幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ

先日の記事「「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著」にいくつか、ペリー艦隊来航時の日本人代表も泥酔していたことを思い出した、といった趣旨のコメントがついていて、そうそうあの酔っぱらいエピソードも面白いんだよね、ということで幕府代表団とペリー艦隊との飲みニケーションエピソードを「ペリー艦隊日本遠征記(上)(下)」から紹介しよう。酒を飲むことでのコミュニケーションが相互理解と親睦、異文化交流に大いに役立ち、日米和親条約締結に大きな影響を及ぼしたのだ。両者の酒宴はあわせて五回あった。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

1853年7月12日

1853年7月8日、ペリー艦隊は浦賀沖に姿をあらわし、米フィルモア大統領から将軍に宛てた親書の受け取りを求めた。これに対し日本側は、かねてから黒船来航の情報を元に準備していた通り浦賀での受け取りを拒否、長崎への移動を求めるが、ペリーはこれを拒否して、現在地浦賀での授受を求めた。その交渉にあたったのが浦賀奉行所与力香山栄左衛門である。香山は浦賀の総督(Governor)=奉行を詐称したが、対等な交渉相手を求めていたペリーにもとっても好都合で、相互のやりとりを経て幕府も長崎での授受を諦め、香山を通じて、浦賀に応接所を設けてしかるべき地位の者が親書を受け取る旨通知した。

最初の飲み会は浦賀での親書授受が決定した7月12日、サスケハナ号上でのことである。日本側は香山栄左衛門と通訳堀達之助・立石得十郎の三名。米側はサスケハナ号艦長フランクリン・ブキャナン中佐、艦隊参謀長ヘンリー・A・アダムズ中佐、旗艦付副官コンティ大尉と通訳のウィリアムズ、ポートマン。

「香山栄左衛門とその随員はたいそう上機嫌で、サスケハナ号の士官たちの提供するもてなしを快く受け入れ、きわめて洗練された風儀でそれに応対した。主人側のもてなしを受けるときは自由に飲み食いし、饗応の一部をなしていたウィスキーとブランデーがとくにお気に召したらしい。なかでも奉行のお気に入りは外国製のリキュールのようで、とくに砂糖を混ぜたものを賞味して、舌鼓を大きく打ちながら、甘美な酒を一滴も残さずに飲み乾かした。通訳たちも楽しい宴席に次第にうちとけて、酔っ払った奉行をからかい、笑いながら『お顔がもう真っ赤になっていますよ』と、栄左衛門が飲み過ぎないよう注意した。
これらの日本の高官たちは、紳士らしい泰然とした物腰と高い教養を物語る洗練された容儀を崩さなかったが、つとめて社交的にふるまい、気さくに会話を交わした。彼らの知識や一般的な情報も、優雅で愛想のよいマナーに劣らず優れていた。身だしなみだけでなく、教養もなかなかのもので、オランダ語、中国語、日本語に堪能で、科学の一般原理や世界地理の諸事実にも無知ではなかった。地球儀を前において、合衆国の地図に注意を促すと、すぐさまワシントンとニューヨークに指をおいた。一方がわが国の首都で、もう一方が商業の中心地であるという事実を知り尽くしているかのように。彼らはまた同じようにすばやく、イギリス、フランス、デンマークその他のヨーロッパの諸王国を指さした。」(ペリー艦隊日本遠征記上P545-546)

後半部分はおそらく通訳たちの知識であろう。十九世紀初頭、特にロシアの脅威が明らかになってくると幕府も知識人も海外情報のキャッチに積極的になり、英国の中国進出以後はその勢いは増す一方で、通訳をこなすような知識人なら知っていても驚きではない。黒船来航時の対応策を巡ってもかなりの確度の情報に基づく的確な献策が次々なされている。

また、交渉担当者を務めた香山栄左衛門はこの後もペリーからそのふるまいの見事さを激賞されていて、再来航時も彼を窓口にとペリーが求めているほど。日米和親条約が確かに一部不平等な条項もあるにはあるが当時としてはかなりフェアな内容で締結できたことに大きく貢献した。幕府でもこの人への評価はとても高くて、かねてからもし黒船が来たら交渉窓口は香山で、というのが既定路線だった。この人の伝記の一つもあって良いレベルなのだが、根強く残る黒船で右往左往する幕府という根拠の無い幕府無能史観のおかげで、未だに彼の認知度は低く、黒船交渉史に少し登場する程度だ。また、その後の報われなさというのもあるのだろう。条約締結後、彼は外国との関係についてあらぬ疑いをかけられて左遷され、結局再び表舞台に出ること無く生涯を終えた。

1853年7月14日

この日、久里浜で無事親書の授受が完了し、その返答は来春まで待つとペリーは言い残して一旦日本を離れることになったが、ペリー艦隊はその日の停泊地として現在の横浜市金沢区、小柴沖に針路をとった。この地は後に再来航時にも停泊しアメリカ停泊地と呼ばれるが、ここでペリー艦隊は測量探査を開始、これに敏感に反応したのが日本側で、香山栄左衛門と通訳堀達之助がペリー艦隊に接近、測量を巡るやりとりが行われ、測量調査について相互の理解を得て一段落した。その後、あらためて香山らは米士官たちと軽食をともにしている。

「彼と彼の同行者は軽い食事でもどうかと勧められると、すぐに承諾し、やがて旺盛な食欲で、出された食事の賞味にとりかかった。このとき、政府船がもう一艘横づけされているとの報告があったので、その船に乗り込んでいた日本の役人もさっそく招かれて、船室での歓待に加わった。こうして、まことに陽気な場面が現出し、そこではハム、堅パンなどの食べ物がふんだんに供され、ウィスキーも飲み放題で、たちまち皿も瓶も空になっていった。このご馳走が大いに気に入ったらしく、通訳たちは大変な喜びようで、この愉快な宴の価値多い記念品を持って帰りたいと頼み、腹はいっぱいなのに大きな袖にパンやハムを入れて持って帰った。それによって思い出と味覚を新たにしようというわけである。夜が近づいていたので、日本人たちは艦隊の饗応に対する満足の意を丁重に表しながら艦を去っていった。」(ペリー艦隊日本遠征記上P586)

7月17日、ペリー艦隊は日本を離れた。

1854年3月8日

1854年2月8日、ペリー艦隊が再来。幕府とペリー艦隊は会見場所を巡って交渉を行い、2月25日、横浜に応接所を設けて条約についての交渉を開始することとした。横浜応接所は3月6日に完成、3月7日、翌8日にペリー一行が上陸することが通達され、あわただしく準備が始められる。一行はペリー側の記録では五百、日本側の記録では446人であったという。日本側は全権として林大學頭、以下、江戸町奉行井戸対馬守覚弘、浦賀奉行伊澤美作守政義、目付鵜殿民部少輔長鋭、儒者松崎満太郎の五人と司会兼通訳として森山栄之助他随行員多数。3月8日の横浜応接所での交渉は前年の親書への返答、通商の可否、条約内容などについて激しく議論が交わされた。

ひとまずこの日の初交渉が終わり、日本側はペリー一行に酒と食事を振舞っている。詳しいメニューなどはペリー艦隊日本遠征記には無いが、日本側には記録が残っているので、加藤祐三「幕末外交と開国」から簡単に紹介する。

「幕府は昼食に三百人前の献立を用意した。林は退席し、井戸、伊澤、鵜殿、松崎がともに会食した。めいめいの膳には、酒と吸い物と肴(松葉スルメ、長芋、サザエ、車海老、白魚・・・と五十種類ほど)併せて二汁五菜。それからが本膳で、一の膳、二の膳とつづき、全てを合わせて百種類をゆうに超えた。最後が菓子で、海老膳などの名がある。」(加藤P182)

これを請け負ったのが幕府御用達の日本橋の料理屋百川であったとも、その百川で修行した浦賀宮ノ下の岩井屋であったとも言われる。何にしろ相当な量をかなり急なスケジュールで、かつ最高の状態で出すことになったわけで、請け負った料理人たちにも相当なドラマがあっただろうが、詳細はわからない。

ところで、加藤著ではこれが3月8日のものとしているが、もしかすると後述する3月31日の饗宴のものではないだろうか。加藤は「ペリー側には物足りなかったという記述もある」(加藤P182)としているのだが、ペリー艦隊遠征記で物足りなかったと書かれているのが3月31日の饗宴のことであるのと、料理のメニューも3月31日のものとよくマッチしていることなどから、一応、疑問を呈しておくに留める。

ペリー艦隊日本遠征記の記述は以下のとおり。

「彼らは席を立つときに、提督と部下の士官に軽食をとるように勧め、酒、果物、菓子、スープ、魚からなる食事がすぐに出てきた。アメリカ人はこの接待に応じたが、委員諸卿が提督や士官たちと会食してくださるなら、アメリカ人が抱く歓待の観念にもっと調和するだろう、食事をともにすることは、合衆国ではほかの多くの国々と同じく、友情の証と考えられているからである、と告げた。日本人はそれに答えて、外国の習慣には不案内だが、喜んで相伴しようと言った。彼らはそれから退席したが、まもなく第二位と第三位の委員が戻ってきて、すでに並べられていた食事に親しく加わった。高官のひとりはすぐに酒盃を満たし、一滴残さず飲み干すと、盃をさかさにした。そして、賓客のためにまず乾杯するのが日本の習慣であると言った。」(下P167-168)

文中の第二委員は井戸、第三委員は伊澤で、彼らに続いて、ペリー艦隊記録では委員全員が再び席に付いたとある。食事をしながら、あらためて交渉時の議題の一つだった死亡した海兵隊員の埋葬について、話し合ったという。

1854年3月27日

以後、熾烈な駆け引きを経て双方とも譲歩しつつ交渉が進み、条約案がほぼまとめられる。細部の詰めを残して3月31日の調印を前に3月27日、旗艦ボーハタン号上でペリーの招待によって酒宴が催された。

「提督は艦隊の四人の艦長、通訳ウィリアムズ氏と自分の秘書を招いて委員たちと食卓をともにした。日本の通訳栄之助は上司の特別のはからいで、この部屋の隅のテーブルに着くことを許された。そんな下座にいても、栄之助は平静さも食欲も失う気配はなかった。常に荘重にして威厳のある態度を保持している林は、控えめに飲食していたが、すべての料理を賞味し、あらゆる種類のワインをすすった。他の委員たちはすばらしい大食漢ぶりを発揮して、首席委員よりも腹いっぱいに饗宴を楽しんだ。松崎[満太郎]がこの席の中心になり、たちまちアメリカ料理について明快な食通ぶりを示し、ことにシャンペン酒を愛好したが、他の酒類もけっして嫌っているわけではなかった。リキュール類、とりわけマラスキーノ酒が日本人の嗜好にぴたりと合うらしく、何杯も何杯も飲んだ。松崎は愉快な男で、大量の献酒の効果がすぐ表れ、ことのほか良い気分になった。林は謹厳な殿様で、飲んだくれの同僚が浮かれて楽しんでいる無礼講の酒盛りでも、彼ひとりが素面のままでいられたのは確かだった。
甲板の日本人一行は、各艦船から集まった大勢の士官に歓待され、シャンペン酒、マデイラ酒、パンチを浴びるほどふるまわれて、すっかりにぎやかになった。彼らはこれらの酒が大いに気に入ったようだった。日本人たちは率先して健康を祝う乾杯の音頭をとり、斗酒なお辞せずに飲み干した。彼らの張り上げる声のけたたましさたるや、勇壮で軽快な曲を奏で続けて宴を盛り上げている軍楽隊の音楽もかき消してしまうほどだった。要するに、それはにぎやかな歓楽の光景であり、お客に大いに楽しんでもらえたということだ。食べ物も飲み物と同じく日本人の口に合うらしく、テーブルに満載した大量の珍味佳肴がたちまち消えてなくなるのには、いちばん大食いのアメリカ人でさえびっくり仰天させられた。日本人の猛烈な食欲にあっては、料理の選択やコースの順序などおかまいなしで、魚と獣肉と鶏肉、スープとシロップ、果物とフリカッセ、焼き肉と煮た肉、漬物とジャムをごたまぜにして、食通があっと驚く邪道ぶりを示した。

(中略)

さて、日が暮れると、日本人は飲めるだけの酒をしたたか飲んで、退艦の用意にかかった。陽気な松崎は両手を提督の首にまわし、よろよろしながら抱きしめて、提督の新しい肩章を押しつぶしながら、涙ながらに日本語で、英語に直せば『Nippon and America , all the same heart』[日本とアメリカの心はひとつ]という意味の言葉を繰り返した。それから彼は自分より多少はしっかりしている同僚に助けられて、ふらふらしながら舟に乗り込んだ。まもなく上機嫌の一行は艦を離れ、すばやく岸に向かっていった。最後の舟がボーハタン号を離れるとき、サラトガ号は一七発の礼砲を放った。」(ペリー艦隊日本遠征記下P211~213)

ペリーの副官は、松崎がペリーの首に腕を巻きつけたことについて、提督が嫌がるのではないかと気遣ったが、のちにペリーは「彼が条約に調印するなら『キスさせても良かった』」(加藤P207)と語っていたという。ただの面倒臭い酔っぱらいと化した松崎満太郎を始め日本側はかなり羽目を外していたようだが、文中にもある通り、米側も「お客に大いに楽しんでもらえた」と全く意に介していない。

また、中略部分は日本人が余った料理を袖の中に入れて大量に持ち帰っていたこと、また出された料理を持ち帰ることこそが礼儀と考えていたこと、黒人音楽ショーを楽しんだことなどが書かれている。

ところで、羽目を外した松崎だが、松崎に対するアメリカ人の第一印象は「不快」であったから米側の印象が最初とこの饗宴とで大きく変わっているのも面白い。松崎は代表団第五位の地位を与えられて臨席し交渉の経緯を配下に記録させていたのだが、何者か米側には掴みづらかったらしく、最初の交渉時の記録には「ひょっとしたら皇帝本人であったのかもしれない」(下P156)などと書かれてもいる。まぁただの陽気なおじさんであることがわかって好印象に変わったようだ。ペリーも「外見はいかめしく無愛想だが、彼はむしろ、この世の華やかで善なるものを好むようである」(加藤P204)と書いている。

1854年3月31日

この日、日米和親条約が締結され函館・下田の開港と両港での補給、漂流民の救助、アメリカへの最恵国待遇付与、十八ヶ月後の米領事駐在の許可などが定められた。日本は開国に向けて大きく舵を切ったのである。この条約締結後、日本側主催による饗宴が行われている。

「全員が席に着くと、給仕がすばやく次々と料理を運んできた。献立は主に濃いスープというよりはシチューに近いもので、たいていは鮮魚が中心だった。料理は小さな土製の鉢または椀に入れて出され、四方約一四インチ[約三五センチメートル]、高さ一〇インチ[約二五センチメートル]の漆塗りの大に載せて運ばれ、賓客のひとりひとりの前の食卓に置かれた。料理ごとに醤油その他の調味料が添えられ、食事中を通して独特の瓶に入った日本の国民的リキュールであるサキ[酒]、すなわち米から蒸留した一種のウィスキーが大量に出された。いろいろな甘い糖菓や多種多様なケーキ類が、ひときわふんだんに食卓のここかしこにおかれていた。宴会が終わりに近づくと、焼いた伊勢エビが入った皿、魚の揚げ物、ゆでたエビ二、三尾と白いゼリーを固めたような小さな四角いプディングが各人の前におかれ、これは賓客が帰還したあとで艦に届けられるはずだと告げられた。確かにあとで送られてきたので、しかるべく受け取った。」(ペリー艦隊日本遠征記下P220)

「その優雅で行き届いた心遣いは、礼儀のうえで欠けるところがなかった」「日本人のもてなしは、大変手厚いもの」と大変な好印象だったようだが、食事の量の少なさや「料理の技術については好ましからざる印象」だったとも書かれている。とはいえ、それらは些細な問題で米側は「この宴会を楽しく陽気に過ごし」たと書かれている。ちなみに日本側が「神奈川では最高の品を手に入れるのが困難なので、食事がみすぼらしいものになってしまったと陳謝」(下P221)している。双方の相手を思いやる配慮が光っていた。前述の通り、このような記述から3月8日のところで紹介した記述は3月31日のものではないのかな。加藤著の記述の元になっている史料がよくわからないので一応疑問だけ。

というわけで、日本を揺るがせた黒船来航は日米和親条約の締結によって一区切りし、時代は幕末へと突入する。次の日米修好通商条約によって定められた様々な不平等条約が幕藩体制を揺るがし列強の進出、攘夷運動、志士たちの活躍、大政奉還、戊辰戦争、明治維新へと激動していくことになるが、最初の黒船来航をソフトランディングさせることができた要因の一つに、このような飲みニケーションがあったということで。

参考書籍

ペリー艦隊日本遠征記 上
万来舎
売り上げランキング: 128,181

ペリー提督日本遠征記 上< ペリー提督日本遠征記> (角川ソフィア文庫)(kindle版)

ペリー艦隊日本遠征記 下
万来舎
売り上げランキング: 236,360

ペリー提督日本遠征記 下< ペリー提督日本遠征記> (角川ソフィア文庫)(kindle版)

幕末外交と開国 (講談社学術文庫)
講談社 (2014-10-24)
売り上げランキング: 12,529
ペリー来航 (日本歴史叢書)
三谷 博
吉川弘文館
売り上げランキング: 673,059

ペリー来航関連記事

ペリー艦隊の日本人、サム・パッチこと仙太郎の生涯
日本史の画期となった嘉永六年(1853)の黒船来航時、ペリー艦隊の中に水夫として一人の日本人がいた。彼は安芸(現在の広島県)出身の船乗りで、...
「犬たちの明治維新 ポチの誕生」仁科 邦男 著
明治維新は日本人と犬との関係をがらりと変えた。共同体の中の犬から飼主と飼犬という個と個の関係へと、近代化のプロセスの中で揺れ動く犬を巡る価値...
「ホームズ船長の冒険―開港前後のイギリス商社」横浜開港資料館編
幕末の日本、黒船の来航を機に鎖国から開国へと大きく移りゆく中、多くの外国人が次々と日本を訪れた。中でも最初期に訪れたのが一攫千金を夢見る商人...
幕末の金流出は何故ハイパーインフレを起こしたか?
安政五年(一八五八)に締結された日米修好通商条約の結果として、経済面で二つの現象が起きた。第一に日本から海外への大量の金流出、第二にハイパー...
『江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」』家近 良樹 著
ペリー来航から大政奉還・王政復古・鳥羽伏見に至る江戸幕府解体の過程は長く西南雄藩を中心にしての見方が支配的だったが、1980~90年代以降、...
江戸時代のナポレオン~「江戸の海外情報ネットワーク (歴史文化ライブラリー)」岩下 哲典 著
徳川幕府の支配体制の解体から明治維新へと至るプロセスに「情報」が大きな役割を果たした。特に鎖国下の海外情報は幕府によって管理統制されてその流...
スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク