「項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史」藤田勝久 著

紀元前221年、秦帝国は戦国時代を終わらせて中国を統一したが、統一からわずか十五年で滅亡した。なぜこれほど短期間で滅亡したのか、本書では秦と、秦を滅ぼす人材を次々と輩出した楚との社会システムの違いに注目して、項羽と劉邦の時代の変化を描いている。

秦帝国滅亡の要因として、第一に始皇帝死後の権力闘争、第二に大規模な土木工事と対外戦争による民衆への負担、第三に急激な統一による統一政策の不備、第四に秦と違う風土を持つ社会に秦の制度を適用させようとしたことによる軋轢、などが挙げられ、特に、第四の「秦から遠方の地方で、風土と習俗が異なる地域社会に不満が蓄積したこと」が大きな問題であったとされる。

戦国時代の楚の制度と秦の制度の比較、「陳勝・呉広の乱」によって建てられた張楚国の体制、項梁・項羽が楚懐王を建てて建国した楚の体制、項梁死後項羽によって築かれる西楚覇王の体制、そして漢王となった劉邦が敷いた秦を継承した体制、項羽滅亡後の漢の郡国制まで、その変化の中に秦帝国滅亡から楚漢戦争を経て漢帝国の誕生へと至る動きが見える。

著者は項羽と劉邦の戦いの画期として一般的に重視されてきた「鴻門の会」「垓下の戦い」ではなく、漢王二年(前205年)二月、関中を掌握して秦の社会システムを復活させ、関中を本拠地とする体制を固めたときと、漢王四年(前203年)九月、漢覇二王城での和議後、約を違えて項羽追撃に移ったときの二つを挙げている。その後楚王となった韓信の降格によって漢は郡国制に移行、漢初期の異姓諸侯王の粛清と「呉楚七国の乱」(前154年)による劉氏諸王の失脚を経て実質郡県制に近い体制へと移行していく。

面白かったのは「陳勝呉広の乱」によって建てられた張楚国の体制が結構しっかりしていることで、勢いでばーっと作ってばーっと滅びた印象があったので興味深かった。また、彼らが詐称し祀り上げた秦の公子扶蘇と楚の将軍項燕について、なぜ扶蘇と項燕だったのかの考察も面白い。秦王政(始皇帝)親政の契機となった呂不韋失脚につながる嫪毐の乱(前238年)にさかのぼって乱平定の主力となっていた楚王族昌平君との関連で謎解きがされている。

また、劉邦の勢力沛公グループの体制と社会基盤についても興味深い。「実質は県レベルの社会層を基礎としながら、県令としての関係よりも、沛公の客と舎人に代表される結合を、より強くもっていた」(P109)こと、「沛県で蜂起したときから民政系統と軍事編成を備え」(P109)、項梁陣営に参加したときも「蕭何や曹参のような官吏をブレーンとして、県社会のシステムを保持しつづけ」(P109)ながら、楚の一員へと姿を変えたもので、他の勢力と比較して独立した行政機構を備えていた点で大きな違いがあったようだ。

こういう社会システムから見る立場なので蕭何の評価は、歴史上も第一の功臣に挙げられるが、かなり高く、続いて韓信についても、特に軍事編成や補給を重視している点などを取り上げて高い評価を与えている。一方で張良はほとんど語られていなくて参謀の一人ぐらいの扱いではある。少なくとも人物伝重視ではない項羽と劉邦の時代を捉えようとしている点で本書は一貫している。

秦帝国が目指した各地域統合の試みは大きな軋轢を産んで混乱と戦争を巻き起こし、漢帝国に受け継がれておよそ百年かけて、地域社会の再編成が行われ、中国だけでなく周辺諸国にも大きな影響を及ぼしつつ、武帝の時代に一定の完成を見た。この枠組が以後中国史上のスタンダードとして受け継がれていく。その中国誕生の過程を「社会システム」という切り口で見る一冊となっている。

ちなみに劉邦陣営では名外交官の酈食其といぶし銀の曹参、項羽陣営では項羽配下の双璧龍旦と鍾離昧なんかを推したいところです。龍旦は慢心して韓信を甘く見たのがだめだった以外はかなりいけてた。鍾離昧はほんとナイスガイ。項伯おじさん苦労人。盧綰は何度この時代に関する本よんでもかわいそうな末路だよなぁ。王になってしまったのがな・・・。あと彭越はどうしても項羽と劉邦の影に隠れるけど、この人も只者じゃない。あとは周勃・王陵・灌嬰にももっと光を。灌嬰とか、指揮官として屈指の良将だと思う。

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