「江戸の文人サロン―知識人と芸術家たち」揖斐 高 著

十八世紀のヨーロッパ、フランスでは貴族夫人が政治家・知識人・芸術家を招いて自身の邸宅を社交の場と化し、イギリスではコーヒーハウスに知識人・芸術家・文筆家・商人が集まって日々議論を戦わせた。同じ頃の日本でも、江戸大坂京都の三都を始めとした各都市に文人と呼ばれる知識人たちが、詩文書画学問文雅を媒介に寄り合いの場を設けて交遊した。江戸時代に発展した「知識人が自由に離合集散して談笑・議論し、社交する場」(P3)としての文人サロンはどのようなものであったか、様々な興味深い例とともに、文化史の中に江戸時代の文人サロンを位置づけようと試みた一冊。

以前紹介した「『江戸の読書会 会読の思想史』前田 勉 著」とあわせて読むことをおすすめしたい。

文人とは何か、著者は以下の四つの特徴を挙げている。

(1)読書人であり、高度の知識人である。
(2)重大な政治権力の行使に直接的には関わらない。
(3)詩文書画など古典的な文学・芸術に堪能で、かつ多芸多才である。
(4)世俗的な価値基準より自己の内面的な精神生活の充実を重視し、反俗的・隠遁的・尚古的な姿勢を示す。(P4)

彼ら文人の登場は十八世紀初頭享保期(1716~36)頃で、登場の社会的背景として、身分制度の固定化、富裕層の登場、教育の普及によって、知識人層が増加する一方で、身分制度の厚い壁の前にその知識を活かせる地位・職業まで上昇することは容易ではなく、閉塞感が広がっていたことがある。(詳しくは上記江戸の読書会記事および「日本で初めて反射望遠鏡を作った鉄砲鍛冶「国友一貫斎」」で蘭学勃興の背景としてまとめているので参照ください)彼らは現実を拒絶し、実用的な学問から遠ざかって文学・芸術の中に身をおき、遊ぼうとする。儒学の知識を基礎として、理想的な古代社会に思いを馳せ、風雅の理念を見出す。

「現実社会に満ち溢れる卑俗さを排除しつつ、みずからの生活を尚古的な心情と風雅の理念によって美化し、芸術化すること、それが江戸文人たちの庶幾するところであった。江戸の文人サロンとは、まず基本的にはそのような知識人たちの思いを具現化する場として存在するようになったと考えてよい。」(P5)

「庶幾」は心から願うこと、という意味。

このような社会的背景で生まれた文人サロンの大きな特徴は俗世における身分や地位の上下、富の大小から自由な共同体として構成される。彼らは身分制度から逸脱した対等な個人として交遊したのである。これについては意外と思うかもしれないが、要するに社会の閉塞感を背景としてアジール的なコミュニティが登場してきていたのである。本書には書かれていないが、参加していたのはせいぜい下級武士止まりで、高位の武士階級との間の断絶があった点も大きかったのだと思う。また、詩文書画などの習得という目的を持った集まりとして形成されていた点も特徴的で、真面目に芸術や文学を実践し、学問を学んでいた。

本書では漢詩サロン、狂歌サロン、蘭学サロン、考証サロンを、それぞれ章を立てて紹介しつつ、文人サロンの隆盛から変質、衰退の過程を追っていく構成で最終的に明治の西洋的な社交サロンと交錯していくことになるが、それぞれとても面白いので読んでみてください。揉め事が揉め事を呼び迷走するコミュニティ、ぶつかり合う自意識、崩壊する人間関係、炎上ウォッチャーにして炎上芸人の論争好きブロガー曲亭(滝沢)馬琴先生のめんどくさい勇姿など色々楽しめると思います。

目次
「サロン」と「文人」――プロローグ
商都大坂の漢詩サロン
  混沌以前
  混沌社の成立
  武士と町人のサロン
  サロンから生まれた詩
江戸狂歌サロンの実像
  江戸狂歌とは何か
  痴者のサロン
  江戸狂歌の隆盛と狂歌サロンの崩壊
蘭学と桂川サロン
  『解体新書』まで
  桂川のサロン
  蘭学サロンと戯作壇
  おらんだ正月
奇物奇談の考証サロン
  随筆と考証
  耽奇会と兎園会
文人サロンの喧騒
  書画番付騒動
  「妙々奇談もの」の季節
  書画会の流行
文人サロンのゆくえ――エピローグ

大きな流れとしては、欧州で「都市の空気は自由にする」と言われたように日本の三都でも都市的な自由を謳歌した人びとが旧来の地縁血縁共同体からも身分制度からも解放されて「社」「会」「連」と呼ばれる寄り合いの場を形成、対等な交遊を通じて情報の流通交換が行われた。やがて、文雅の大衆化の過程で文人サロンでは純粋に芸術や学問の追求だけではなく、商業主義的な動きも芽生え、サロンを通じて財産を築く人びとも現れ、その是非が論争の題材にもなった。また、サロンのありようや人間関係を巡ってジャーナリズム的な視点からの批評考察も始められることになり、純粋な趣味と知識の共同体としての文人サロンは変質を余儀なくされた、ということになる。

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「書画番付騒動」

そんな文人たちの揉め事の一つ、「書画番付騒動」が非常に馬鹿馬鹿しくて面白い。江戸時代はなんでもかんでもランキング付けたがる流行があった。いわゆる番付で、相撲番付や長者番付だけでなく酒に料理にお店、観光名所、神社仏閣、学者、俳人などなど様々な番付が、特に結構根拠無く作られて出回り、人びともそれを利用し楽しんだ。

文化十二年(1815)、作者不明の怪文書として当時の文人を番付にした書画番付が出回り、これが文人たちの間で話題になった。真犯人は名高い詩人菊池五山とその門人たちで、自分たちを関脇以下においてカモフラージュしつつ、売名と自尊心とを目的に製作されたものだったようだ。自信家で知られた東の小結に位置づけられた儒者大田錦城は自分の番付が墨で消されたものを見て怒り心頭、関係者から菊池五山らが犯人と聞き出し、無関係な五山の師匠まで含めて批判を展開、これに対し五山の門人が、真犯人は自分を墨で消して誤魔化した大田錦城だとする文書で応酬、実にバカバカしい言い争いが展開された。結局、菊池五山らが真犯人であることが明らかになり、彼らはグループの出版物を休止させることになった。

著者は魏の曹丕の「典論」から「文人の相ひ軽んずること、古へよりして然り」という言葉を引いて、この茶番を紹介している。まぁ、二千年やそこらで人のありようが変わるわけでもなし。

江戸の即売&サイン会「書画会」

また、「書画会の流行」は趣味・芸術とビジネスの関係をあらためて考えさせる面白い例だ。

書画会は文字通り書画を楽しむ会のことで、当初は書画を持ち寄って楽しむ展覧会系統と、文人が料亭などに集まって即興的に書画や詩を描く席書・席画系統の二つの書画会があったという。後者の席書・席画系統書画会がやがて詩人や書画家・戯作者たちによって出版記念・還暦等祝賀会・資金集め目的の書画会へ発展する。参加者は祝儀を包んで会場に赴き、酒食が供され、会主が書画を頒布する。会主の他、有名ゲストが呼ばれて書画を揮毫することもある。要するにサイン会&即売会&資金集めパーティのようなもので、有名人になるとこれで一財産築くことが出来た。寛政年間(1789~1801)に始まり、天保年間(1830~44)に隆盛を迎え、書画会の企画運営を行うイベンター的な団体も登場して組織化・定例化が進んだが、趣味の集まりから商業主義的イベントへという変質は当時から批判が多く、人間関係のしがらみで参加せざるを得ない文人たちの間でも評判が悪かったようだ。しかし、なんだかんだで書画会は明治期まで続き、「書画の鑑賞力を欠いた人びとが集まり騒ぐイベントと化し」(P202)ながらも、芸術の大衆化に大きく貢献することになった。

趣味を楽しむことと金儲けとをどう両立させるか、江戸の書画会は一つの例を提示していて興味深い。元々の書画を楽しむという目的はかなり後景に追いやられて、金儲けが最大の目的になっていることは否めない反面、書画会という自身の作品の発表の場を通して、それで収入を得てさらなる創作活動の糧にするというサイクルにもなっている。特に当時は原稿料で生活できるのはほんの一握りでしかなく、史上初めて原稿料で生活できたという山東京伝も書画会で資金集めを行っているし、書画会を毛嫌いした曲亭馬琴も、なんだかんだで書画会を開催している。ビジネスと芸術を見事に両立させて突き進んだ葛飾北斎という巨人も居る。一方で、狭い文人の交遊が書画会への参加というしがらみを生み、文人サロンの変質と衰退に少なからず影響を与えたことも、本書で指摘される通りだ。創作・芸術と金、社交と市場経済の関係を模索した一つの過程として、面白い例だと思う。

このようなサロンすなわち「知識人が自由に離合集散して談笑・議論し、社交する場」の武士階級への展開については上記の「『江戸の読書会 会読の思想史』前田 勉 著」を読んでいただけるとわかると思います。文人サロン同様に、地位や身分から自由な読書会がやがて明治維新の思想的バックボーンを提供していく過程が描かれているので。

参考書籍
・綾部恒雄 監修, 福田アジオ 編集「結衆・結社の日本史 (結社の世界史)」(同書の第三章近世文人とその結社「社中・連中」(揖斐高論文)参照)
・前田 勉 著「江戸の読書会 会読の思想史
・佐藤 至子 著「山東京伝―滑稽洒落第一の作者 (ミネルヴァ日本評伝選)

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