十二世紀南九州の覇者「阿多忠景」について

元木泰雄編「保元・平治の乱と平氏の栄華 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第一巻)」で十二世紀に薩摩を中心に南九州一帯を支配した阿多忠景について詳しく書かれていて、名前はうっすら聞いたことがあるけど・・・程度の認識だったこともあって同書の『栗林文夫「阿多忠景と源為朝――その伝説と実像」』から簡単に紹介。

阿多忠景(生没年不詳)は桓武平氏の流れをくむ薩摩平氏の一流で十二世紀初頭から1160年頃にかけて、薩摩一国を自身の直接統治下に置き、さらに彼に従う豪族たちを通じて大隅・日向も傘下におき南九州三カ国を支配したという南九州の覇者である。また、保元物語にある九州の惣追捕史を自称し源為義に追われて九州に下ってきた源為朝に娘を嫁がせてその後ろ盾となった「アワノ平四郎忠景」と同一人物と考えられ、琉球まで影響力を及ぼしていたと言われていることもあり、後の為朝征琉伝説にも影響があったという。

彼が本拠地とした薩摩国阿多郡(現鹿児島県南さつま市金峰町)は当時、中国商人も多く逗留する交易の中心で、その交易で築いた莫大な財が彼の権力の源泉であったと考えられている。十二世紀~十三世紀の持躰松遺跡、小薗遺跡(金峰町)も阿多氏に関わりのある遺跡と考えられ、発掘調査の結果、十二世紀中頃から十三世紀前後にかけて輸入陶磁器のピークをなすことと、阿多忠景の権力のピークが1150年頃にあるとされていることの関係が調査されている段階のようだ。

史料上の初登場は保延四年(1138)、「相伝の私領」を観音寺に施入する旨の施入状で有力な領地を持ち有力寺院と関係を持っていたことが示されているようだ。次は永暦元年(1160)、忠景と兄忠永が叛乱を起こしたため、薩摩国から鎮圧の要請が来たというもので、同年7月、平家貞率いる追討軍が派遣されて忠景は貴海島(硫黄島)に逃亡、家貞は数度に渡り貴海島への渡航を試みるが風波激しく渡航することができず撤退した。この叛乱は南九州一帯に広がっており、阿多忠景に同調した豪族たちが多かったようで、応保二年(1126)の史料に大隅国の有力者税所篤房が阿多忠景の武力を背景に大隅国曽於郡の郡司の地位を奪ったことが書かれていることなどから、叛乱以前に広く南九州に影響力を及ぼしていたと考えられている。

現存する二種類の系図にも、久安六年(1150)に従五位下、薩摩国押領使、下野守に任ぜられたこと、「三カ国住人等召し仕う」ほど勢力を広げていたこと、「薩摩一国惣領」したことが記載されており、どうやら南九州一帯を支配下におさめていたと考えられている。しかし、実際にどの程度の影響力をどれだけの範囲に行使し得たのかは謎が多く、史料として確認出来る範囲としては薩摩国阿多郡とその周辺、上記の大隅国の税所氏に関する文書などということで、最大南九州三カ国から琉球諸島にかけて、最小では薩摩国阿多郡周辺と大隅の狭い範囲であるかもしれない。

何にしろ、彼に関する史料は非常に少ないようでその実態はよくわからないというのが実情のようだが、十二世紀初頭に南九州一帯に非常に強い影響力を持ち、1150年頃をピークにして1160年頃までに急速に衰退して没落した人物と考えられている。ところで、忠景の叛乱は平治の乱の直後にあたるが、何か関連があったのだろうか。また、実際のところ為朝との関係は、源為朝が阿多忠景の聟という理解が広がったのが江戸時代で、現存する阿多忠景の系譜にはその旨は記載が無いこともあって、確かなところはわからないようだ。

このあたり、全く同時期に奥州藤原氏が台頭していること、さらには後にアイヌへとつながる北方世界の諸文化や、倭寇へとつながる日本海海民の登場、グスク文化から琉球王国の誕生へと至る琉球の統一ともあわせて、平安末期の日本周縁の激動を思わせるところがあり、非常に興味深い。

惜しむらくは関連する史料が非常に少ないことからその実像が全くと言っていいほどよくわからないことだろう。奥州藤原氏に匹敵する南九州独立王朝とかまで妄想したいところではあるが、さすがにそういうものではなさそうでもあり。ただ、阿多忠景没落後の有力者として阿多宣澄、鮫島氏等という名前も挙げられており、気になるところだ。ちなみに阿多氏を輩出した薩摩平氏はその後も南九州一帯に勢力を保ち、島津氏と激しい主導権争いを繰り広げて、十四~十五世紀ごろまでに島津氏に臣従していく。

参考書籍・サイト
・元木泰雄編「保元・平治の乱と平氏の栄華 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第一巻)」
・日隈正守論文「中世前期薩摩国阿多郡の歴史的位置について ―国衙関係寺社を中心に―
かごしま考古ガイダンス 第44回
薩摩平氏 – Wikipedia

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