「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄本島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。

主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日本:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年)

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徳川政権の事情

秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピールすると、対馬宗氏と薩摩島津氏を通じて明・朝鮮との講和交渉に取り組んだ。何より1547年以来の対明公貿易の復活は悲願であった。ただし、秀吉時代から引き続き軍事力を背景とした威圧的・恫喝的な外交姿勢は崩さず、捕虜引き渡しなど融和的な態度に出るというものだ。

一方、明・朝鮮側も秀吉から徳川に政権が変わったとはいえ警戒心は緩ませていない。朝鮮とは対馬宗氏の尽力と秘密裏の国書偽造工作明国軍撤退後の朝鮮国内の和平機運などもあって1607年、通交が回復するが、問題は対明交渉である。相変わらず捕虜引き渡しの代わりに公貿易の復活を求め、受けなければ朝鮮や福建・浙江に対し出兵、開戦も辞さずとする恫喝に明が屈するはずもなく交渉は難航する。そこで、家康は琉球王国に仲介をしてもらおうと考えた。

琉球漂着民事件

1602年、陸奥伊達領に漂着した琉球船の漂着民39名を家康は非常に丁寧に送還させる。琉球から送還を謝する返礼を期待してのことで、その返礼の使者との交渉を通じて琉球を対明講和交渉の糸口としたい意図だったが、琉球は警戒して返礼を送らない。それも当然で、さかのぼって1589年、秀吉の恫喝に屈して使節を送り、一方的に服属国とみなされて朝鮮への出兵命令や軍役・兵糧の徴発など次々無理難題を押し付けられた経験がある。今回も安易に返礼を送るとどうなるかわかったものではない。また、明との関係改善のためにも日本への接近は忌避された。

1604年にも琉球船が平戸に漂着、この漂着物を巡って島津氏主導の琉球への引き渡しの慣例を超えて徳川政権が直接琉球への引き渡しを行おうとし、この過程で琉球漂着民が勝手に無断帰国、これらの行き違いが島津氏をひどく追い詰めることになる。結局幾度か繰り返された漂着民の引き渡しでも、琉球の警戒感を解くことは出来ず、琉球との聘礼問題は暗礁に乗り上げたかに見えた。

島津氏の事情

九州制覇を目前にして秀吉に屈した島津氏に残されたのは薩摩大隅の二国と日向の一部だけだった。しかも太閤検地によって当初の倍以上の石高が計上、すなわち負担の増加を招き、島津家も家臣団も領地の総入れ替えが行われ、当主義久は薩摩鹿児島から大隅富隈へ、義弘が大隅帖佐から薩摩鹿児島へと領地替えとなったが義弘は家中の反発を懸念してこれを辞退して帖佐に留まり、次期当主とされた息子の忠恒が薩摩鹿児島に入ることとなった。また、親秀吉派の家老伊集院忠棟も日向都城に八万石が与えられ、さらに豊臣政権直轄地も定められるなど島津家は分割統治状態になった。特に義久(富隈)、義弘(帖佐)、忠恒(鹿児島)の三勢力は島津家の政策を巡って事あるごとに対立するようになる。

島津氏の分裂

島津家の統治構造の弱体化と分裂は朝鮮出兵によってよりあきらかなものとなる。家中に蔓延する強い反秀吉感情は家臣団のサボタージュとなり、一方で常にさらされる改易の恐怖の前に、面従腹背の綱渡りの対応を余儀なくされた。朝鮮出兵に際しても当初予定の半分以下の兵しか集められず、島津氏は石田三成に対し深く陳謝している。親秀吉派の義弘・忠棟、独立派の義久、反秀吉派の忠恒という対立の構図があり、この構図の中で朝鮮出兵時に三勢力が軍功を競い合った結果としての島津軍の苛烈な活躍がある。

中でも対琉球外交を担った義久の苦労たるや、ひたすら高圧的な恫喝外交に徹する秀吉の意図をいかに琉球に伝えて最大限の効果をもたらせるか、成果を出せなければ秀吉によって改易される危機と常に隣り合わせだっただけに、かなり大変なものであった。その過程で、絶妙な飴と鞭とを使い分けながら、琉球使節の来日、琉球からの軍役提供などを引き出していった。

亀井茲矩の琉球侵攻計画

1592年、かねてから琉球守を自称していた大名亀井茲矩が約三五〇〇名の兵で肥前名護屋城に到着、秀吉の許可を得て大型船で琉球に侵攻する動きを見せていた。島津氏としては、この動きをなんとしても阻止したい。薩摩と琉球での軍役負担を条件として亀井氏の琉球侵攻中止の命を秀吉から引き出し、これを琉球にも通達、難航していた琉球使節派遣にこぎつけた。この時、単なる使節派遣を琉球が従属したと勘違いした秀吉は琉球を薩摩の「与力」とする命を下している。以降、琉球との書簡で島津氏は亀井氏琉球侵攻阻止の一件を事あるごとに持ちだして交渉を優位に進めようと試みるようになる。

親徳川へのシフト

豊臣秀吉死後の1599年、島津忠恒が伊集院忠棟を斬殺、その子忠真の叛乱(庄内の乱)を鎮圧し、1600年の関ヶ原の戦いで敗走してきた島津義弘は引退を余儀なくされるなど島津家中の親豊臣派が後退、義久・忠恒があらためて主導権を握ることになった。特に関が原後の戦後処理として、親徳川路線へのシフトは非常に重要で、その最有力課題としての対琉球外交ということになる。

1602年の伊達領琉球船漂流民送還においても、義久は翌1603年、琉球に対して直ちに聘礼使節を派遣して家康の恩恵に感謝の意を表すよう催促をし、それでも琉球が使節を送らないため、翌年、業を煮やして琉球は薩摩の附庸国であるとする新説を唱えている。これは1441年、足利義教から島津忠国が琉球を賜ったとする説だが、琉球王国にはなんら関係ない話であり、さらにいうとその忠国の子の代に島津氏は分裂、義久の父貴久の代になるまで義久の島津相州家と琉球との交渉は途絶えるので、独りよがりの理屈であるし、むしろ苦し紛れに附庸国だから聘礼使節を寄越せなどと言い出したものだから、琉球の警戒心をより強めることになった。

平戸漂着事件

しかし、1604年の平戸漂着事件は問題が深かった。このとき幕府は平戸の松浦氏に対し長崎奉行を通じて送還させようと命じるなど、島津氏を介さず、琉球との直接交渉に乗り出そうとした。結局松浦氏と島津氏との「旧約」があって島津氏の元に漂流物が届けられるが、琉球漂流民は独断で帰国する。当時、領海権である漂着民・漂流物の取り扱いは個別に各大名に属していたが、豊臣政権以降これを中央政府に集中させようとする動きが起き始めていた。そのような分散していた領海権行使の独占の動きと、難航する琉球外交打開の動きが幕府の介入を招いた事件で、対琉球権益を喪失しかねない事態に島津氏は非常に危機感を持つことになった。

島津氏の隠知行と財政危機

脅かされる琉球権益とともに、島津氏の懸案となっていたのが慢性的な財政危機と弱体化した統治能力である。朝鮮出兵での島津軍の活躍は恩賞となる知行の不足をもたらし、相次ぐ叛乱と粛清、分裂した三派閥の深刻な対立が島津家の求心力を著しく衰えさせていた。そこに追い打ちをかけるように、1605年、年貢の徴収が困難な、荒廃し、かつ統制下にない領地「隠知行」の存在が発覚する。その数、全領地の二〇%にのぼる十一万八〇〇〇石。さらに江戸城普請のための運搬船三〇〇隻建造が命じられ、財政的に非常に追いつめられる。可及的速やかにこれらの諸問題を解決しうる抜本的な解決策を見出さなければ、島津家の存続自体危うい。

このような中、島津家中で浮上したのが奄美大島出兵計画である。唱えたのは武断派の当主島津忠恒であった。琉球王国領土の奄美大島を編入し略奪することで当面の財政危機を乗り切ろうとするものだが島津家中でも反対が大きかった。義久も「此の鬱憤止み難く、忠恒若年に任せ短慮の企て有るといえども、愚老往古の約盟に親しみ、種々助言を加え、敢えてこれを推し留む」と、侵攻計画の浮上とそれ短慮として止めたことを琉球に宛てた書状に恫喝的な意図ながら書いている。しかし、この「短慮の企て」が現実的な計画となっていくのに、それほど時間はかからなかった。

琉球王国の事情

中継貿易の独占で栄えた琉球王国も、倭寇の跳梁、西欧諸国のアジア進出、明国海禁政策の緩和、東南アジア諸国の台頭による多極化などで1560年代に入ると衰退の一途をたどり、当初琉球優位だった日琉貿易は、島津氏の台頭と対琉球貿易の独占によって次第に琉球が従属的立場に立たされるようになる。それでも島津氏ははるかにマシだったと思い知らされることになるのが、豊臣秀吉の登場だった。1588年、武力征服を明言しての服属要求が周辺諸国に発せられ、琉球も衝撃をもって受け取った。

尚寧王の脆弱な権力基盤

同年、秀吉の恫喝が届くのに続いて尚永王が死去。尚永王には後継者がおらず、代々琉球王を輩出していた首里尚家にかわりもう一つの王統浦添尚家から尚寧が琉球王に迎えられることになった。浦添尚家は遡れば1507年、廃嫡された王子尚維衝から始まる一族で王統とは名ばかりの傍流、これまでもずっと王家は首里尚家が受け継いできていた。ゆえに、尚寧は王に迎えられたとはいえ非常に脆弱な権力基盤しかもたなかったのである。

琉球王は明国の冊封を受けて初めて王として正当性を確保することができる。ひときわ脆弱な権力基盤の尚寧王としては一刻も早い冊封を受ける必要があったが、豊臣秀吉の登場から国際戦争へと怒涛の勢いで移り変わる東アジア情勢の変化によって明も琉球もそれどころではなくなってしまう。

また、冊封使節を迎え即位式典を挙行するだけでも莫大な費用がかかるから、貿易の衰退による琉球財政の悪化も冊封を受ける上での懸案であった。特に、この頃、琉球は対日貿易への依存が強まっており、その圧力が秀吉の恫喝への服従を余儀なくさせたが、一方で、琉球の秀吉への服従姿勢は明国にとっては不信感を募らせる要因になり、冊封使節の派遣を先送りさせることになる。日本と明、あちらを立てればこちらが立たず、文禄・慶長の役の間、琉球は苦しい外交を強いられていた。

対日強硬論の浮上

だから、秀吉の死と日本軍の朝鮮からの撤退は、琉球王国にとっては脱日本依存の大きなチャンスだったのである。長く先延ばしになっている冊封を受けて尚寧王の権力基盤を整え、明への接近を図ることで日本依存から独立外交路線に立ち戻ろう、特に貿易体制の再生が急務だ、という訳で、琉球国内でも謝名親方を代表とする対日強硬派が主導権を握り始める。

冊封問題

秀吉死後の1599年、琉球はあらためて明に冊封使節の派遣を要請、これに対して琉球への不信感が強まっていた明朝廷では従来の文官派遣ではなく武官派遣による冊封と琉球の大臣連名による推挙状の提出を求めてくる。慣行と違う武官派遣に対して、琉球は異を唱え、懇願と交渉と経て1601年、従来通りの文官派遣による冊封が決定、実際に冊封使の派遣は1606年のことになる。

このような背景で未だ明と講和ならない日本にどのような形であれ接近することは自殺行為でしかない。冊封が中止になれば王権はいよいよ正当性を失い、ただでさえ家臣の統率力が弱まっているなかで統治能力を喪失しかねない。その、琉球王権の統治能力の低下を浮き彫りにしていたのが、1590年代から1600年代にかけての相次ぐ琉球籍の漂着・遭難船の増加だったのである。

琉球船の漂流・漂着増加の背景

琉球王国の外交・航海実務は渡来中国人の職能集団「閩人(久米)三十六姓」が担っていたが、琉球交易の衰退とともに彼ら「閩人三十六姓」も衰退、十六世紀後半、外交・航海関連の実務能力の大幅な低下がみられるようになった。指導層の衰退は熟練航海スタッフの減少を招き、明が琉球優遇政策をとりやめたこともあって、明から船舶の提供も受けられなくなり、長距離の外洋航海に耐えうる船がほとんど残っていないという状況にまでなっていた。従来、琉球の交易は政府主導だったが、民間人材の登用を行うことでこれをカバーしようとするも、抜本的な改革・再編成にはいたらない。

自ずと遭難・漂着事故が増加することになり、それを口実としての徳川政権・島津氏の対応が武力と強権を背景とした聘礼使節の要求ということになる。当然、琉球政府としてはどのような形であれ日本に譲歩・接近することは慎重にならざるをえないから丁重に無視をする、という堂々巡りが繰り返されることになる。

琉球の新朝貢貿易体制構想

このような状況の抜本的改革として冊封を受けた1606年以後、琉球が乗り出したのが貿易体制の再編成であった。明に対し「閩人三十六姓」の再下賜と、文引制の適用を申請する。文引制は1567年の海禁緩和とともに始められた漳州から出港する民間商船に対する海外貿易許可制度で、台湾、フィリピン、シャム、インドネシアへの渡航のみ認められていた。これに琉球を入れて欲しいというものだ。これが受け入れられれば、琉球を中継しての日明貿易も可能となるわけで、琉球の貿易体制再編による立て直しが可能になるとともに徳川政権の日明貿易の希望も満たされることになり、ひいては戦争の危機を回避することになる。しかし、明はこれに難色を示した。琉球への民間商船の渡航を認めても、未だ講和ならぬ日本との密貿易が増大するだけではないか。日本を利するだけで明にとっては将来の禍根となるのではないか。

かくして、日本、島津、琉球、それぞれの外交は袋小路に陥ることになった。

侵攻前夜

島津忠恒が家康から琉球出兵の許可を得たのは、諸説あるが、慶長十一(1606)年六月一七日、家康から諱を受けて家久と改名したときだったという。家康の目的はあくまで琉球から聘礼使節を送らせて日明講和の仲介をさせる、そのための軍事力の行使の容認だったのに対し、島津氏にとっては家康の命を成功させることでの島津家の存続とともに、琉球権益の確保と領土の併合による財政危機の回避という目的が複雑に絡むことになった。この頃から奄美大島出兵ではなく琉球出兵へと島津家内での方針が変わっていった。

琉球・日本・明の冊封外交

1606年六月、島津忠恒あらため家久が家康から琉球出兵の許可を得たのと時を同じくして、琉球には念願の冊封使が訪れていた。これを好機として島津氏も琉球国王尚寧と冊封使夏子陽にそれぞれ宛てた文書を作成、文禄・慶長の役戦後の日朝間の捕虜交換交渉で活躍した鳥原宗安を使節として派遣している。尚寧に対しては聘礼使節の来日を出兵を匂わせつつ求めるとともに琉球が日明貿易の中継地となることを提案、夏子陽に対しては明商船の毎年の来日の要請という主旨で鳥原・夏会談も設けられたが、交渉は不調に終わったという。

夏子陽は琉球の高官たちが日本の侵攻の可能性を軽く考えていたことを戒めて、日本側に侵攻の野心があると考え、琉球側に防備の強化を命じるとともに、同行していた鉄匠に兵器製造を命じ、さらに冊封船に搭載していた武器の供与も行うなどかなり具体的な協力を行おうとしていた。

琉球出兵を巡る徳川・島津の思惑

1607年六月一八日、日朝国交が回復し、朝鮮通信使が江戸城を来訪すると、いよいよ懸案は琉球聘礼使節問題と日明講和に移る。家康にとっては日明講和が最優先であったので、琉球出兵を急ぐ島津家久に対しあらためて聘礼使節の来日要求を前提とするよう念を押している(慶長十三(1608)年八月一九日書状)。さらに、同年一一月二三日には、本多正純が家久に対して日明講和が実現したという虚偽の文面で出兵中止を求めており、徳川政権としてはぎりぎりまで島津の出兵を止めようとしていたようだ。家康にとって琉球出兵はかなりの賭けに映っていたのだろう。

琉球侵攻へ

一方琉球では、1608年九月、島津側使節が朝鮮出兵時の軍役の不履行分の履行と奄美割譲を迫り、琉球側代表はこれを拒否、代わりに米の献上でお茶を濁しつつ、聘礼使節の派遣をさらに回避しようとしていた。すでに冊封問題も解消されていることから、使節の派遣も現実的な選択肢であったはずだったが、これまでに対日強硬派が琉球政府の枢要を占めるようになり、外交が硬直化しはじめていた。とはいえ、繰り返される恫喝外交への譲歩というのは確かに困難極まるものだし、これをもって琉球を責めるのは酷である。

1609年二月一日、島津義弘から琉球尚寧王に宛てて最後通牒の文書が送られる。聘礼使節問題の他、亀井茲矩の件や朝鮮出兵時の軍役の件など半ば言いがかりともいえる問題を琉球の非として列挙しつつ、日明貿易・講和の仲介をすぐに行うならば出兵を回避するとの文書で、そう言われてもすでに明との文引制適用申請に失敗している琉球にとっては打つ手が無い。

あらためて徳川家康から琉球出兵の許可を取り付けたうえで、島津軍は出兵準備を整え、1609年三月二日、総勢三千の島津軍が薩摩山川港から出港した。

琉球侵攻の展開

島津軍の構成

総大将:樺山久高
副将:平田増宗
後陣:肝付兼篤
以下、鹿児島方(家久派)、加治木方(義弘派)、国分方(義久派)の三大派閥に属する武将が中核となり、一所衆(一門・外様の独立領主)、トカラ七島衆の混成集団となっている。
また、鉄炮七三四挺、弾丸・火薬三万七二〇〇放(一挺につき三〇〇放)、弓一一七張、ほか食糧現地調達用に鍬や斧なども準備された。火力重視の構成であった。

特に、総大将樺山久高は家久派であったのに対し、副将平田増宗は義久派で、義久派は琉球出兵に否定的だった。また、兵の一部は樺山の命に従うことを良しとせず平田に従った。平田増宗は戦後すぐ島津義弘によって謀反の疑いで殺害、増宗の子は家久によって殺害されている。要するに、統一された軍団ではなく、派閥相互に確執があったということで、その派閥毎の争いが軍功競争として島津軍の行動をより苛烈にすることになった。そして、統率が取れず軍律がほぼ守られなかったというのが、琉球出兵時の島津軍の特徴である。

琉球王国の軍備

琉球王国は代々王府中央の直轄軍「ヒキ」と、各地方の間切軍から構成されており、島津軍の侵攻時、記録に残る限りで那覇に三〇〇〇、徳之島に一〇〇〇の守備軍が展開し、他にも各島に少数の守備隊が分散していた。中央集権的な体制で統制が取れていたが、文字通りの死闘を繰り返してきた島津軍と比べると実戦経験は比較にならないほど少ないし、記録に残る限り弓:500に対し鉄炮200と武装も弓矢が中心であった。

最新鋭の武装で個々の武勇は優れているが、統制が取れず互いにいがみ合っている軍が分散して侵攻してくる、というと創作の世界だと天才軍師が颯爽と現れてちょちょいのちょい、という展開の超強力フラグなのだが、残念ながら現実は非情である。

奄美大島上陸

三月七日、奄美大島に上陸した島津軍は樺山久高(総大将、家久派)隊、肝付兼篤(一所衆)・伊集院久元(義久派)隊、平田増宗(副将、義久派)隊の三部隊に分けて進撃したが、すでに守備隊の大半は撤退した後で、十二日までに奄美大島北部を制圧、大和浜では百姓三〇〇〇が防御柵を設けて守備陣を敷いていたがこれを撃破して三月十六日までに奄美大島を完全に占領した。

徳之島攻防戦

三月十七日、奄美大島を支配下においた島津軍は各隊分散して各々船に乗り込み徳之島に向かった。三月十八日、肝付隊は徳之島の金間崎と湾屋に上陸、金間崎では戦闘がなかったが湾屋には琉球軍一〇〇〇が展開して、激しい戦闘となった。湾屋の島津軍は約二~三〇〇だったが大量の鉄炮で圧倒し、ほどなくして琉球軍は敗走、これを容赦なく追撃して多くの首級を挙げた。

三月二〇日、徳之島秋徳で先行した島津軍船が琉球軍の攻撃を受けるもこれを撃退、しかし、これは前哨戦でこのあと秋徳では徳之島最大の激戦が繰り広げられる。秋徳に上陸した島津軍を待ち受けていたのが琉球の猛将掟兄弟こと左武良兼・思呉良兼兄弟で彼ら率いる刀や槍で武装した守備隊が左武良兼の号令一下島津軍に突撃を敢行、北郷久武率いる庄内衆や七島衆の多くに死者が出るなど、一時島津軍が押された。しかし、左武良兼が鉄炮で胸を撃ち抜かれ、続いて弟思呉良兼も海岸で討たれ、彼らの下で奮戦していた七〇歳の老将篠川勘津も島津兵三人を討ち取りつつ戦死。指揮官を失った琉球軍は総崩れとなり、島津軍の圧勝となった。このとき、島津軍による百姓の撫で斬りが行われており、この戦いで琉球側は二〇〇~三〇〇の死者を出した。

三月二十二日、徳之島の行政府亀津が陥落し、逃亡した王府役人捜索のため大規模な山狩りが行われ、徳之島防衛の総指揮官が捕らえられている。彼は三司官(琉球の宰相)謝名親方(鄭迵)の娘婿だったという。徳之島攻略後、三月二十七日までに沖永良部島までの奄美諸島はすべて島津軍の手に落ちている。

沖縄島の戦い

三月二十七日、沖縄島今帰仁沖に登場した島津軍に対し、琉球から講和使節として三司官の一人名護親方と那覇行政の長である江洲親雲上、禅僧菊隠宗意らが送られるが、樺山はこれを拒否、名護親方が人質として捕らえられた。当初の島津軍目的から考えれば、十分に目的が達成されたも同然だったから、講和交渉に入ってもいいタイミングだったが、首里、那覇を攻略して講和をより有利に進める意図であった。また、派閥競争を背景としてより多くの軍功が必要であったという事情もある。

今帰仁グスクの琉球軍が退却したとの報を受けて樺山・伊集院久元隊が向かい、島津軍はその道中の村々を放火、今帰仁グスクもこの時炎上し、さらに乱取り(略奪)が行われた。また、今帰仁グスクの守将今帰仁按司朝容は三月二十八日に死亡しており、戦死か自害したものと考えられている。

三月二十九日、那覇港の閉鎖を確認した樺山は軍を二手にわけ一方を海路で那覇港へ、本隊は沖縄中部大湾からの上陸作戦を敢行、陸路で首里城へ向かわせた。

四月一日、尚寧王は謝名親方と豊見城親方盛続を司令官に約三〇〇〇の兵で那覇防衛を命じ、那覇港北岸に展開させるとともに、首里城には浦添親方の軍が入った。那覇港には両岸に砲台が築かれて両砲台間に鉄鎖を張って防衛線が敷かれた。午後二時、海路をとった島津艦隊が那覇港に突入するが、両砲台からの集中砲火で全艦撃沈している。「急処に愴忙し、船は各自連携り角いて礁に衝る。沈斃し及び殺さるるもの、勝げて紀す可からず(あわてふためいて狭い場所(港の出口)に殺到し、各船はぶつかってサンゴ礁に衝突した。溺死したり殺されたりしたものは数えきれなかった)」と「歴代宝案」は伝える。

一方、陸路の島津軍本隊は次々と村々を焼き払い、百姓十二、三人を斬殺したという記録も残っているなど、周辺を次々破壊しながら進撃、尚寧王の出身地である浦添グスクを焼き払い、さらに「堂営寺等荒らすまじきこと」という島津軍の軍律に反して、浦添の寺院龍福寺を焼失させた。

四月一日、首里城まで迫った島津本隊はまずは慎重に偵察・情報収集を行うと決めたが、ここでも軍律が徹底されず、命令を無視して足軽衆が首里城に攻撃を開始、両軍想定外の展開になった。琉球軍は島津軍が海路で那覇を突いてくると想定して、主力を那覇に展開させていたから、陸路での別働隊の登場に驚き、急ぎ軍を首里城へ移動させる。その間、周囲を切り立った丘陵地帯に囲まれた天然の要害首里城の防衛線は平良川にかかる太平橋になる。太平橋を守備する琉球軍に島津軍は集中砲火を浴びせ、被弾した指揮官城間鎖子雲上盛増は突入してきた島津兵に首を切られた。この首切り行為に驚いた琉球兵が城内に撤退、島津軍が首里市街に雪崩れ込み、万事休すとなった。

四月二日、講和交渉が開始されるが、講和会議のさなかでも統制の取れない島津軍の濫行が続き、首里市街は各地で放火、略奪が相次ぎ、少なからぬ犠牲者とともに貴重な文書や宝物、建築物が多数失われることになった。一方、首里落城の報を受けた北谷グスクの守将佐敷筑登之興道が自害して殉じたほか、散発的に各地で島津への抵抗が行われている。陥落直前に首里城から脱出した浦添親方の子真大和、百千代、真々刈の浦添三兄弟は島津郡の追手と識名原で戦闘となり、島津軍の武将梅北照存坊兼次、小松彦九郎を討ち取ったあと全員戦死を遂げた。識名原の戦いは島津軍の指揮官クラスが戦死した唯一の戦いとなった。また、首里城西端の島添アザナを守っていたのは日本人山崎二休守三という将であったとも伝わる。山崎は戦後囚われて処刑寸前のところを尚寧王が自ら金品で買収し助けだしている。

四月四日、尚寧王は降伏し首里城を下城した。

戦後処理

樺山は尚寧王に対し、自ら聘礼使節として日本へ渡航、使節団を編成するように求めるとともに、琉球政府の抗戦派だった謝名親方と浦添親方らを薩摩に連行した。

尚寧王の江戸行き

島津軍によって強制的に尚寧王とその随行約百余名の使節団は鹿児島から駿府城・江戸城へ赴き臣従を表明することになった。八月、駿府城にて徳川家康と、九月、江戸城にて徳川秀忠とそれぞれ謁見し、進物を献上した。家康も秀忠も尚寧王を一国の君主として対等な立場として丁寧に対応したが、やはり、尚寧王にとっては苦痛であったようだ。また、道中王弟具志頭王子が死去、随行員も少なからず病に倒れている。結局、尚寧王は1611年八月まで鹿児島に軟禁されることになる。

琉球検地と奄美諸島併合

秀忠によって琉球の仕置を命じられた島津氏は1609年から1610年にかけて琉球の検地を実施、奄美諸島を除いて総石高八万九〇八六石の知行が計上されるとともに、琉球王国全体に石高制が適用された。1610年、奄美大島を管轄する大島代官(1613年大島奉行)が設置、1616年、徳之島・沖永良部島・与論島を統治する徳之島奉行が設置され、1623年の奄美諸島検地の完了と法令「置目之条々」の制定をもって奄美諸島は島津氏に併合された。

「掟十五ヵ条」の制定

1611年九月十九日、尚寧王の帰国と琉球検地の完了をもって島津氏から琉球に統治方針「掟十五ヵ条」が通達、島津氏からの注文商品以外の中国での交易の禁止(第一条)、島津氏の許可なき商人の受け入れ禁止(第六条)、島津氏以外の諸大名との交易禁止(第十三条)など海外交易・渡航の制限を始めとして、琉球政府の人事や、年貢徴収、治安維持など全般に渡る法令が定められた。また、琉球政府首脳陣には島津氏への忠誠を誓う起請文への署名が求められ、唯一これを断固拒否した謝名親方が同日鹿児島で斬首された。

謝名親方の密書

鹿児島で因われの身となっていた謝名親方は斬首前、密かに明朝廷への琉球救援を求める密書を作成、1609年九月、南九州の華人ネットワークを駆使して長崎の福建人に託した。しかし、この密書は発覚してすんでのところで回収され、明国に届くことはなかった。

これは歴史を変える密書となる可能性があった。もし、明がこの密書を受け取っていれば、朝鮮に続いてまた冊封国、琉球への日本の侵攻である。当然、威信を賭けて琉球への救援軍を編成していただろうし、琉球奪還から薩摩への上陸作戦などもあり得るシナリオだ。現に文禄・慶長の役の際にも同じ計画が立てられていたのだし、今回は当時と違って朝鮮半島との二正面作戦にする必要がない。

徳川政権にしてみれば、最優先目標は明との講和であり、琉球をその仲介役とするための軍事力の行使でしかない。ゆえに、出兵に非常に慎重な姿勢を崩さなかったのである。ここで明と戦端を開くのはまったく本意でないはずだ。ただ、慶長十五(1610)年二月、本多正純が島津家久に日明講和交渉の難航から明への派兵構想を語ったという話もある。国内情勢的にも征夷大将軍職の世襲による権力基盤を築きつつあったものの未だ豊臣氏との二重公儀体制下にある。日明戦争となれば、国内の徳川批判は避けられないどころか、豊臣氏の求心力を増すことになりかねない。日明戦争の回避、可能ならばそこから講和交渉に持ち込みたい。となれば、悪いのは全部島津というのが落とし所になる。島津家改易と島津首脳陣の処刑、琉球の再独立と不干渉あたりで手を打つことになるのではなかろうか。明としても勢力を増す一方の女真族の脅威を考えれば、もう一方の脅威である日本と長々と戦争するわけにもいかない。

とはいえ、歴史はそちらの方向には行かなかった。

戦後の琉球・日本の対明関係

1609年十月、翌年一月三十日付で鹿児島の尚寧王は明に対して書状で島津との戦争を報告している。ただし島津氏との戦争になり伊平屋島を割譲したこと、島津軍の目的は領土の一部割譲であって琉球の支配ではないこと、戦後処理で貢納が遅れたが琉球の明への忠節はかわらないことなど、虚実入り混じった内容であった。

1611年、家久は尚寧王に対し、日明貿易復活のための対明提案として
1) どこか中継地となる島を設定しての日明貿易の実施
2) 文引制適用による琉球を中継地としての日明貿易の実施
3) 日明相互に使節船を派遣することでの日明貿易の実施
のいずれかの選択肢「三事」を選ぶよう明に提案、あわせて明が拒否すれば中国沿岸に対し日本が軍事侵攻を行う旨伝えるよう命じた。基本的に恫喝外交方針の堅持で、この使節は翌1612年に渡明、これが明政府でも大問題となり、琉球が日本の強い支配下にあることを示唆するものだったから、琉球の朝貢は二年ごと(二年一貢)から十年ごと(十年一貢)に大幅な減少となった。

明との講和と交易を希望しながら、外交上はひたすら武威を背景に恫喝外交してくるわけで、ツンデレは実際にいたら迷惑なだけだが、当時の日本はまさにリアルツンデレである。わざわざ危ない橋を渡って琉球侵攻までしながら、事態は悪化する一方だったが、素直になれないからこそのツンデレ、というわけで結局明の滅亡まで日明講和はならなかった。

両属支配体制へ

島津氏の実効支配下におかれた琉球だったが、1616年には村山等安の台湾出兵計画を明に通報するなど厳しい中で面従腹背を貫き、一方の明も結果として琉球を救えなかった負い目と、琉球を突き放してしまうことで日本の影響下に置かれてしまう恐れから、徐々に態度を軟化させ、十年一貢といいつつ実質的な対明貿易は行われ、1623年からは五年一貢、1635年に二年一貢となっていく。

1630年代、島津氏の財政構造は未だ好転せず琉球交易の重要性は上がり続けた。また、幕府も鎖国に向かう中で鎖国時の四つの口として琉球が重視されるようになり、島津家中でもむしろ琉球には自主性とより自由な貿易体制を求める傾向が強まっていく。島津氏の実効支配体制が緩み、一方で1654年には琉球に島津氏の交易出先機関「御仮屋(のち「琉球館」)」が設置される。琉球の自由貿易を促進しつつ利益を島津の財政と直結させる富の収奪体制が整えられていった。

琉球王国は、琉明関係の改善、島津氏支配の緩和と幕府の管理貿易方針に従う貿易重視関係への移行を通して、中国(明→清)の冊封体制下にありつつ徳川幕藩体制に従属する二重朝貢の「両属体制」時代を迎えることになる。両属体制時代の琉球王国は、中国と日本という二つの体制の間で琉球のアイデンティティを模索し現代沖縄の伝統文化が次々生まれていく時代であり、一方でその歪みが琉球を破壊的に追い詰めていくことになる時代でもある。この時代についてもまた別の機会に。

参考書籍・論文
・上里 隆史 著「琉日戦争一六〇九―島津氏の琉球侵攻
・赤嶺 守 著「琉球王国 東アジアのコーナーストーン (講談社選書メチエ)
・安里 進,田名 真之,豊見山 和行,西里 喜行,高良 倉吉 編著「沖縄県の歴史 (県史)
・高良 倉吉,高橋 公明,大石 直正 著「周縁から見た中世日本 日本の歴史14 (講談社学術文庫)
・紙屋 敦之 論文「島津氏の琉球出兵と権力編成」(1980、沖縄県沖縄史料編集所)
・渡邊 美季 論文「琉球侵攻と日明關係」(2009、京都大学)

この事件の経緯については参考書籍としても挙げた本書をあらためておすすめしておきたい。

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