構想へと飛躍する。いや、むしろ、それは彼の政治理念でもあるのだろう。プリンツ・オイゲンの東欧における敵はトルコだったが、第一次世界大戦の時の敵はもちろんロシア帝国である。』(飯塚P316-317)

ハプスブルク家の防衛、コンパクトなオーストリア国家の建設を目指し、叙爵せず、カトリックから自由主義者まで分け隔てなく交友関係を持ったコスモポリタン的なヨーロッパ人として振舞っていたプリンツ・オイゲンは、アーリア民族による大ドイツ国家建設とそれにともなう帝国主義的拡大の象徴として再発見され英雄として祭り上げられた。オスマン帝国と近代ロシア帝国が重ね合わされるのも特に珍しくなく近代史でよく見る話だ。こうして再発見されたプリンツ・オイゲンは、ドイツの民族的英雄として人気を博し、広く知られるようになっていった。

このような第一次大戦以降オーストリアからドイツにかけて広がった国民的人気が、まさに大ドイツ主義的理想の実現者であるナチス・ドイツ体制において重巡洋艦の名前として採用される背景となったということのようだ。国民国家誕生以前の人物が「国民的英雄」として作られる過程としてもプリンツ・オイゲンの存在は興味深い。

参考書籍
・デレック・マッケイ 著「プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア―興隆期ハプスブルク帝国を支えた男
・飯塚 信雄 著「バロックの騎士―プリンツ・オイゲンの冒険
・友清 理士 著「スペイン継承戦争―マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史
・長谷川 輝夫 著「図説 ブルボン王朝 (ふくろうの本)
・南塚 信吾 編著「ドナウ・ヨーロッパ史 (世界各国史)

プリンツ・オイゲンの伝記としてはマッケイ著と飯塚著、英国の中心に据えてのスペイン継承戦争全体の流れの中でオイゲンの活躍を描く友清著の三冊を主な参考文献としつつ、背景となる歴史の把握として他の三冊が一応直接的な参考書籍。とりあえず今日本語で読めるオイゲンの伝記は二冊とも絶版なので、新書とかで誰か出してくれると嬉しい。ちょうど、三十年戦争・ルイ14世とマリア・テレジア、フリードリヒ二世とをつなぐ時期に位置しているので面白い人物だと思うのだが。

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