「セルデンの中国地図 消えた古地図400年の謎を解く」ティモシー・ブルック 著

十七世紀前半の英国を代表する法律家・東洋史家ジョン・セルデンの遺産の一つに、奇妙な中国地図がある。ボドリアン図書館に寄贈されたその地図は、縦160センチ、横96.5センチと規格外の大きさなだけでなく、従来の中国地図であれば陸地を中心に描くところ、その地図の中心は南シナ海であり、また美麗な風景画の趣きがあり、中国だけでなく日本列島、東南アジアから周辺の諸島まで細かく描かれ、また非常に正確な航路が記されている。およそ十六~十七世紀頃に中国を描いた地図らしくない。

ボドリアン図書館セルデン地図ページ(”Bodleian Library | Selden Map”)(リンク先英語)

この謎の地図、誰が何のために描いたのか?国際法の父グロティウスと並ぶセルデンの事績から始まり、英国王ジェイムズ一世とオランダとの対立、アジアの海へと乗り出したイギリス東インド会社の商人たち、東アジアにネットワークを築いたマージナルな人々・・・英国、オランダ、中国、東南アジアそして日本と舞台を次々と変えつつ、海に生きた人々、国という枠組みを軽々と超えていった越境者たちの生涯を通してこのセルデン地図の謎に迫る、とても面白い地図ミステリー本である。

ミステリーなので謎解きについては控えておくとして、主な登場人物だけ簡単に紹介しておこう。

ジョン・セルデン(1584~1654)は若い頃は詩人を目指して詩作に励んでいたが、その才能を発揮することはなく、法律家の道を歩んだ。1618年、教会が神権に基いて徴収していた「十分の一税」が神から授けられた権利ではなく、教会と教区民の契約関係に基づくもので、法的根拠がないことを論じた「十分の一税の歴史」が話題となって時の英国王ジェイムズ1世に呼び出されると、自身の主張の正当性を理路整然と述べ、論文自体は禁書となったが王も彼を認め、宮廷で一目置かれるようになる。

当時、英国とオランダの間でニシンの漁業権を巡って係争となっており、そのオランダ側代表としてオランダの漁業権の正当性を論じたのが後に国際法の父と呼ばれるフーゴー・グロティウスだった。グロティウスは著書「自由海論」で「いかなる国家も海洋においては排他的な管轄権を行使することはできず、また全ての国家の船舶は貿易を目的として選んだ海域を自由に航行することができる」(P61)ことを論じた。これに反論したのがセルデンである。バッキンガム公に依頼されたセルデンは「閉鎖海論」を執筆、同書で「自然の法や国家間の法に従えば、海は万人に共有のものではなく、陸地と同様に私的所有の対象または財産となりうるものである」(P74)と書き、後に領海の観念へと発展する理論を提唱する。「今日の海洋をめぐる国際法は、このふたつが混じり合ったもので構成されており、航行の自由と妥当な管轄権の両方を認めている」(P76)。セルデンとグロティウスはこの論争を経て交流を深め、セルデンが投獄された際には保釈を求める運動を起こしてもいる。

そんな国際法の黎明期に大きな影響を及ぼした法学者セルデンはどのような縁があってこの珍しい地図を手に入れたのか。

一方、設立間もないイギリス東インド会社では、1611年、ジョン・セーリスを司令官として、後の日本商館長リチャード・コックスらを乗せて、日本へ船団を派遣した。彼らは日本でウィリアム・アダムズ(三浦按針)や、平戸を拠点として東アジア一帯を勢力下に治める中国商人の首領李旦らと接触する。明朝と深いコネクションを持つ李旦の後継者が鄭芝龍であり、明の滅亡時、李旦と鄭芝龍の築いたネットワークを継承して台湾に政権を築いたのが鄭芝龍の子鄭成功である。彼らはセルデン地図とどのような関わりがあっただろうか。

中国から外の世界へと飛び出した二人の中国人、張燮(1574~1640)と沈福宗(1658頃~1691)もまた重要な登場人物だ。科挙に失敗した張燮は官僚にならず中国旅行に出た。様々な遺跡をめぐり、さらに海上貿易に興味を覚え船乗りたちへのインタビューだけでなく実際に海に船を出して、その感動を著した。「東西洋考」などを代表作として博学な文人として知られた。一方、沈福宗は南京の医師の子だったが、イエズス会宣教師の弟子となってマイケル・シェンを名乗り、建国したての清王朝を離れてヨーロッパを訪れる。初めてイギリスを訪問した中国人だ。彼らとセルデン地図の関わりはどうだっただろうか。

ほか、多くの地図製作者、文化人、知識人、そして政治家まで様々な人びとがドラマを重ねつつ、謎の地図の来歴が明かされていくので、非常に面白い。

ところで、ここで問題です。セルデン地図には日本の地名も書かれていますが、それでは「殺子馬」「筏仔沙机」「魚鱗島」はそれぞれ何処のことでしょうか?答えは本書の181~182ページ。なぜこのような表記なのかも含めて、ひとつの謎解きになっているので何も書けないの。

著者が本書で一つ、重要なメッセージとして挙げているのが、このセルデン地図が現代において非常に政治的な意味を持ちそうなことだ。尖閣(釣魚)諸島、スプラトリー(南沙)諸島、パラセル(西沙)諸島など、現在、中国が抱える領土紛争の舞台となっている海域について、「一九世紀以前に詳細かつ具体的な地理を中国語で記した唯一の資料」(P18)であることから、外交ゲームに利用される懸念だ。著者は「この点に関して疑念を持っており、本書をとおしてそれを示し、セルデン地図がこうした問題については何も関係がないことを明らかにしていく」(P19)と述べている。

愛国心や国益は、純粋な知識の探求を阻む強力な要因になる」(P19)ことへの注意を喚起しつつ、歴史の中に埋もれた一枚の地図を取り巻く、様々な人間ドラマと学問的探求とが織りなす歴史ミステリーを鮮やかに描いた本で、最近読んだ本の中でも格段に面白い一冊だった。

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