「幕末外交と開国」加藤 祐三 著

黒船来航から日米和親条約に至るプロセスを「(1)無能な幕府が(2)強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、(3)極端な不平等条約を結んだ」(P257)と理解する見方が強まったのは明治十年以降だという。明治政府は一連の条約改正を政治課題に掲げて前政権である幕府の無能無策を強く主張するキャンペーンを張り、これが通説として長く信じられるようになった。しかし、史料を丹念に追うと、このような幕府無能説、軍事的圧力説、日米和親条約の不平等条約説はどうにも当てはまらない。では黒船来航はどのような過程をたどったのかをコンパクトかつ丁寧に解説したのが本書である。

まず、黒船来航は幕府にとって青天の霹靂、であったとはとても言えない。前々から幕府は周到な準備を行っていた。まず、前提としてアヘン戦争を契機に海軍をもたないことから諸外国より劣勢にあるという認識の下で、外国船に対し強硬に武力で追い払うとしていた文政令(1825)を改め、発砲せず物資を援助して帰帆させる穏健策である天保薪水令(1842)に対外国船政策を切り替えていたことがある。「避戦」が幕府の基本方針になっていた。ペリー来航以前にも何度(1845、46、49年)か米国船が沿海に姿を見せ、漂流民の保護と引き渡しなど円満解決させていた。アヘン戦争の衝撃から英国への警戒感が強かった反面、友好的な態度で接してきた新興国である米国に対し親米論が幕府で強まっていた。

次にオランダからペリー艦隊来航情報が幕府にもたらされたことが大きい。米国の東インド艦隊対日派遣情報を掴んだオランダはオランダ商館長にドンケル・クルチウスを任命、彼に全権を与えて米国より先に日本に開国させて有利な条約を結ぼうと、詳細なペリー艦隊来航情報を幕府に与えている。1852年4月7日付「オランダ別段風説書」である。来航時期、艦隊構成、目的など、時期を除けばかなり正確な情報で、幕府もオランダからの開国要請をかわしつつ、この情報を元に、来航地を長崎か浦賀と想定してオランダ通詞(通訳)の人事異動や浦賀奉行所の人員強化など周到な準備を行っている。ただ、黒船来航情報は情報管理が徹底していて奉行レベルでとどまっていたから、現場レベルでは若干の混乱があったらしい。

ところで、有名な「泰平の眠りをさます上喜撰たつた四はいで夜も眠れず」という狂歌が当時歌われたとされるが、実はこの狂歌、史料上確認できるのは明治時代になってからで、どうも黒船来航時のものではなく、後世の創作らしい。このあたりは岩下哲典著「予告されていたペリー来航と幕末情報戦争 (新書y)」(絶版)に詳しい。

一方、ペリー艦隊派遣に至る米国の事情も複雑だ。そもそも巨大な蒸気船は何のために作られたのというと、米墨戦争(1846~48)である。日本に派遣された蒸気船のうち三隻はいずれも1846年に建造が決定されたもので、戦争が予想外に早く終わったことで完成は戦後となった。そこで、まずアメリカ=メキシコをつなぐ郵船航路が構想され、その延長線上に英国が構想していた太平洋横断航路に先んじての太平洋横断航路構想が持ち上がる。そのためには英国が支配力を強めていたアジア方面に新造艦を投入することになり、漂流民や捕鯨船の保護を名目として東インド艦隊への配属が決定するが、ネックとなるのが補給網である。当時、米国は船舶の補給を英国に頼りきりだったから、どうしてもアジア太平洋地域に独自の補給基地が欲しい。最新鋭艦を複数持ってはいても世界展開できるような軍事力・兵站に乏しい新興国米国が目をつけたのが日本であった。

1845年の捕鯨船マンハッタン号の浦賀来航、46年ビッドル提督の浦賀来航、49年プレブル号の米国人漂着民引き渡しと、穏健策を取っていた日本は、米国にとって話が通じそうな交渉相手とうつった。この頃英国も日本派遣を企図していたが、太平天国の乱(1851~64)の影響で中止を余儀なくされている。なんとしても英国に先んじて日本と条約を結び補給基地としたい、在外米国船舶と米国人漂流民保護の協力関係を結びたい、できれば通商も行いたい。また、折よく日本人漂流民17名(詳しくは→「ペリー艦隊の日本人、サム・パッチこと仙太郎の生涯」)が米国船に救出されてアメリカに到着しており、この引き渡しも口実にできる。

このような背景であったから、日本への開国要請に際し、日本と交戦状態となることは最も避けなければならない。なぜなら、隣国中国に展開する英国の介入を招くことになりかねないからだ。これを機に英国が日本の側につくか中立宣言でも出そうものなら、米国船は英国支配下の諸港に寄港できなくなり、物資が絶たれてしまう。また、米国の国内情勢的にも、当時のフィルモア大統領の与党ホイッグ党は議会内少数派で、宣戦布告権限は議会に属するから、いざ対日開戦となれば、議会の突き上げで大統領の首が飛ぶことになりかねない。というわけで、派遣に際し、フィルモア大統領は発砲厳禁の命令を出した。軍事力の発動が許されないから、「巨大艦船を誇示することで、交渉を有利に進めたい」(P71)という意図が働き、蒸気艦船四隻を含む東インド艦隊による日本派遣となったわけである。

日本側はアヘン戦争に代表されるアジア方面での列強の角逐と軍事的劣位の危機感、米国艦隊来航情報にもとづく対応策の準備があるものの米国の意図を掴みかねていた。米国側は英国の動向を念頭に置きつつ、補給網の脆弱さを補い、外交法権(自国民保護)を確立するための、非軍事的手段による交渉を大前提としての対日開国要請を行うことに乗り出した。この情報をキャッチしたのはオランダだけではなく、ロシアもそうで、ペリー艦隊と入れ違いにわずかに遅れてプチャーチン艦隊が来航、ほぼ同時進行で二つの開国交渉が行われることになる。

交渉経過は本書を読んでもらえばわかるが、米国側に劣らず日本側も相手の矛盾を突いて様々な譲歩を引き出しているし、お互い対等な関係の上で、親睦を深め(参考→「幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ」)たりしている。結局、十九世紀の国外情勢のダイナミックな変化を幕府も把握・分析して鎖国体制の維持が最早不可能であるという認識の上で――しかし、条約は鎖国体制の変化をもたらさないというロジックで――英国より新興国米国との協力関係を積極的に築こうとしたというのが黒船来航であった。

著者は十九世紀の国際関係を「列強」「植民地」「敗戦条約国」「交渉条約国」の四つに分類して、日米和親条約を「交渉条約」に位置づけている。「植民地」は国家三権(立法・行政・司法)を喪失した政体、「敗戦条約国」は戦争に敗北し賠償金支払いや領土割譲などの懲罰を受け、不平等条約の締結を余儀なくされた政体、「交渉条約国」は「領土割譲も賠償金支払いもない、代わりに贈答品の交換という古代からの慣習が行われる」(P251)、条約の不平等性も弱い政体である。

日米和親条約が全く不平等でなかったかというとそうではない。第九条の最恵国待遇付与や、条約期間の未設定など細かい部分で片務的な条項があるが、当時の慣習の範囲内とも言えるので実際大した問題ではない。むしろ、大きな問題になるのは条約文が漢文、日本語、オランダ語、英語の四種類、さらに署名者が異なる版も含め六種類あり、かつ翻訳の違いで条項の理解が日米で齟齬が大きかった点だ。

条約の齟齬について、本書ではなく三谷博「ペリー来航 (日本歴史叢書)」によれば、最大の齟齬として十二条の領事駐在に関し、米国側は十八ヶ月後駐在を開始すると理解し、日本側は十八ヶ月後領事駐在に際し日本側の同意が必要(すなわち拒否できる)と理解した。どうやら前者で合意していたのを、日本語条約文にするときにおそらく全権林大學頭や通詞森山栄之助らが改竄した疑いが強いという。翻訳上のミスなのか意図的な改竄なのかはよくわからないが国内の強硬派が納得出来る条約とするような配慮がなされていたかもしれない。これが後にハリスの駐在を巡って国際問題、さらにはハリスの駐在が国内の攘夷運動に火をつけることにもなるので、非常に興味深い問題だ。

幕府は無能ではなくかなり優秀な外交手腕を見せていた。一方で人間の集団であるから無謬ではない。相互の利害があり、各々の国内でも対立があり、その調整の過程でどうしても齟齬が出る。無能だ、軍事的圧力に屈した、不平等条約を余儀なくされた、幕府は滅びるべくして滅びた・・・と一面的に切って捨てるのではなく、その過程を丁寧に追うことで見えてくることは非常に大きい。(外交官僚だけでなく経済官僚の優秀さについては「幕末の金流出は何故ハイパーインフレを起こしたか?」)そういう当時の人々の営みを垣間見るための基礎知識として本書は有用だと思う。近年、幕末の研究はすごい勢いで進んでいるのでこれを読んだら色々と他にも手を出してみることをおすすめする。

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