十九世紀オーストラリアの中国人排斥運動と白豪主義国家の誕生

オーストラリアで1850年代から始まった中国人移民排斥運動は、白豪主義として知られる白人至上主義的潮流を生み出し、1901年のオーストラリア連邦成立以降1970年代まで国家として非白人を排除する人種主義政策を続けることになった。

十九世紀半ばのオーストラリアで起きた中国人移民排斥の原因を、白人社会と中国人との文化的差異に求める見方は適切ではない。まずは当時のオーストラリアの社会構造がはらんでいた矛盾と急激に表面化した経済的要因があり、彼らが直面した問題を説明しうる理由として「中国人の脅威」を見出すようになったのである。

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オーストラリアの植民地化

オーストラリアの歴史は古くて新しい。先住民アボリジナル(アボリジニ)の祖先はおそらく四万年前にはオーストラリア南部に到達していたと考えられ、以後、西暦1700年代まで外部の侵入もなく独自のアボリジナル社会を形成していた。

1770年ジェイムズ・クック提督はオーストラリア探検を行い英国による領有を宣言、1788年より英国による植民が初められる。当時の英国移民政策の特徴として「社会問題を、できれば植民地に押しだすことで解決しようとする傾向」(川北P277)があり、貧困層や犯罪者、マイノリティは本国から新大陸へ年季奉公や流刑として送り出される。しかしアメリカ独立(1776年)によって流刑先としての植民地を喪失したことで、オーストラリアを新たな流刑先として活用することになった。1830年まで、流刑囚と元流刑囚がオーストラリア人口の70%を占め、アボリジナルの土地を収奪することで植民地を拡大していった。

流刑囚と先住民の強制労働によって羊毛・農業が盛んとなり、解放された元囚人(エマンシビスト)、自由移民(イクスクルーシブズ)らが入植地を拡大させ、大規模土地所有層(スクオッター)という支配階層を形成する。スクオッターは1840~50年代に自治権要求運動を起こし、やがて6つの自治植民地が誕生、後にオーストリア連邦誕生時の州となる。1840年に流刑制度が廃止されて以降は自由移民も増えて白人移民とともに、安価な労働力としてアジア系移民も年季奉公契約を結びオーストラリアへ訪れるようになる。

富裕で政治的地位を獲得しつつあったスクオッターと農園労働者・年季奉公人の貧しい住民との事実上の階級社会が形作られ、自治権を獲得した各植民地間でも利害対立があり、また移民間でも、特にアイルランド系移民は移民初期のヴィネガー・ヒルの反乱(1791年)を皮切りにイングランド系移民と激しく対立しており、当時のオーストラリアは決して同質な白人社会などと呼べるようなものではなかった。

ゴールドラッシュ

1851年、オーストラリア各地で金鉱が相次いで発見されると、豪州全土さらに世界中から一攫千金を目指して人びとが集まった。1852年からの2年間で約30万人の新移民が来たが、これは過去70年間に送られた囚人15万人の二倍に及ぶ。英国系だけでなく、ドイツ、フランス、イタリア、ポーランド、ハンガリー、中国などなど各地からの移民で一気に多民族化が進展する。多民族化とあわせて、ゴールドラッシュがもたらしたのが秩序の崩壊である。

「店員、職人、あらゆる種類の労働者が仕事を放り出して、多くの場合、雇い主やその妻子を途方に暮れさせて、金鉱に向かった。・・・農家はすてさられ、町の家は貸しにだされ、経済活動は停止した。学校さえも閉校になった。郊外の一部では男性がいなくなり、女性たちは身を守るために、日ごろの不仲を忘れて、一緒に集まり家を守った。」(ヴィクトリア植民地総督ラトロープの手紙、山本真鳥編「オセアニア史」P104)

「身を守ることを怠ると、たった1オンスの金のために命を奪うことをいとわない連中に襲われることもある」(ある金鉱夫の手紙、藤川隆男編「オーストラリアの歴史」P88)

金鉱が発見されたヴィクトリア植民地以外の植民地からの大規模かつ急激な人口流出、それをはるかに上回る新規移民の流入と無尽蔵とも思える金の産出、不均衡是正のための各植民地への分配とヴィクトリアから戻った鉱夫たちによる資本の投下でオーストラリア全体としては大幅な経済成長を成し遂げ、新たな中産階級が登場することになった。一方、個人レベルでいうならば成功を掴んだのは一握りで、1850年代半ばを過ぎるころには、一部の大資本家が多数の金鉱夫を安い賃金で酷使し富を独占するようになる。

中国人排斥の経済的要因

竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史」では、十九世紀の中国人排斥から白豪主義成立に至る流れを経済的要因、社会的要因、政治的要因の三段階に分類している。

「(1)経済的要因――中国人の存在を最初に脅威と感じたグループは、白人のブルーカラーであった。中国人が低賃金で金鉱開発に従事したため、同業種に属する白人の賃金水準が大幅に低下したからである。この段階における中国人排斥の原因は、貧しい白人(プア・ホワイト)が出現したことであり、すぐれて経済的な要因に求めることができる。」(竹田P51)

自身が置かれた困窮の原因を、薄給でも文句も言わず同じ中国人同士組織的に協力して成果を上げていく中国人労働者に求める。その異質な風体や意味不明な言語、文化、そして急速にその人口を増やしているようにみえることなどありとあらゆる点でその存在は鼻についた。ところで、当時のオーストラリアにおける中国人人口は、1861年の統計によれば総人口134万8100人中3万9000人で約2.9%でしかない。多数派と較べて異質な少数派をまるで多数派民族を滅ぼしかねない脅威であるかのように恐れるという人種差別の局面でよく見られる心理がここでも働いている。1854年から61年にかけて、金鉱ではたびたび中国人に対する暴力事件や反中国人運動が発生、1855年から61年にかけて、その不満をやわらげるため各植民地で中国人移民を制限する法律が成立していく。

急激な多民族化による既存秩序の動揺、暴力の行使を当然のものとする社会的風潮、社会構造からくる埋められない格差と経済的困窮、その原因を最も異質な存在である中国人に見出し、直接・間接的に暴力を行使して排除を訴え、植民地政府もそれを受け入れて法制化する、という流れが初期の中国人排斥運動のメカニズムである。

十九世紀の中国人移民増加要因

十九世紀半ば、オーストラリアだけでなく東南アジア、アメリカなど各地に中国人労働者が移民として拡散していた。オーストラリアの中国人移民排斥運動について理解するためには、その中国人労働者拡散の要因を捉えておく必要があるだろう。

第一に十九世紀中国の人口爆発が最大の要因としてある。一億五千万人前後であった清王朝中国の人口は十九世紀に入って爆発的な伸びを示し、1850年には四億一千万人に達した。急激な人口増大に対して硬直化した清朝政府は効果的な手を打てず、「貧困、大衆の士気低下、退廃、無気力であり、社会秩序の崩壊」(リン・パン著「華人の歴史」P50)をもたらした。

第二に、英国による中国の開国である。インドから中国へのアヘン輸出を基幹とする英国のアジア三角貿易に対し清朝は強硬な姿勢で制限しようとするが、これに対して英国は1840年アヘン戦争を開始し、1860年のアロー号事件に至る過程で強引に開国を行った。海禁政策で鎖国状態にあった中国では、一旦外国との貿易が開始されると、広州、厦門、福州、寧波、上海の五つの条約港と香港の沿海州に人口過密と貧困状態にあった内陸の中国人が押し寄せ、次々と国外へ流出しはじめる。

第三に、中国が大規模な内戦状態に陥ったことがある。1851年から1864年まで十四年の長きに及ぶ太平天国の乱は中国全土を覆い、大小様々な反乱・蜂起が相次いで国内の秩序が崩壊する。この時期の内乱で非常に多数の難民が発生、中国人移民の流出が大規模化する。

第四に大英帝国下での奴隷制廃止と奴隷に変わる安価な労働力を中国人移民に求めたことがある。1833年、英国連邦領土下で奴隷制度が完全に廃止されると、人手不足に陥った西インド諸島の砂糖プランテーションを始めとして各地で労働力の不足が目立つようになる。丁度、東インド会社の対中国貿易独占権も廃止され中国市場への参入が可能となったこともあり、奴隷に買わる安価な労働力として、中国人移民の積極的導入が図られた。

人身売買としての中国人労働者(クーリー)

移民・年季奉公人として海外渡航を望む中国人たちは概ね一方的な契約を押し付けられた。特に悪名高いのが「クレジット・チケット制」と呼ばれる渡航費信用貸制度である。

「移民は渡航費用を前借りして、目的地に着いたときに『客頭(引用者注:移民を取りまとめる親方のこと。移民ブローカー)』あるいは船長が、移民の友人や親戚から支払いを受けるが、雇い主がそれを支払う場合、移民はその借金を払い終えるければならない」(リン・パンP52)

自発的な移民も少なくなかったが、前述の要因から概ね好むと好まざるとにかかわらず国外脱出せざるを得ないことが多かったわけで、移民の足元をみた事実上の人身売買制度で、例えば明治日本の娼妓と同様の仕組みである。この「クレジット・チケット制」は主に「北米、オーストラリア、シンガポール、マラヤ、タイへの移民」(リン・パンP52)に適用された。

このようなわけでオーストラリアに渡った中国人移民たちは薄給であっても必死に働かざるを得ないし、同胞同士で出来る限り協力関係を築くようになったのも必然的な流れであっただろう。その必死な姿勢こそが、現地の白人ブルーカラーにとって嫌悪感を沸き上がらせる要因となったところに、当時のオーストラリアにおける中国人移民排斥問題の根深さがある。

中国人排斥の社会的要因

ゴールドラッシュによる中国人移民・労働者の増加への反応としての排斥運動は、ゴールドラッシュが一段落する1860年代には沈静化し、中国人移民の制限を定めた各植民地の法令も概ね廃止されるか、無効化されていくが、一方で中国人移民が鉱山労働に限らず都市にまで広がるようになると、彼らの存在が社会問題として認識されるようになる。中国人排斥の社会的要因として竹田はこう整理している。

「(2)社会的要因――社会的要因とは、中国人の存在に対してオーストラリア社会が拒否反応を示したことを意味する。中国人は、限られた地域に密集して居住するパターンを示していたため、金鉱付近の小さな地方都市では、白人比率を上回る現象も発生していた。生活態度や食文化も異なっていたため、オーストラリア人は次第に拒否反応を示すようになり、中国人の存在そのものが社会問題として認識されるようになった。さらに天然痘の保菌者が含まれていたため、中国人を病原体と見なす風潮も生まれた。天然痘はシドニーの白人貧民街でも発生したウイルス性伝染病であったが、中国人が槍玉に上げられた。」(P53-54)

特定の集団を病気や害虫・害獣などと同一視する言説はプリミティブな嫌悪感情の現れとして歴史上ありとあらゆる局面で観察される事例である。このあたりレイチェル・ハーツ「あなたはなぜ『嫌悪感』をいだくのか」に詳しいので参照してもらえばいいが、近代に入って、例えばナチスがユダヤ人をネズミやがん細胞に、ルワンダ虐殺でツチ族がフツ族をゴキブリに類推したように、人種と結び付けてレイシズムのロジックとして語られるようになった。

1870年代、オーストラリアでは労働力不足から外国人労働者受け入れを加速させていた。英領フィジーのサトウキビ農園や砂漠地帯の開発にはインド人・アフガン人が契約労働者として、クイーンズランドのサトウキビ・棉花プランテーションにはメラネシア系先住民カナカ人が強制労働に従事する。日本人移民はもう少し後1890年代のことだが、そのようなアジア系移民の中でもやはり最も多かったのが中国人であった。

70年代にさらに金鉱が発見されてオーストラリア全土に中国人労働者が広がっただけでなく、ケアンズ周辺の開拓などにも従事し、さらに都市の低賃金労働や野菜・食糧栽培にも進出する。1880年代、およそ四万人の中国人移民がいたが、これでも全人口の数パーセントでしかない。にもかかわらず、異質な、嫌悪すべき者たち、<われわれ>ではない者たちを中国人は象徴させられるようになっていたのは、その存在感ゆえだった。

中国人人口の急激な増大が脅威をいっそうかきたてたことも否めない。当時の主要な経済学的問題の一つはマルサス主義である。すなわち人口の過剰に食糧の増産が追いつかず、カタストロフィに至るのではないかという危機感が、アジア人の脅威と結び付けて語られる。後に広がる黄禍論の理論的土台はこのようなマルサス主義と社会進化論である。優勝劣敗の法則と人口過剰の危機とが結びつくことで、みるみる増える中国人移民によって白人が淘汰されていくのではないか、という恐怖心を煽り広がっていった。

列強の南太平洋進出と脅威

十九世紀半ば以降のオーストラリアにとって中国人移民問題と並んで不安の種であったのが国防である。クリミア戦争(1853~56)を契機として英露の対立が表面化すると、ロシア海軍がオーストラリアにまで進出してくるのではないかという危機感が芽生え、1860年代の先鋭化する日本・中国情勢から南太平洋の英海軍が削減、1870年には英駐留軍がオーストラリアから撤退する中で、フランスのニューカレドニア領有に始まる南太平洋を舞台にした英仏独列強の植民地競争が1880年代にかけて熾烈なものとなると、オーストラリアでは国防への危機感が増大していった。

オーストラリアではこのような植民地競争を受けて独自軍の創設に向けた動きとともに、南太平洋モンロー主義と呼ばれる主張が見られ始める。南太平洋周辺は英国が領有すべきでヨーロッパ諸国は進出するべきではないとするもので、英国以外の諸勢力の排除と南太平洋への帝国主義的進出とがセットで語られるようになる。英領フィジー、英領パプアなどがオーストラリアに編入されて、それぞれ砂糖プランテーションでカナカ人の強制労働、インド人の年季奉公が行われた(南太平洋帝国主義)。

植民地競争の恐怖はまた、中国人に対する排除に拍車をかけることにもなる。ロシアが中国人の軍隊を率いてオーストラリアに侵攻してくるなどという言説も語られるなど、対外的脅威に対する不安とマイノリティである中国人排斥とは密接にリンクしあう。

十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、膨張するロシアがモンゴル帝国を始めとする西欧に脅威と映った歴史上の騎馬民族と重ね合わされていたことはよく知られている。フン族、チンギス・カン、ティムールさらには全盛期オスマン帝国(当時存在していたにもかかわらず)などで、対ロシアともなると戦意を鼓舞するために過去の対イスラーム戦争の英雄が語られたりする。ロシアの台頭はすなわち東方の脅威、アジアと結びついて人々の想像力をかきたてた。

これは後に、日清戦争(1895)・日露戦争(1905)の勝利に始まる日本の台頭によって広がる黄禍論を形作る土壌になる。

労働運動と中国人排斥

ゴールドラッシュとそれに続く経済成長は市民の生活水準を押し上げ幅広い中産化とともに一握りの上流階級を生み出した。1880年代のオーストラリア白人の一人あたり名目収入は英国の二倍、米国の一・五倍に上ったという。上流階級は政治的・経済的に英国政府と結びついて支配体制を構築し、中流階級は自発的な団体を次々作って徐々に政治的権利を獲得していき、労働者は待遇の改善を訴えるべく組合を結成する。いずれの階層においても、やはり中国人移民問題は主要なテーマとなったが、やがて中国人排斥へとあらためて統一されていくことになる。

豊かになったとはいえ、中上流階級と白人労働者たちとの格差は大きい。そのような中で、金鉱にかぎらずありとあらゆる職業に非白人労働者が進出して、白人より安価な労働力として脅威となり、白人労働者と非白人、特に中国人労働者との間で対立が深くなってくると、白人労働者や失業者による中国人商店の打ち壊しや中国人襲撃が頻発、1880年、ブリスベンで結成された労働組合員によって結成された反中国人同盟は「中国人が低賃金で働き、労働組合に加入しないために、自分たちの職が奪われていると主張した」(「オーストラリアの歴史」P112)。

各植民地で活発化する白人労働者による労働組合運動は、八時間労働の実現、最低賃金の補償と並んで、中国人排斥を唱えるようになる。十九世紀後半の労働運動の活発化を受けて、1900年に結成されるオーストラリア労働党は「雇用の確保、最低賃金制の導入、高齢者への年金支給、税金改革、民主主義社会の実現」(P81)と並んで、白豪主義の推進すなわち非白人(特に中国人労働者)の排除を党是とするようになる。平等と人種差別が混在した政党の誕生である。

中国人排斥の政治的要因

「政治的要因――最終段階として、政治的要因が登場する。理想とした白人社会の自画像が、中国人労働者によって踏みにじられ、理想社会の建設計画に致命的な障害となるのではないかとの恐怖感が、白人社会に広く共有されることになる。白人のブルーカラー賃金水準を低下させたという点で、中国人が経済問題を起こし、さらに社会的にも許容できない民族であるとのコンセンサスが生まれたことで、政治的対応が模索された。中国人問題は、白人どうしの連帯感を芽生えさせる起爆剤へと転化し、白人社会の大衆運動として白豪主義が蔓延することになる。各地の植民地議会では中国人排斥の立法作業に着手し、中国人制限法や有色人種制限法を個別に制定していった」(竹田P54)

1881年から1890年にかけて、西オーストラリア、南オーストラリア、ニューサウスウェールズ、ヴィクトリア、クイーンズランド各植民地で次々と中国人移民の制限や金鉱など特定の職業に就くことを禁止する法律が成立する。

あわせて、このような非白人排斥を正当化する様々な白人至上主義理論が形成、「イギリス文化の継承者を自負するアングロ・サクソン系の人々は、自分たちは他の白人よりも優れていると信じ、オーストラリアがイギリス帝国に属することを誇りとしていた」(「オーストラリアの歴史」P115)

このような動きに対して英国政府はむしろ批判的で、1888年、香港総督は「オーストラリアのこうした動きがこのまま続けば中国におけるイギリスの商業利益をあやうくすることになるだろうと、ヴィクトリア女王政府に抗議を申し立てている」(ゴルヴィツァー「黄禍論とは何か」P67)ほか、メディアや商業組合等が批判を繰り返したが、この点、オーストラリアは頑なで、むしろ非白人排斥をオーストラリア統一に向けた紐帯として利用することになる。

白豪主義国家オーストラリア連邦の成立

1890年、アルゼンチンでの利払不能に端を発した英国ベアリング商会の経営危機の影響を受けてオーストラリア各植民地で金融危機が発生、1893年までに中央銀行的役割の発券銀行十八行中十二行が営業停止し、波及して多数の企業が倒産に追い込まれ、1891-95にかけて国民総生産は30%減、熟練労働者の六人に一人が失業(非熟練労働者はさらに多いとされる)、1893年のヴィクトリア植民地では失業率30%超であったとも言い、オーストラリア全体が金融恐慌に見舞われ、各地でストライキが頻発、さらに追い打ちをかけるように1890年代の十年間、記録的干害にも襲われる。

このような経済危機と社会不安を受けて盛り上がったのが一つには労働運動であり、もう一つがオーストラリア統一運動であった。

オーストラリア統一運動はナショナリズムの盛り上がりを背景としたのではなく、徹頭徹尾利害の調整にその主題があった。第一に各植民地間の関税の調整、第二にアジア系外国人の流入、第三に欧州列強の南太平洋進出への対応である。関税の撤廃による巨大市場の形成とオーストラリア国軍の創設のための連邦国家の結成のために、植民地、団体、階級、諸勢力の利害を越えて国民を統合する紐帯として必要だったのが非白人という共通の敵の排斥と白人至上主義の理念、すなわち「白豪主義」であった。

連邦国家を推進したのが、非白人排斥と白人労働者の地位向上、福祉国家化を目指す「人種主義」「民族主義」政党の労働党とメルボルンを拠点としてオーストラリアナショナリズムを提唱する「オーストラリア出生者協会(ANA)」の二団体で、当初目指された強い統一国家の路線はすぐに修正されて、各植民地が州として自治権を持つ緩やかな連邦制(コモンウェルス)が採用された。

各植民地の方針対立から、保護貿易派と自由貿易派の二大勢力が生まれ、これに労働党が加わって三勢力がほぼ拮抗しつつ利害が調整されて、1898年と99年の二度の国民投票で六植民地いずれも賛成多数、さらに南アフリカのブール戦争(1899-1901)や義和団事件(1900-01)へのオーストラリアからの派兵を切望する英国政府もこれを認め、1901年、オーストラリア連邦が誕生する。

白豪主義体制下の非白人排斥

建国時のオーストラリア連邦最大の特徴は白豪主義の推進、すなわち非白人労働者の排斥である。

初代首相となったエドモンド・バートンは「移民制限法の目的は、高貴な人種がより高度な文明をめざして生活し、増加することのできる、世界に残された最後の大陸を防衛すること」(「オセアニア史」P132)といい、保護貿易派のリーダー、アルフレッド・ディーキンも「人種の結合は、オーストラリア統合にとって絶対に必要である。(中略)現在の時点で遥かに意義のあることは、白人のオーストラリアを宣言することである。これこそ、オーストラリア連邦のモンロー主義なのである」(「オセアニア史」P132)として、従来の植民地毎に差があった移民制限法の一本化を強力に推し進めた。

先住民アボリジナル(アボリジニ)はそれまでの百年に渡る虐殺と同化政策によって大幅に数を減らしていたことから「死にゆく人種」と捉えられて数に入れられず、中国人、日本人、カナカ人(メラネシア人)、インド人の排除が、1901年「移民制限法」によって定められた。非白人の即時国外追放を叫ぶ急進派の声も大きかったがさすがに現実的ではないから、国外からの移住の制限と、国内での非白人の権利の制限とがセットでなされる。

入国審査の際に、白人は無審査、非白人は入国が拒否されるが、その理由付けとして語学の書き取りテストが実施された。このテストは、入国審査官の判断に基づき、ヨーロッパの言語で五〇語の設問に正解する必要がある。「たとえば、フランス語が堪能なアジア人が受験すればドイツ語で試験を行い、フランス語とドイツ語が得意であれば、イタリア語やスペイン語の試験問題を提出する」(竹田P45)という具合に、欧州の主要言語だけでなく少数言語も用意され臨機応変な対応がなされて、どれほど語学が堪能であっても、有色人種であるかぎり必ず不合格に出来るというものだ。このテストは1958年に廃止されるまで半世紀に渡って続けられた。

一方、国内ではアジア人の帰化および年金申請の禁止、在豪中国人は家族を呼び寄せる権利も否定され、非白人が就くことのできる職業も大幅に制限された。また、1901年の太平洋諸島労働者法によってカナカ人(メラネシア人)の新規雇用が停止、1906年の同改正法では二十年以上豪滞在している者を除くカナカ人の強制送還が実施された。太平洋諸島労働者法はメラネシア人排斥を目的としていると同時に、元々強制的に労働させられていた奴隷制的体制であった点で、奴隷制の廃止(奴隷を解放した上で国外追放するというものではあるが)という側面も持つ。1901年に30,542人であった中国人は1911年22753人、1921年17,157人、1947年9,144人と減少し、その穴埋めとして白人労働者の雇用が促進された。

白豪主義体制のさらなる急進化が抑えられたのは、当時の国際情勢によるところが大きい。丁度日英同盟締結に向けた動きが活発化していたことから、英国政府は豪政府に対し極東情勢への配慮を強く求め、同じ大英帝国のインドや同盟国日本に対しては排除政策を緩和せざるを得なくなった。

こののち、白豪主義体制下で、特に日露戦争後の日本の軍事的プレゼンスの増大と黄禍論の台頭ともに「日本をなぜ優遇しなければならないのか」が大きな問題となる。中国人排斥を目指して成立した白豪主義体制は、二十世紀、対日関係を軸に大きく揺れることになるのだった。

参考書籍

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