高尾の千代田稲荷神社、焼失していたのか

神社は燃えるもの – Togetterまとめ
まとめについては検証ご苦労様です以上の感想は無いけど、それより、まとめ中のリストにあった高尾山の千代田稲荷神社が本当に焼失していたことにびっくりですよ。

直接のニュース記事はもう削除されているが、同ニュースを取り上げたいくつかの記事やまとめを総合すると、2013年2月11日に放火によって焼失したらしく、同年4月10日に逮捕された容疑者が賽銭が空だったことに腹を立てて放火したと供述したという。

千代田稲荷神社は五年ほど前に訪れたことがあって、後日ブログで紹介しようと思いつつ記事にしないままだった。

2010年3月撮影です。
千代田稲荷神社

千代田稲荷神社の倒れたご神木

千代田稲荷神社

千代田稲荷神社

千代田稲荷神社拝殿
千代田稲荷神社拝殿

千代田稲荷神社本殿
千代田稲荷神社本殿

千代田稲荷神社の石像群

見ての通り、非常に打ち捨てられた雰囲気が強い小さな神社で当時もあまり人が訪れた気配も感じられない雰囲気の神社だったので、お賽銭狙いとか何考えてんだここにあるわけないだろ、って感じなのだが、この神社の歴史は非常に興味深いので、紹介したい。というか、どう紹介するか色々迷っているうちに更新のタイミングを逃してしまったところがあった。

千代田稲荷神社略縁起
千代田稲荷神社略縁起

当神社は太田道灌が千代田城(現在の皇居)築城に際し守護神として城内に勧請し後に徳川家康公が紅葉山に厚く祭ったものであります
明治維新の際信仰厚き女官(滝山)によって城外に移され後年神縁に導かれ紅葉山と称せられる当地に奉還されるに至りました(以下略)

太田道灌の江戸城築城は長禄元年(1457)。江戸築城以後道灌は多数の神社仏閣を築いて江戸の支配体制を固めたが、その中に伏見稲荷を勧請した記録があるようで、それが後に徳川政権となっても江戸城内に祀られていたようだ。紅葉山は江戸城内にあった西の丸東北の丘で東照宮が設けられ徳川家の霊廟とされある種の権力装置として機能していた。紅葉山には東照宮だけでなく様々な神が祀られていて、稲荷神もその一つ。

大奥の年中行事として毎年二月初午の日には江戸城内の稲荷社の縁日として御目見得以上の女中が代参して、初午のご祝儀を申し上げることになっていた。また、大奥の女中たちも紅葉山の稲荷を篤く信仰しているものが多かった。しかし、江戸幕府が倒れると、明治元年十二月十九日、明治政府の命で紅葉山東照宮は撤去された。徳川政権の宗教的シンボルであるから新政府としては当然の措置だろう。で、数多くの祀られていたその他の神々もどうなったかはよくわからないということになるが、この神社はその中の一つ、稲荷社が「滝山」という女官によって城外に移されて、その後この神社となったとしている。滝山というと、有名な幕末の大奥総取締瀧山であろう。縁起を信じるなら徳川家と非常に密接なつながりのある神社であるといえる。

参拝した当時はこのあたりの縁起を素直に受け入れつつ、徳川幕府の権力と栄光の果てがこのような打ち捨てられて誰も訪れないような小さな社となっていることに栄枯盛衰を感じて寂寥感を覚えていたのだが、いざこの神社のことをブログに書こうと調べていくと周辺の高尾梅郷や小仏関なんかとも絡めて調べていたこともあるが、どうにもよくわからなくなる。

実は「千代田稲荷神社」は渋谷にもう一つ、縁起を同じくする神社がある。

渋谷 | 道玄坂 百軒店商店街 > 千代田稲荷神社
 千代田稲荷神社の創建については長禄元年(1457年)に太田道潅が千代田城(江戸城)を建築した際、城内に京都の伏見稲荷を勧請してきたことに始まるといわれております。その後、徳川家康が江戸城を拡張した慶長七年(1602年)に城内から渋谷宮益に移し、「千代田稲荷」と称したと伝えられています。

この神社が栄えたのは幕末の頃で、孝明天皇の妹、和宮親子内親王の江戸降嫁に際して道中を守護したといわれたため、人々の信仰を集めました。また、将軍家茂や慶喜の上洛などにも当社の御加護があったと噂されるようになり、千代田稲荷の霊験を伝える錦絵なども多く出されました。

 関東大震災の起った大正12年(1923年)、百軒店商店街の創設にあたって、宮益の地から道玄坂の地に遷座されました。第二次世界大戦後、現在の場所に再度遷座したのです。この神社が、百軒店に遷座されたのは、稲荷大神(字迦之御魂大神)が五穀をはじめとして、すべての食物・殖産興業をつかさどる神として仰がれているからです。

とはいえ、江戸城内に稲荷社があったことはあったので、この渋谷の千代田稲荷神社の縁起との整合性を考えるなら、太田道灌勧請の稲荷社という由緒が崩れるだけで別途江戸城内の稲荷社が設けられた、あるいは渋谷の千代田稲荷神社は移転ではなく分祀という理解も出来るかもしれない。

もう一つは「滝山」である。

瀧山 – Wikipedia
これまでは、奥女中たちにその功労に合わせて拝領物を与え、大奥の最後の幕引きをしたのは瀧山であると言われていた。しかし「七宝後右筆間御日記」に慶応3年(1867年)正月より瀧山の名前が登場しなくなったことや、慶喜の正室・美賀子が慶応3年に「下宿(永の暇)」した瀧山に対して白銀30枚を送ったとされていることから、実際には江戸城開城以前に大奥を退いたと思われる。

wikipediaの「七宝後右筆間御日記」は「七宝御右筆間御日記」の誤記だろう。で、幕末の時点で瀧山が江戸城にいなかった可能性は非常に大きいわけだが(おそらくすでに埼玉県川口市に居を構えていた)、となると、維新に際して江戸城から稲荷社の移設を行った滝山とは誰なのだろうか。謎である。

神社の由緒・縁起はどこも大なり小なり脚色が多いので素直に信じることはできない。どこまでが事実でどこからが創作なのか、神社巡りの面白さはその曖昧さを解きほぐす過程にあると思うのだが、どのような神社であれほとんどそれを明らかにすることが出来ない。その曖昧さの中にたゆたいながら垣間見える神社をめぐる人びとと地域の歴史がこういう名所旧跡巡りの醍醐味だと思う。さておき、この打ち捨てられた神社もそうで、実のところどのようにしてこの地に祀られたのか謎ばかりだ。

ふと、滝山は近くの滝山城からの連想で、滝山と瀧山とを結び合わせることで生まれた縁起なのではないかとも思うのだが、特に根拠はない。縁起が伝える歴史がどれだけ事実なのか、紅葉山稲荷社の遷宮が事実であるならば、御神体の行方も含めて気になるところだが、「江戸時代」の「果しなき流れの果」といえる神社であるし、そうでないならば、神社を祀ろうとした人びとが縁起をどのように作り上げていったか、民俗信仰の一つのあり方を探るモデルとして非常に興味をそそられる。

神社の再建には時間と費用と地域の人びとの熱意とが非常にかかるものでもあり、どうやらまだ再建されていないようなので、今後、再建の過程を通して当神社の歴史がより明らかになることを期待したい。「神社は燃えるもの」だとしても、その火が焼くのはかけがえのない人命、貴重な財産などとともに連綿と営まれてきた歴史や人びとの記憶でもあり、焼失した数々の神社にも、それぞれの歴史と様々な人びとの思いがあっただろう。火災を始め災害は本当に多くのものを奪っていく。

高尾山の主要ハイキングコースからは外れた裏高尾からの蛇滝口コースの入り口に位置する神社で、見頃の時期なら高尾梅郷や小仏関跡などを巡りつつ高尾山登山が楽しめます。


この付近の登山道の入り口にある

参考書籍

図説 大奥の世界 (ふくろうの本/日本の歴史)
山本 博文
河出書房新社
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