「ポル・ポト<革命>史 虐殺と破壊の四年間」山田寛 著

破壊と殺戮の二〇世紀の百年の中でも殊更異彩を放つのが1975~79年のカンボジアを支配したポル・ポト体制であった。人口八〇〇万人の国家で、約一五〇万人から二〇〇万人が殺され、全ての国民が農地へと送られ、貨幣と市場が否定され、宗教、文学、音楽、ありとあらゆる文化が弾圧され、行政機構が解体され、多くの建造物や社会インフラが破壊された。未だ謎の多いポル・ポトによる革命を整理した一冊。

ポル・ポトとクメール・ルージュ統治下のことについてはわからないことが多い。証拠となる資料があまり残っていないこと、クメール・ルージュ時代の真相解明が政争の道具となりがちなこと、事件を総括する裁判がその後の政治状況もあってなかなか開かれず、開始されたのが2007年とかなり間が空いたこと、当事者の多くが老齢で認知症となった者もいて証言を得にくくなっていること、そしてポル・ポト一人にその責をかぶせて真実に蓋をしてしまう傾向があることなどが理由だ。ナチスが悪かった、軍部が悪かった、と同じようにポル・ポトが悪かった、で終わらせようとする。

ちなみに、本書は2004年に書かれたものなので、クメール・ルージュ裁判開始後の流れについては「カンボジアを知るための62章【第2版】 (エリア・スタディーズ)」を参照した。1950年代から2000年頃までのカンボジア政治史を概観することができるという点でも非常に勉強になる本だが、できれば近年の裁判であきらかになった事実なども含めて増補版がほしい一冊ではある。

貧農を重視したポル・ポトとその取り巻きであるクメール・ルージュの最高幹部の大半が、富裕層・上流階級出身であったという指摘は興味深い。多くがパリ留学経験を持ち、高等教育を受け、農民の苦境など想像も出来なかったし、むしろ自身がもっとも恩恵を受けてきた環境の破壊に血道を上げた結果としてポル・ポトの革命があった。若き日のポル・ポトについて本書を読む限り、カンボジアの変革ではなく「革命」そのものを目的としていたように見える。革命のための革命として始まり、ポル・ポトが理想はなくとも卓越した政争サバイバル能力を持っていたことが不幸の始まりだったのではないか、と思わされる。

ポル・ポトの革命が大量虐殺と破壊という、見るも無残な結果となった理由について、著者は「バブル革命」「人間不在の革命」「借り物の革命」「子ども革命」「自主独立偏執病革命」「ブレーキのない革命」という六つの理由を挙げている。

クメール・ルージュが政権奪取出来たのは彼らが優れていたからではなく、複雑に絡み合った国内外の情勢が引き起こした結果でしかなかった。国王シハヌーク体制は東西冷戦構造の中で中立政策により独立を保ったが、その内情は縁故主義と汚職がはびこり、権力の維持のため反対派を苛烈に弾圧する独裁体制だった。折しもベトナム戦争のまっただ中、米ソ中の列強と、南北ベトナム、そしてタイなどの周辺国の思惑の中でシハヌーク体制は動揺し、ロン・ノルのクーデターによって崩壊する。しかし、ロン・ノル体制も脆弱で、結局自壊してしまう。そのロン・ノル逃亡後都合よく首都プノンペンに入ったのがクメール・ルージュだった。この成功で自らの力と理念を過信してしまった「バブル革命」だった。

次に文化大革命の劣化コピー的に人間軽視の特徴が強いという。ポル・ポトにかぎらず幹部たちはみな動物と人間を同列に置く発言が多く、それを実際に実現しようとした。1975年のプノンペン入城以前から解放勢力にいた者を「基幹人民」、ロン・ノル支配下にあった者を「新人民」と呼び、さらに基幹人民のうち身内に新人民がおらず、普通に働いているものを「完全な人民」、最下層に「預けられた人民」、その間に「準完全人民」をおき、身分制度を作ると「完全な人民」「基幹人民」以外は家畜と同然なものとみなされた。

政策もイデオロギーも中国の文化大革命を始めとしてスターリニズム、フランス革命、北朝鮮、ベトナムなどからの借り物で構成されていた。ポル・ポト政権は農業の極端な重視で知られるが、実は「ポル・ポト最高指導部には農業経験者がおらず、自前の農業政策もな」(P105)かった。実はフー・ユオンという古参の幹部で農業政策に秀でた人物が居たのだが、事ある毎にポル・ポトに異を唱え対立していたからプノンペン入場後真っ先に粛清されている。政策だけ借りてもカンボジアの実情には合わないから、どんどん現実離れして極端な政策になっていく。

猜疑心の強いポル・ポトは身分制度を整えても新人民を全く信用できなかったらしい。信じられるのは旧体制・文化に毒された大人たちではなく、純粋無垢な子どもたちだけ、という結論に至り、十六歳以下の青少年をありとあらゆる場面で重用した。まず大人には銃はもたせられないとして子ども兵士が編成される。バカバカしいエピソードだが、ポル・ポトを軍事支援していた中国は大量の物資や兵器を送り、さらに戦車や装甲車の操縦教育も行おうと申し入れたが、ポル・ポトが派遣したのは十二~三歳の少年たちだったという。子どもたちに戦車や装甲車を運転できるはずもなく、中国は訓練実施を拒否することになった、という。兵士だけでなく、獄吏から、看護師、薬剤師、医師まで大人が追放され子どもたちがその職に就いた。当然教育をほとんど受けずに、十代前半の子どもが医師として治療を行っていたという。また、平安時代の禿(かむろ)よろしく人民を監視するスパイも子どもたちが担った。

偶然の成功による過信とベトナムへの敵愾心、そしてカンボジア・ナショナリズムの強さは「ゆがんだ自主独立精神の暴走」(P159)につながった。外国からの援助を徹底的に拒否して国民に犠牲を強いる一方で、自己の政策に対する根拠の無い無謬感が政策を誤らせ続け、その原因を外敵や無能な人民に求め、粛清と殺戮と戦争を繰り返すようになる。

そして「チェック機能」が不在だった。元々ポル・ポトはクメール・ルージュ内で苛烈な政争を繰り広げ権謀術数を駆使してナンバーワンに上り詰め恐怖政治を敷いていたが、表面的には集団指導体制を取り、かつプノンペン陥落による政権奪取までは傀儡を立てて表舞台に一切立っていなかった。制度としてまったくチェック機能が働いていなかったのである。

本書では以上のような特徴について、シハヌーク体制下でのポル・ポトの台頭からポル・ポト死後の現体制までの通史の中で描き出しているが、一方でやはりよくわからないことの方が多い。やはり、なぜこのような政策を実行しようと思ったのか、その発想の源泉はどうにも見えてこないし、ポル・ポト政権崩壊後も一定の支持を集め続けた理由もよく見えてこない。確かに虚構の革命であり、実に子供じみた妄想としか見えないのだが、やはりポル・ポトを分析し総括するにはまだまだ明らかになっていないことの方が多いようだ。また、米国と中国の思惑とベトナム戦争の趨勢がポル・ポト革命の誕生と激化に大きな影響を及ぼしていたことも本書では特筆されている。

あとポル・ポト体制下の強制収容所「S21」(現ツールスレン虐殺博物館)所長カン・ケク・イウ(通称ドッチ)が、数えきれないほど多くの政治犯を拷問し虐待し尋問して、一万数千人を死に至らしめた人物なのだが、妙に人間臭くて忠実で仕事熱心な、かのアイヒマンを髣髴とさせるような「普通の人」なのが印象的。淡々と死刑執行のサインをする一方で飼っていた鶏の死を悼んで涙を流す元数学教師で、ポル・ポト政権崩壊時には徒歩で逃走し、後にクリスチャンに改宗して難民支援活動に身を投じ、2007年からのカンボジア特別法廷では死刑判決、のちに終身刑を受けて服役している。

カン・ケク・イウ裁判については「カンボジア特別法廷 ポル・ポト派裁判 | カンボジア クロマーマガジン」という記事でその様子が紹介されているのであわせておすすめ。

そして、家族を敵視して徹底的に破壊しようとしたクメール・ルージュの最高幹部たちが、むしろ非常に家族の絆を重視していたという指摘にはいろいろ考えさせられる。虐殺について国民には謝罪せず家族に対してだけ謝罪し言い訳する幹部たち。結局、彼らには自身の身内しか見えておらず家族を乗り越えられなかったと著者は指摘している。これについては、以前紹介した南アフリカアパルトヘイト体制の裁判を総括した「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」の記述を思い出す。

書評

「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」アンキー・クロッホ 著
1990年、ネルソン・マンデラが釈放され、アパルトヘイト政策の撤廃がデクラーク大統領によって宣言されると、南アフリカは内戦の危機に陥った。そ...

詳しくは上記記事にまとめている通り、南アフリカのアパルトヘイトを総括した真実和解委員会の広報でジャーナリストのアンキー・クロッホはアパルトヘイトを主導した人々の行動原理についてルース・ベネディクトの「菊と刀」を参照しつつ戦時下日本の体制とアパルトヘイト体制の類似を考察して名誉と罪について整理した。

『人は族的な集団のなかで生きている。集団に求められたことを首尾よく成し遂げたときに人は名誉を感じ、集団の期待に反したときに恥や裏切りの感情を抱く。主流の体制から排除された集団にとって、名誉や恥は生き残りのための行動原理となり、人々の関係性に規律をもたらす。他方、罪の領域は、人の社会的属性とは無関係に、一人ひとりが対等に扱われる個人の世界に属している。そこで問題になるのは善悪を区別する倫理と行為であって、観衆が人の行為をどう見なすかは関係ない。』(「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」P413)

そして『アフリカーナーの名誉を守るためには、どんなことでも許された――たとえそれがもっとも恥ずべき政策であっても』(「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」P354)という。そして『名誉の精神は、基本的に民主主義と相容れない』(「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」P350)と結論づけ、族的な名誉と倫理を規範とする社会とをどう繋ぐかという試みとして南アフリカの真実和解委員会の活動を位置づけた。これと同じ構図がクメール・ルージュにも見て取れそうな気がするのだ。すなわち「クメール・ルージュの名誉を守るためには、どんなことでも許された――たとえそれがもっとも恥ずべき政策であっても」ということなのではないか。倫理と名誉とをつなぐ社会をどう構築するか、ポル・ポトをはじめとする殺戮と革命の歴史はその問いを投げかけているように思える。

参考書籍

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