成人式で暴れる若者と石を投げ合う飛礫という習俗について

「異形の王権」を読んでいて、飛礫打という習俗の話を始めて知ったのだけど、それがなんだか今成人式などでハメを外して暴れる新成人の心理と何か似たものを感じたので、以下メモ代わりというか。道徳的善悪の判断はまた別で考えたい。

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飛礫(つぶて)とはその名の通り石を投げることで、戦争、遊戯、神事、一揆など様々な場面で日本は勿論全世界的に発生していた習俗のようだ。
ちょっと改変して引用

つい最近にいたるまで礫打はさまざまな形で、日本の社会の中に生き残っていた。
(1)子供の遊びとしての石合戦、
(2)祭礼・婚礼などのハレの行事に当たっての石打、
(3)一揆・打ちこわし・騒動などにおける石礫
(4)弱者に対する礫
(5)手向けの礫、天狗礫などのような神意、超人的なものに関わる飛礫
(6)忍者など飛礫の名手の存在

で、(2)(3)は容易に結びついて、区別しにくい状態で発生する例が挙げられ、時の為政者に禁止されながらも「飛礫打を当然と考える意識は民衆の中に根強く存在し、決してたえることはなかった。」とのこと。
特に面白いのは熱田神宮の例で、正月十五日(小正月)の神事の際に石を投げあい、エスカレートして切り合いに発展し死者も出たが、その場のみのこととして、復讐や処罰の対象とならなかったのだそうだ。

そこでおこった「罪」は、その場のみで処理して他に及ぼさないというのは「無縁」の場――アジールの特質と私は考えるが、これはまさしく一種のアジール的状況といわなくてはなるまい。

飛礫について、中沢新一著「僕の叔父さん 網野善彦」の中で中沢厚と網野善彦の会話で人類の根源的な衝動に根ざしているのではないかということを書いていて面白かった。そうかもしれない。

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飛礫という習俗は今はほとんど神事やお祭り程度でしか残っていないのだと思うけど、飛礫がおそらく千年以上続いてきた、その背景となる意識や日本的な申し合わせみたいなのはまだ残っていて、何らかの行事でアジール的状況が生まれたときに、ハメを外して暴れてもかまわない、という心理が働くのではないかなぁと思った。
で、何故だかわからないけれど、成人式の場ではそのような聖域意識が生まれやすいのではないか。と思う。
同世代というか同年齢の若者が集まっているという『「空気」の研究』で言われるような「劇場の如き閉鎖性」の中で、成人式というハレの場で準拠集団が自然と形作られて「今おれたちの集まりは聖域だから、暴れてもいいよね」というような空気が出来て、野生を開放するのではないだろうか。

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そう考えると、成人式で暴れる人たちについて単なる”バカが騒いでいる”という理解もある側面で正しいのだろうけど、もう少し社会的な要因(原因ではない)が関わっているところがありそうな気がするなぁ。そこらへんはもっと考えたい。
また、このままKYという名の同調圧力が強まっていくと飛礫の時代と似たような状況に逆行していくのかもしれないとも思う。
このあたり、もう少し引き続き色々考えたいので、まずは「無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和」を図書館に予約した。

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とりあえず全然まとまっていないのだけど、成人式で暴れる人と飛礫の関連を考えることで、日本の社会について考え始める端緒としてのメモ的な記事という感じです。もっと掘り下げていきたい。

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