由比正雪の乱(慶安の変)と江戸時代前期の牢人問題

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徳川家一門松平定政の乱心

慶安四年(1651)四月二十日、三代将軍家光が死に、老中堀田正盛・阿部重次を始め多くの家臣が殉死し、あるいは隠居・出家して一線を退いた。

同七月九日の三河刈谷藩主松平能登守定政・定知親子の出家もその流れかと思われたが、少々様子が違った。定政は徳川家康の異父弟松平定勝の六男で、徳川家一門に連なる二万石の大名であった。定政は出家して「能登入道不白」と号し、現在の老中たちでは世が乱れると語り、老中井伊直孝に自身が見た夢を書き連ねた文書を送りつけ、「天徳大居士」と号して江戸を托鉢して回って人びとを驚かせた。七月十八日、幕府は定政を狂気として改易、兄の伊予松山藩主松平隠岐守定行に預け蟄居とし、この騒動は終わった。

彼が言いたかったことは、人びとが困窮しているのに幕府はその救済を全く行おうとしない、自分の二万石を例えば五石ずつ分ければ四千人に分けられる、自分が二万石の禄を食むよりみんなに分けたほうがよほど公儀のためになる、ということであったとも言われ、幕府内部でも定政に同情的な意見が少なくなかったともいう。このご乱心騒動が続いて起こる由比正雪の乱に大きな影響を及ぼすことになった。

徳川幕府成立後から家光時代を通して幕藩体制確立の過程で諸大名の転封・改易が相次いだ。幕府直轄領が増大し、要所には譜代大名・旗本が配置され、外様大名と譜代大名とが相互牽制し合うよう所領が配置される。この間に大名の改易・減封によって、幕府草創から慶長四年までの約五十年間で十万から最大四十万まで説によって違いがあるが多くの「牢人=職を失った武士」が発生、牢人の存在は社会問題となっていた。また、浪人は身分を問わず浮浪している者のことで、浪人と牢人はその対象として違いがあるが、江戸時代中期以降牢人も浪人と呼ばれるようになった。

由比正雪の乱(慶安の変)

慶安四年七月二十三日夜、老中松平信綱の下へ軍学者由比正雪の一党に叛乱計画ありとの密告があり、続いて別ルートからも同様の情報が伝わって騒然となった。まず、信綱の家臣奥村権之丞の弟八左衛門と従兄弟の幸忠が兄を通じて信綱へ、彼らと前後して林知古という者が幕臣大沢尚親を通じて信綱へ、また、御弓師栗林藤四郎が町奉行所へ、牢人の田代次郎右衛門もいずこかへ密告した記録がある。実行に至る前段階で由比正雪の計画は多くの密告者によって幕府の知るところとなった。

由比正雪とは

叛乱計画の首謀者である軍学者由比正雪は後に様々な創作の対象ともなったため知名度が高い人物だが、その素性はよくわからない。名前も自署は由比正雪だが幕府の手配書では由井正雪となる。おそらく本姓は岡村だったと思われる。駿河の由井出身とも駿府出身とも言われ父岡村弥右衛門は紺屋(染物屋)を営んでいた。正雪は幼少の頃僧侶となり、後に江戸に出て菓子屋の養子となったあと、楠木正成の末裔とされる「楠正辰伝楠流」軍学の楠不伝に弟子入りして軍学を学び、不伝の死後、その後継者として中国の著名な軍師「張良」「孔明」からとった屋号張孔堂を号して多くの弟子に軍学を教えた。後継者となる過程も楠木氏ゆかりの品々を強引に我がものとしたなどきな臭い噂が多いし、師の不伝を毒殺したのではないかとも言われる。軍学者としての評判も、新井白石は手紙で、弟子たちは心酔しているようだがと但し書きしつつ「その力量の程度は知れる」「論ずる価値なし」といったことを書いている。一方後世の講談などでは若くして才能ある人物、堂々たる軍学者として語られることも多い。

何にしろ、うさんくさい人物、山師といった印象が強い。とはいえ、このうさんくささは現代人からの目線であって、この時代の人びととしては珍しくない。手段を選ばず成り上がり生き抜こうというバイタリティは江戸時代前期の江戸に集まった人びと共通の時代精神と言える。そういう意味では、ごく普通の人であり、本来なら歴史に名を残すような人物ではなかったのだろう。

叛乱計画と失敗

由比正雪の叛乱計画は後に幕府の記録に残されたところでは、江戸で丸橋忠弥の指揮の下、塩硝蔵下奉行河原十郎兵衛の手引で江戸城北の丸の塩硝蔵(火薬庫)を爆破、続いて各所に放火して江戸を混乱させ、急ぎ登城する幕府幹部を襲撃する。同時に大坂と京都でも人を集めておき、騒動を起こす。大坂城・二条城乗っ取り計画もあったと言われる。一方正雪は牢人を集めて東照宮のある駿河久能山を占拠、金銀を確保した上で駿府城を攻略、江戸市中、街道の宿場を順次を焼き払った後駿府城に集合して正雪が東西に号令する、というものだった。

この人員を集めるために正雪が利用したのが紀州徳川家の徳川頼宣の名だった。かねてから頼宣は軍学者を厚遇し、かつ武芸に秀でた牢人者を積極的に雇用するという評判が高かったため、頼宣の印を偽造して、牢人たちに紀州徳川家の仕官斡旋の希望を抱かせ、あるいは紀州家謀反の噂を吹き込んだりして仲間を集めていたようだ。一方で資金集めには困っていたようで、幹部丸橋忠弥の借財の申し入れから計画が露見していく。

二十三日夜のうちに丸橋・河原ら江戸の幹部が捕縛、主要メンバーも各地で捕らえられ、二十六日明け方には駿府に潜んでいた正雪も囲まれて正雪以下八人が自害、二十九日には一味の牢人五十七人が逮捕され、行動を起こす間もなく由比正雪一党は壊滅した。

進士慶幹著「由比正雪(人物叢書)」から、由比正雪の遺書の日本語訳を引用

「このたび、そしる者があり、私が叛逆をしたように、お聞きになったこと、無理もないと思います。しかし、私のような者で、どうして、今の天下を乱し破るようなことができましょうか。とはいうものの、天下のお仕置が無道で、上下の者どもが困窮していることについては、心ある者ならば、必ず悲しく思うところです。だのに、松平定政殿が、諌めるために出家されたことも、正しくは受けとられずに、狂人と扱われて、忠義の心が空しくなってしまいました。これは、天下の大きな歎きであり、上様の御為にもならないことと思われます。私は力の足りない者ではありますが、天下を困窮させる張本である大老の酒井忠勝殿らを政権から離させようと事をたくらみ、人数を催し、籠城して、このことを天下に弘く知らせると同時に、天下御長久の政策を申し上げ、そのあとはいかようの処分をも受けようと計画しましたが、途中で失敗してしまいました。また、紀州家(頼宣)のお名前を拝借しなくては、人なども集められないため、その御扶持を頂いている者と申しました。実は私はどなたからも扶持を受けてはおりません。以上のことは決して嘘ではありません。まだ申し上げたいこともありますが、ゆっくり書いていられませんので、とりあえず、これだけ申し残します。以上。」(P175-6)

遺書にある文面の計画と幕府の記録にある由比正雪の計画とでは大きく違うが、実際のところどういう計画であったのかは正雪が自害してしまったこともあり謎のままだ。丸橋ら幹部と牢人ら一味、および正雪の父や兄弟、叔父らが連座してまとめて処刑され、由比正雪の乱は終結した。頼宣に対する喚問も行われたが頼宣は堂々たる受け応えで疑いを晴らし、詐謀に使われた印の改印を行ったという。

由比正雪の乱後の牢人問題対策

排除か救済か

十二月十日、老中が集まり由比正雪の乱の総括が行われ、牢人問題に話が及んだ。大老酒井忠勝は『去頃正雪・忠弥が党、非望のくはだてをなし、既に海内の騒擾に及ばんとせり。祖宗の慰霊と国家の幸福をもて、速に其こと露顕して靜謐に及ぶ。これしかしながら、天下の処士等、多く府下に群居するゆへ、かゝるひが事も出来るによて、この後府下の処士を悉く追払はゞ、永世靜謐の基たるべし』すなわち、正雪の乱のような騒乱の原因は浪人が江戸に集まっているからで、江戸から浪人を全て追い払ってしまうことが「永世靜謐の基」であるという。保科正之、松平信綱がこれに賛意を示した。

これに対し、老中阿部忠秋はこう反論した。

『忠勝の議その理なきにあらずといへども、必竟国家の令申、かくのごとく狭隘なる事あるべからず。府下は天下の諸大名の会期する地なれば、何方にも出身するに便あるをもて、処士のたづきなき者、みな来たりて府にあつまり、生産をもとむるなり。しかるに処士みな追払はれば、彼等出身の路を失ひ、旦夕にせまりて進退きはまらば、又いづかたにひそまりて山賊・強盗をもなし、良民の害を企むもはかりがたし。又彼等、さしあたりての困究はさらなり。その妻子たるもの、いかで悲歎せざらんや。この事ゆめゆめしかるべからず』

「国家の政令は、そのような狭いことではいけない。江戸は天下の諸大名が集まるところであるから、職に有り付くにも便利で、それで、浪人が多く集まって来るのである。しかし、その浪人を全部追い払ってしまえば、彼らは有り付く機会を奪われ、進退きわまるに至るであろう。そうしたとき、彼らは山賊や強盗を働くなど、良民の害になることをも企むようになる。また浪人たちのさしあたっての困窮はいうまでもなく、その妻子たちの悲嘆も推しはかるに余りある。浪人追放などは決して行うべきでない。」(進士P233)

井伊直孝もこれに賛同して『忠秋申さるゝ処尤もその理あり。かれ等府下に群居して、いかなる悪事を企たりとも、又此度のごとく追捕せられんに、何のかたき事かあるべき。天下の生霊はみな上の民なり。正雪等が所為に手懲して、諸浪人を追払ひ、彼等を飢餓せしめしと評論せられん事、天下後世に対し尤も恥べきなり』つまり、浪人が江戸に集まって悪事を働いたとしてもそれを捕まえるのに何の難しいことがあろうか。それより後世の人びとから、正雪の事件に過剰反応して浪人たちを江戸から追い払い彼らを困窮させたと評されることこそ最も恥ずかしいことだ。と。

これらの意見に酒井忠勝も松平信綱も感服して議論は終わったという。

酒井忠勝の牢人追放案も、現代から見ると無茶を言っているようにみえるが当時としては一般的な見解であろう。江戸時代の刑罰は都市圏からの追放が基本政策としてあったし、同時代の欧州をみても無職無業者に対する政策として有力なのは排除政策である。むしろ、阿部忠秋や井伊直孝の見識の高さの方が特筆されるべきで、間違いを素直に認めてそれに同意する酒井忠勝や松平信綱の懐の深さも流石と言って良い。

末期養子の禁の緩和

この議論の翌日、慶安四年十二月十一日、幕府は五十歳未満の旗本・大名による末期養子を許可した。これまで大名の相続は予め嗣子が定められていなければならず、死の直前にあわてて養子を取ることは禁止されていたが、これが認められて牢人の発生源となっていた改易・減封の緩和政策が進められた。以後、寛文三年(1663)、当主が十七歳以下でも養子を認め、天和三年(1683)、五十歳以上の場合でも吟味の上で養子が認められた。また、町奉行石谷貞清らによって牢人の再仕官斡旋も積極的に進められ、牢人問題への対応が総合的に進んだ。

根本的な解決は無理ではあったが、由比正雪の乱の六年後におきた明暦の大火後の復興・都市整備のための労働力需要の増大とその後の市場経済の発展が一時的にせよ牢人問題を吸収することが出来、牢人を巡る社会不安は静まっていった。

参考書籍・リンク
・進士 慶幹 著「由比正雪 (人物叢書)」(1961)
・大野 瑞男 著「松平信綱 (人物叢書)」(2010)
・横田 冬彦 著「天下泰平 日本の歴史16 (講談社学術文庫)
・近代デジタルライブラリー「徳川実紀 第三編」P35-36慶安四年十二月十日条
「牢人対策」(『徳川実記』)-史料日本史(0698)
浪人 – Wikipedia
慶安の変 – Wikipedia

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