「徳川慶喜 (人物叢書)」家近 良樹 著

江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の評伝である。近年の幕末史の様々な知見をふんだんに盛り込んで、複雑怪奇、敵味方がくるくると入れ替わる幕末諸勢力の情勢の中に一橋慶喜の行動を位置づけて、彼の事績を描いており、さすが家近氏といったところだ。それほど多くの評伝を読んだわけではないが、それでもこれまで読んだこのような人物伝の中でも屈指の面白さだった。2014年1月刊。

徳川慶喜 (人物叢書)
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家近 良樹
吉川弘文館
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江戸幕府を終わらせ鳥羽伏見の戦いでは無様に敵前逃亡をして、以後表舞台に一切姿を表さなかったゆえ、彼には悪いイメージが強く残っている。一方で大政奉還に至るその政治過程では確かに他を圧倒する巧みな政治手腕を見せ、いち早くばっさりと髷を落として開明的な姿勢でも知られ、切れ者としての評価も高い。この評価が一定しないところが慶喜の慶喜たるゆえんとでも言おうか、その毀誉褒貶と彼の行動原理もまた、その足跡を丁寧に追うことで浮き彫りにされている。

とりあえず、幕末屈指の「切れ者」であったことはもう揺るぎないだろう。頭が良すぎて警戒されるタイプであるがゆえに、若いうちから如才無い振る舞いも身に付けていた。『慶喜という人物に特有の個性として、常に醒めた眼でもって物事を見つめているようなところがある。これは、他人の上位に立つことを義務づけられた人物に、ある程度の範囲内で求められる、時に馬鹿になることができない性分の持ち主であったということでもある。』(P17-18)

彼の行動を後々まで大きく左右したのが彼の父水戸烈公こと徳川斉昭である。攘夷と幕政改革とを激しく叫ぶ斉昭は、幕閣からも大奥からも強く嫌悪されたため、その子で斉昭に親しい攘夷派から次期将軍としてささやかれていた慶喜に対しても強く警戒心を抱かれることになった。この幕閣からの不信感は斉昭死後も幕府滅亡まで長く慶喜についてまわり、それが彼の行動を大きく左右することになった。

幕閣からの不信感とその家柄ゆえの敵の多さ、そしてわずか十万石程度でしか無い一橋家という、不安定で脆弱な地盤ゆえに彼の行動はまず保身が第一にならざるを得ない。将軍候補であるがゆえになおさらだ。その地盤は当初は斉昭の影響下で攘夷派だったが、彼自身は特に攘夷主義に深入りするつもりはなかったらしい。『攘夷論を唱えても、過激(暴力的)な主張とは一歩も二歩も距離をおいて』(P17)いて、相当現実的な振る舞いだった。理想に殉じる志士などではなく、政治家としてのそれを若いうちから身に付けていたといえる。

だから、井伊直弼による日米修好通商条約締結の際も、彼が攘夷派の代表として井伊に異議を申し立てたのはその内容ではなく、そのプロセスが天皇への礼儀を欠いていることだった。安政の大獄で蟄居させられるが、このとき特筆されるのが、やたらめったら孤独に強かったことだ。松平春嶽が謹慎生活の苦しさにすぐに根を上げたのに対して慶喜は特に心身の問題もなく過ごしていたらしい。井伊暗殺後復権して将軍後見職に就くと開国を進めたい幕閣と攘夷を貫きたい朝廷の間で横浜一港鎖港という妥協案を絞り出して周旋に務めるなど攘夷派とも一線を画した柔軟さを見せる。

将軍後見職とはいえ、その権力基盤の脆弱さは非常にネックで、盟友松平春嶽が政事総裁職を退くと彼も将軍後見職を辞めて新たな権力基盤をもとめて京都にその足がかりを築く。禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮という職に就いて京都守護職の会津藩主松平容保、京都所司代の桑名藩主松平定敬と接近、歴史的に「一会桑政権」と呼ばれる幕閣とも距離を置く、朝廷を抱え込んだ畿内の政治勢力として独自の基盤を築く。

ここまでに、自身の支持基盤だった攘夷派の天狗党を見殺しにし、薩摩藩主島津久光らとともに創設した参預会議を解散させるなど、自身の味方となった人びとをばっさりばっさり切り捨てていっている。その時々の判断としてはこの上なく合理的で的確なのだが、その結果として彼は次々と敵を作る結果になっていった。この、その時々の判断としては最適だが、結果として酷薄に過ぎるというのは、その後も彼の行動としてつきまとう。長州説諭論から一変して長州征伐を進めたり、自身が唱えていた横浜鎖港論を撤回して朝廷を恫喝して条約勅許を引き出したり、第二次長州征伐では自身の出兵を突然取りやめて、会津・桑名の離反を招いたりと、その判断は当時の情勢を踏まえれば的確、しかもこれしかないぐらい見事な一手なのだが、やはり手のひらを返される方にしてみればたまったものではない。

第二次長州征伐時の出兵取りやめで慶喜に失望した会津・桑名の離反によって一会桑政権は崩壊、そのかわりに彼はすでに徳川宗家を継承していたから、その基盤を急速に整えるべく合理的な改革を推し進め、木戸孝允は「一橋の胆略、決して侮るべからず、もし今にして朝政挽回の機を失ひ、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生を見るがごとし」と、慶喜の幕政改革に強い警戒をしている。もちろん、過剰評価ではあるのだが、少なからず成果も出していたという点で、行政家としても決して無能ではない。

大政奉還も、提出側である薩長土は大政奉還するとは全く思っていなかった。どうせ断るから、それをネタに追い込んでやろうぐらいに思っていたところが、まさかの大政奉還断行で、攻め手であるはずの西郷隆盛も大久保利通も唖然としたようだ。慶喜は新政権でのポストを当て込んでいたとするのが有力な説としてあるが、本書によれば、徳川宗家の温存が目的であったらしく、新政権のことは頭になかったようだ。これは確かに彼の行動原理からみてもそんな気がする。

結局徳川宗家八百万石の影響力は大きく、王政復古クーデター後の新政府樹立に際しても、慶喜の政権入りは確実なものとなった。王政復古クーデターについて、慶喜は知らなかったのではなく知っていて黙認し、松平容保・松平定敬を連れて京都から大坂に離れてクーデターを行いやすくしている。この行動が最後の最後で慶喜の失敗につながるのが面白い。つまり、これまで慶喜の政権は天皇を掌中に治めることで成り立っていたが、ここで彼は天皇から離れることになった。一方で大坂行きはクーデターへの協力の表明とともに、大坂に慶喜がいることで新政権に大きな圧力になる。合理的な判断だが、その天皇を手元から離してしまったという一点が、彼の最大の失敗になるわけだ。

慶応三年十二月二十四日、慶喜が新政府の議定(閣僚)に内定するが、その翌日十二月二十五日、江戸で庄内藩による薩摩藩邸焼き討ち事件が発生、慶応四年一月三日、会津・桑名両藩兵に対して薩摩藩兵が攻撃をしかけ、鳥羽伏見の戦いが始まる。ほぼ手に掴んでいたはずの大勝利がするりとこぼれ落ちていく様は、確かに日本史上屈指のどんでん返しといえるだろう。ちなみに薩摩藩邸焼き討ち事件は薩摩の陰謀という説もあるが、これは考えにくい。むしろ、突発的に起きた事件をギリギリのところで巧みに活用した西郷・大久保の凄さが光る。こいつらの政治力も普通に化け物だよな。

最後の最後で敗れ去った慶喜だが、その敗北の要因の一つとして彼の性格について著者がこう書いているのが興味深い。

『慶喜には不思議なほど配下(部下)や一般大衆への関心が見られない。例えば、幕臣に目を向けると、幕末政治史上最大の出来事であった大政奉還は、当然のことながら、多くの幕臣が職を失うことに直結した。だが、慶喜が政権を朝廷に返上するにあたって、こうした点を考慮したらしい痕跡は見つからない。すなわち失職するであろう幕臣の今後のことを真剣に考えたとは、どうも思われないところが慶喜にはある。』(P292)

ゆえに、大政奉還を始めとして様々な変革を成し遂げ幕末の政治をリードしたのであり、ゆえに、彼は人心の支持を失っていったのだと。

維新後の慶喜についても、特に勝海舟との関係について興味深いのが、その愛憎半ばするちょっと歪な関係だ。慶喜は謹慎がとけた後静岡に移るが、その慶喜の庇護者となったのが勝海舟だ。しかし海舟はよく知られているように家茂を慕い慶喜に好感を抱いていなかった。

『海舟は、明治期にあって、徳川家が朝敵の汚名を着せられた原因は慶喜にあるとして、彼の反省を求めた。それは、別の言い方をすれば、慶喜の上に自らが位置して、慶喜に指示を与え続け、彼の行動を律したということでもある。慶喜が、勝に対して終生感謝の気持ちを持ちつづける一方で、海舟の没後、新聞紙や雑誌などにさかんに書かれることで世間に定着していった海舟の評価(西郷が勝を全面的に信用した結果、江戸の町が戦火から救われたといった類のもの)に対して、遠慮がちながらも、否定的とも受け取れる発言を漏らすにいたったのは、長年にわたる鬱積も関係したと思われる。』(P258-9)

勝にしてみれば、徳川幕府を滅ぼした慶喜が生涯反省の日々を送るのは当然のことで、またそれを庇護する徳川家の忠臣として自己イメージがあっただろうし、慶喜にしてみれば、死罪にもなっていたかもしれない自身の後ろ盾として尽力してくれる勝に感謝しつつも、その思い込みの強さと少々過剰な自己の功績の喧伝には色々思うところがあったのだろう、そんな、色々な感情が複雑に絡み合う歪な関係性が見え隠れしていてとても興味深い。

幕末史と徳川慶喜とを非常に多面的に捉えて、歴史の中の一個人としての慶喜を見事に描き切っている傑作だと思います。

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