「遠山金四郎の時代」藤田 覚 著

時代劇でお馴染みの「遠山の金さん」、遊び人で桜吹雪の刺青を彫っていて悪党どもをバッタバッタとなぎ倒して人情味のある判決を下す庶民派お奉行様というキャラクターが確立しているが、まぁ、言うまでもなくこれらは全て創作である。では実際の「遠山の金さん」こと町奉行遠山景元はどのような人物であったか、天保の改革を主導した老中水野忠邦との対立を軸として歴史の中の遠山景元を描き、遠山景元を通して江戸時代後期のダイナミックな変化を浮き彫りにして、彼の業績の中に「遠山の金さん」イメージに繋がる要因を探る一冊である。

目次
第一章 遠山の金さん像の虚実
第二章 繁栄の江戸か寂れた江戸か
第三章 寄席の撤廃をめぐって
第四章 芝居所替をめぐって
第五章 株仲間解散をめぐって
第六章 床見世の撤去をめぐって
第七章 人返しの法をめぐって
第八章 近世後期の町奉行たち
第九章 「遠山の金さん」の実像

景元は寛政五年(1793)、下級旗本の家に生まれ、実父の養子に入った実父の兄の子の養子になるという複雑な家督相続を経て文政七年(1824)に西丸御小納戸役として幕府役人のキャリアを始め、着実に出世を果たして天保六年(1835)小普請奉行、天保八年作事奉行、天保九年勘定奉行、天保十一年(1840)48歳で北町奉行に就任、天保十四年大目付となり、弘化二年(1845)南町奉行に復帰、嘉永五年(1852)まで務めた後、安政二年(1855)、63歳で亡くなった。

時代劇での若いころ放蕩無頼の遊び人だった設定に反して、31歳で役人となるまで景元がどのような生活を送っていたかの史料は残っていないため、若き日の遠山景元の姿は謎に包まれている。一方、「名奉行」との評価は当時からあった。天保十二年(1841)、将軍家慶隣席で寺社奉行、町奉行、勘定奉行が裁判を披露する公事上聴という儀式が行われ、その場で見事な裁きを見せた景元を将軍家慶が「奉行たるべき者、左もこれ在るべき事に候」と激賞、将軍の信任厚い町奉行として地位を確立したという。しかし、裁判記録や史料が残っていないため、公事上聴を始め日常業務で裁判官としてどのような裁きを下したかは明らかでない。

町奉行としての業務は裁判だけでなく、江戸の民政を掌握する行政官としての業務もある。こちらの面で、当時水野忠邦が主導した天保の改革と正面から対立した。天保十二年、忠邦は行き詰まりを見せる幕府財政再建のため、享保の改革・寛政の改革を範として綱紀粛正と奢侈禁止を柱とした幕政改革に乗り出す。天保の改革である。江戸市中に対しても奢侈な風俗の取り締まりや株仲間の廃止、様々な規制強化を断行するが、これに景元は抵抗した。

この水野忠邦v.s.遠山景元の政策観の対立は非常に面白い。

景元は、忠邦の奢侈禁止・質素倹約に対し、むやみに倹約するのではなく、身分不相応の奢侈はいけないが、奢侈を禁止することで経済を萎縮させて江戸が衰退するのは幕府の御仁政に齟齬するとした意見を述べた。景元のスタンスは一貫して江戸の繁栄による市民生活の維持であり、貨幣の流通、下層民の雇用の維持を重視している。忠邦による寄席撤廃や歌舞伎三座移転をめぐっても、庶民の娯楽の重要性を踏まえて完全廃止に異を唱えた。下層民の重視は同時に治安維持とも密接に関係する。経済の繁栄、雇用の維持による治安維持と生活の保障という、江戸を中心とした市場経済と福祉の重視である。

これに対して、破綻寸前の幕府財政、肥大化して機能不全をおこす官僚機構、奢侈からくる諸藩の慢性的な支出増大と、身分不相応な贅沢で我が世の春を謳歌する富裕層の台頭による秩序の動揺、江戸一極集中で人口が流出し解体する地方農村、など山積する課題ゆえに当然とも言えるが、忠邦は激しい。「たとえ御城下衰退を極め、今日の家職相立ち難く商人共離散仕り候共、聊か頓着せず」、すなわち幕藩体制再建のためなら江戸市中が衰退し商売が成り立たず商人・職人が離散してもかまわない、と言い放った。離散した町人たちを帰農させればいい、というのが同じく忠邦による人返しの法にも反映している。武士とそれを支える農民の繁栄こそが重要で、それ以外の町人を切り捨てるものだ。重農主義的政策に基づく、幕藩体制に必要な最小限の体制の再構築である。

遠山景元の、下層民の生活重視の政策観は彼特有のものではなく、当時の奉行、代官といった民政担当者に広く共通したものだったという。きっかけは天明の大飢饉のまっただ中、天明七年(1787)に江戸で起きた大規模な「打ちこわし」で、以降、江戸の行政官たち共通の認識として、下層町人の「存在を前提としてその生活を保障するという考え方」(P244)を重視するようになった。両者とも幕藩体制の維持で共通しているのだが、天保の改革は、その改革の手法をめぐって、幕藩体制の再構築というトップダウンか、民政の重視というボトムアップかという両者の対立の中で進展し、やがて前者の挫折によって終わる。結局幕府は滅びるが、江戸を中心とした市場経済の発展は後の近代化の土台になった。この対立の構図を通して、遠山景元を歴史の中に位置づけていて面白い。

特に寄席撤廃をめぐる景元の意見は確かに庶民派の影が見える。

『寄席は、為政者からみれば猥雑な空間――それゆえに、為政者は嫌悪すると同時に恐怖を感じるのであるが――であるかもしれないが、江戸の下層町人が日ごろの勤労の疲れを癒し、明日の労働の糧としている健全な娯楽の場である、と江戸の下層社会に占める寄席の位置と役割を説いている。毎日きちんと働き、そしてそれにより得られたわずかな余裕で疲れを癒やしたいという、律儀な下層町人のささやかで、しかも健全な娯楽の場を奪ってはならない、という主張である。』(P75)

また、株仲間廃止を巡る水野忠邦と遠山景元の同僚南町奉行矢部定謙との意見対立は現代にも通じる論争だ。詳しくは本書を読んでくださいだが、水野は株仲間の特権的流通独占が流通を阻害して物価騰貴の原因になったとして株仲間の解散を命じたが、これに対し矢部は物価騰貴の原因は第一に貨幣改鋳であり、第二に奢侈な風俗、第三に江戸への流通で大坂問屋を介することを挙げている。株仲間の独占ではなく貨幣改鋳による悪貨の流通こそが問題なのだと。また、「生産者→大名→大坂問屋→江戸問屋→消費者」というルートでだが、幕府は大坂問屋を通さない江戸直送品も一部認可した。この結果、大坂問屋は手数料引き上げを行わざるを得なくなり、これが価格上昇を招くことになったとする。すなわち江戸の株仲間の不正に原因を帰しているが、幕府の経済政策の失敗ではないかというものだ。このあたり、現在の歴史学でどう考えられているかまで含めて論じられているので面白い。

この株仲間廃止問題は、水野忠邦とその腹心で物語でも金さんのライバルとして知られる鳥居耀蔵と遠山景元・矢部定謙との対立と政争にも繋がる問題で、非常にエキサイティングな展開をたどる。

人返しの法をめぐる水野忠邦と遠山景元の意見対立には、幕府が的確に当時の人口動態を把握し、それを踏まえた政策の実施を行おうとしていた様子が見て取れて面白い。当時の調査で江戸における他国出生者の割合は約30%、江戸への人口流入は農村部においては農村人口の減少、すなわち農業労働力の減少であり、江戸においては下層町人の増加につながる。水野忠邦は彼らを江戸から農村に戻そうと帰農策を主張し、遠山景元はその政策を実効性に薄いとして反対、農村からの流出制限を目的とした人別改の厳密化を唱えた。結局帰農策ではなく人別改の方が採用されることになる。

江戸では人口の増大と雇用のミスマッチが起きていたという指摘が面白い。農村人口の減少と江戸下層町民の増大の一方で、武家奉公人の慢性的な不足という問題があって、景元は帰農策に反対する理由の一つとして、「労働力の不足により江戸の奉公人給金などが上昇して物価が上がることになる」(P189)ことを主張している。一方で、農民たちにしてみれば江戸に出ればなんとかなる、もっといい暮らしが出来るという幻想があったことも確かで、忠邦にしてみれば、”その幻想をぶっ壊す!”ことで、帰農を進め、農村部の復活に繋げたい。すなわち江戸が住みにくくなればいいのだ。しかし、景元にしてみれば、江戸が住みにくくなるというのは治安問題にリンクするし、幕府全盛期ならいざしらず、十八世紀末から幕藩体制は弱体化し、民衆の力の大きさは侮れないという現状認識がある。

幕藩体制の動揺が民衆の力を呼び覚まし、奉行・代官など中堅行政官たちによる民衆の力の認識が、いわゆる下層民の生活保障という仁政政策に舵を切らせるという流れがあり、その諸政策実施の中で庶民の中から名奉行・名代官イメージが形成されて、一方は大岡忠相、他方で遠山景元に集約されて、幕末から明治にかけて物語の世界で過去の様々な民衆的奉行・代官・政治家のエピソードを集約するかたちで「大岡裁き」「遠山の金さん」が形作られた、ということらしい。遠山景元にはそのイメージの受け皿となりうる実績が確かにあった、ということが本書から明らかになる。

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