アルスラーン王とギスカール公爵

アルスラーン王とギスカール公爵、というと田中芳樹の小説「アルスラーン戦記」でお馴染みの名前だが、ここで紹介するのはその元ネタと思われる歴史上の人物の話。セルジューク朝第二代君主(スルターン)アルプ・アルスラーン(生没年1029~72年、在位1064~72年)と、群雄割拠の南イタリア・シチリアを一代で統一し後のシチリア王国建国へと至る基盤を確立した初代プッリャ・カラブリア公ロベール・ギスカール(ロベルト・イル・グイスカルド、生没年1015~85年、在位1059~85年)である。ともに十一世紀、十字軍へと至るヨーロッパとイスラーム世界の対立の歴史の中で非常に重要な役割を担った。

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アルプ・アルスラーン

アルプ・アルスラーンの肖像

セルジューク朝を建国したトゥグリル・ベグの死後、後継者を巡ってトゥグリルの兄チャグリーの子アルプ・アルスラーンとトゥグリルの長兄アルスラーン・イスラーイールの子クタルミシュの争いとなり、1064年、これを制したアルプ・アルスラーンが即位した。

アルプ・アルスラーンは名宰相として名を残すニザームルムルクを起用して内政を整えるとともに、先王の遺志を継いで積極的な領土拡大に乗り出した。1064年、アルメニアを征服、続いてアナトリアへの本格的な進出を開始する。ちなみに即位前の1062年、アルプ・アルスラーンは現在のイラン南部ファールス(パルス)をセルジューク朝の支配下においている。

時の東ローマ帝国皇帝ロマノス4世ディオゲネス(在位1068~71)は元々軍人でセルジューク朝の脅威から皇帝に即位した人物で、大きな敗戦もあったが幾度かセルジューク軍の侵攻を阻止したことでアルメニア再征服を企図するようになっていた。一方、アルプ・アルスラーンはファーティマ朝との対立もあって、東ローマ帝国とは和議を望むようになっていたが、和平交渉は決裂、両軍主力での会戦となった。

1071年、約十万とも言われる大軍でカッパドキアに陣を敷いたロマノス4世率いる東ローマ帝国軍は軍議を開き、やはりアルプ・アルスラーン自ら率いて東ローマ帝国へ進軍してきているという対セルジューク軍戦略を話し合った。国境沿いの防備を固め、農村地帯を焼き払って敵の補給網を断ったうえで奥深く侵攻してきたセルジューク軍を待ち受けて撃退するという案と、一気にペルシアへと侵攻してセルジューク軍を叩くべしとする積極策で、最終的に後者の積極策が採用された。セルジューク軍がどこにいるかわかっていないのに、である。

帝国軍がマラズギルト(マンツィケルト)まで侵攻してきたとき、察知されないようにすでに東ローマ帝国軍に軍を近づけていたアルプ・アルスラーンは帝国軍をおびき出すことにした。少数の騎兵隊を編成して帝国軍の周囲を旋回、これを発見した帝国軍の部隊が個々に追撃に入ると、逃走し、おびき寄せては殲滅を繰り返す。次々と各個撃破されて将軍クラスが次々と捕虜となり、帝国軍が全軍戦闘態勢に入ると、アルスラーンは弓兵隊を伏兵として配置、帝国軍先鋒の騎兵隊を包囲して殲滅にかかる。後軍がこれを救出しようと前進すると、セルジューク軍はあっという間に逃走、一方で伏兵を活用して帝国軍を背後から急襲したり、さんざんかき回した。一向に正面決戦しようとしないセルジューク軍に業を煮やしたロマノス4世は自ら雌雄を決すべく本軍を動かすが、これが思う壺、前進してきた帝国軍本隊に対し、セルジューク軍は散開してまず帝国軍右翼を壊滅させると、そのまま帝国軍本隊後衛とロマノス4世本軍を分断、一気に包囲殲滅にかかる。孤立状態となったロマノス4世主軍は降り注ぐ矢に次々と斃れ、ロマノス4世も捕虜となって戦いは終わった。二倍以上の東ローマ帝国軍を少数のセルジューク軍が華麗な各個撃破・包囲殲滅作戦で撃破した、歴史上名高い「マラズギルト(マンツィケルト)の戦い」である。

アルプ・アルスラーンは、捕虜となったロマノス4世を、共に食事をするなど丁重に遇しつつ、アンティオキア、エデッサなどアナトリア周辺地域の割譲と東ローマ帝国との講和条約を締結した上で皇帝を解放、君主の度量を見せつけた。

マラズギルトでの戦勝の翌年、1072年、アルプ・アルスラーンはホラズムを攻略し降将ホラズム総督ユースフ・ブールーザミーとの謁見の際に、彼が隠し持っていた短剣で殺害されるが、東ローマ帝国との劇的な戦勝と軍略、セルジューク朝発展の基盤を整備した点で歴史上非常に高い評価を与えられている。彼の後を継いだ息子マリク・シャーの時代にセルジューク朝は全盛期を迎えた。

一方、東ローマ帝国は敗戦後、帝位を巡る内紛が勃発、奇しくもロマノス4世もアルプ・アルスラーンと同じ1072年に死去するが、こちらは政争の中で目を潰され幽閉されての衰弱死で、対立と混乱の中で帝国の衰退が加速していくことになる。

ロベール・ギスカール

ロベール・ギスカールと家族

ロベール・ギスカールこと、ロベール・ド・オートヴィルはノルマン人傭兵タンクレード・ド・オートヴィルの六男として生まれた。ギスカールとは「機敏な・怜悧な」を意味する異名である。父タンクレードは非常に子沢山な人物で、男子だけで十二人おり、その多くが後にイタリアを代表する諸侯に成長している。オートヴィル一族は1030~40年代にノルマンディーから南イタリアにやってくると、まず長兄ギヨームが1042年、プッリャ伯となったのを皮切りに、群雄割拠の混乱状態の中で徐々に台頭していった。歴史上「ノルマン人による南イタリア征服(十世紀末~十二世紀前半)」と呼ばれる潮流の総仕上げを行った一族である。

ロベールは、南イタリアに来た当初は仲間30人ほどと山賊をやっていたが、1053年、兄ウンフリート率いるノルマン軍と神聖ローマ皇帝=教皇軍との戦いとなったチヴィターテの戦いでウンフリートの下で参戦、皇帝=教皇連合軍を撃破し教皇レオ9世を幽閉して、オートヴィル家の勢威が大いに増した。1057年、兄の夭折の後、空席となったプッリャ伯(プッリャはイタリア半島の靴のかかとの部分)を継ぐと、神聖ローマ皇帝・ローマ教皇両者に臣従、オートヴィル家の総領として、南イタリアにその地盤を築き始める。1059年、カラブリア(イタリア半島の靴のつま先部分)を征服し、プッリャ、カラブリアと未だ未征服のシチリアの支配権を教皇に認めさせ、初代プッリャ・カラブリア公となる。

ロベールは忠実な弟ルッジェーロ(後のプッリャ・カラブリア公ルッジェーロ1世、オートヴィル朝シチリア王国初代国王ルッジェーロ2世の父)にシチリア征服を命じ、1063年のチェラミの戦いでは、騎士わずか136名で奇襲により3000以上のベルベル人、アラブ人、シチリア人連合軍を撃破、1072年、ロベール・ギスカール自らも軍を率いてシチリアの首都パレルモを陥落させ僅かに残る二つの要塞(1077年に陥落)を除きシチリア征服を完了させた。1076年までに南イタリア一帯をほぼその傘下に収めるほどに勢力を拡大している。

南イタリアを制したギスカールの次の狙いが混乱の東ローマ帝国であった。

ある日、ギスカールの元に一人の修道士が訪れる。その修道士は自分が1078年に政争の果てに退位させられた東ローマ帝国皇帝ミカエル7世ドゥーカスだという。ロマノス4世ディオゲネスの死後、皇后エウドキア・マクレンボリティサは先夫で前王コンスタンティノス10世ドゥーカスとの間の子をミカエル7世ドゥーカスとして即位させ、共同皇帝としていた。しかし、相次ぐ内紛と経済の混乱による民衆蜂起、軍人の反乱、セルジューク朝の圧迫、そしてギスカールによる南イタリアの帝国領の喪失の中、1078年、小アジアで反乱を起こした将軍ニケフォロス・ボタネイアテスがコンスタンティノープルに進軍、ミカエル7世ドゥーカスは廃され、ニケフォロス3世ボタネイアテスとして即位していた。本物は退位後修道院にいたが、ギスカールはこれを好都合と考えた。元々ミカエル7世ドゥーカスの皇太子コンスタンティヌスと自身の娘との婚姻の約束をしていたこともあり、1081年、ギスカールは自称ミカエル7世ドゥーカスの偽皇帝を擁し、東ローマ帝国への侵攻を開始する。

同年、東ローマ帝国皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスはミカエル7世ドゥーカスの娘婿であった将軍アレクシオス・コムネノスの反乱で帝位を追われて修道院に隠棲を余儀なくされ、東ローマ帝国皇帝はアレクシオス1世コムネノスとなっている。

1081年、ギスカール軍はアルバニアのデュラッキウムを包囲、これに対しアレクシオス1世はヴェネツィア艦隊の救援を受け、自らも軍を率いてデュラッキウムのギスカール軍に対峙する。海上をヴェネツイア艦隊、デュラッキウムは未だ落ちず、さらに背後から帝国軍が迫るという状況で、ギスカール軍は絶体絶命に見えた。東ローマ帝国軍も持久戦か総攻撃かで、一気に決戦に持ち込むべきとする意見が大勢を占めた。激しく既視感を覚える展開である。帝国軍の動きを察知したギスカールは夜半のうちに陣営を焼き払うと、軍をとりまとめ、全軍に「武力によって血路を切り開き身の安泰を確保するしかない」、「敵前逃亡する奴は羊のように殺してやる」と叫び檄を飛ばした。

翌朝、背水の陣のギスカール軍に、大軍で勝利を確信した余裕の東ローマ帝国軍が襲いかかる。しかし、死兵と化したギスカール軍はびくともしない。帝国軍最精鋭ヴァリャーグ親衛隊の突撃を跳ね返すと、伏兵でこれを撃破、まさかのヴァリャーグ親衛隊の敗走に驚いた帝国軍は総崩れとなり、ギスカール軍の反撃で次々と打ち倒されていった。ギスカール軍の死者わずか30名に対し、帝国軍の死者は5000名以上、アレクシオス1世も負傷したという。世に言う「デュラッキウムの戦い」である。

ギスカールはデュラッキウムを陥落させ、アドリア海の要衝コルフ島を手中に収めて東ローマ帝国への橋頭堡を築いてコンスタンティノープルへの侵攻を企図したが、1082年、ローマ教皇グレゴリウス7世の救援要請が彼の元に届き、退却を余儀なくされた。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、カノッサの屈辱(1077年)から復権して、1081年、ローマに侵攻してきたからである。渋々ながら教皇の救援に向かわざるを得なくなり、東ローマ帝国は九死に一生を得た。1085年、ようやく皇帝と教皇の叙任権闘争がヴォルムス協約によって終結、東ローマ帝国への再侵攻の機会が到来したというところで、ギスカールは病に倒れ、帰らぬ人となった。彼の後を継いだ弟のルッジェーロ1世、そしてその子ルッジェーロ2世によってオートヴィル朝シチリア王国が建国、シチリア王国はオートヴィル朝が絶えた後も存続し、両シチリア王国を経て、やがて近代イタリア統一の一翼を担うことになる。

また、1808年、ドイツの劇作家ハインリヒ・フォン・クライストがギスカールを主人公にした戯曲「ノルマンの公爵ロベール・ギスカール」を発表、フランス革命の民衆の盛り上がりを背景にして、民衆と対立する王侯貴族の代表としての独善的なギスカールの悲劇を描き、悪辣な君主イメージがつくことになった。

そして十字軍へ

デュラッキウムの戦いの後、東ローマ帝国は同盟軍であったヴェネツイアにも関税特権を付与せざるを得なくなり、貿易はヴェネツィアに支配され、西からはテュルク系騎馬遊牧民諸勢力、東からはセルジューク朝が迫り、国内外の情勢は悪化する一方で帝国は衰退の一途を辿った。弱体化する東ローマ帝国はついに長年の対立状態にあった西方教会と和解、1095年、セルジューク朝の脅威に対して、ついにローマ教皇へ救援要請を送る。

この救援要請を受けた時のローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議を開き、高らかに十字軍の遠征を唱えるのだ。

アルスラーンとギスカールという二人の才知あふれる野心家が成し遂げた軍事的成功は東ローマ帝国の土台を揺るがし、やがて十字軍というヨーロッパとイスラーム世界の対立へと至る、結構劇的な十字軍前史だとかねてから思っていたので、簡単に紹介してみた。

もちろん、十字軍へと至る大きな流れを彼ら二人に帰するのはロマンティシズムに過ぎるので、東ローマ帝国が置かれた社会・権力構造の弱体化、ローマ教会の伸長、イスラーム世界の発展と拡大、ヨーロッパにおけるレコンキスタ達成からの十字軍的機運の盛り上がりなど多面的に見ていく必要がある。特に十字軍の聖戦観から近世・近代の正戦論、そして現代国際法へと至る法思想的な流れは十字軍を考える上で欠かせない。まぁ、これらについては、二人の事績を紹介することを目的としたこの記事では蛇足である。

というわけで、アルスラーン戦記の同名のキャラクター造形も、歴史上の二人の特徴を結構押さえているような、ある種の擬人化・二次創作的な印象があるなぁとまとめてみて改めて思った次第。

参考書籍・論文・サイト
・エリザベス・ハラム 著「十字軍大全―年代記で読むキリスト教とイスラームの対立
・井谷 鋼造論文「Aya Sofya 3605 ペルシア語写本Nizam al-Tawarikh 中のセルジュク朝関連の記事について(下)」(1997)
・南 勉論文「クライスト研究 : 『ローベルト・ギスカール』について」(2001)
・「アルプ・アルスラーン – Wikipedia
・「ロベルト・イル・グイスカルド – Wikipedia
・「ノルマン人による南イタリア征服 – Wikipedia

画像はそれぞれ
File:Sultan Alp Arslan.jpg – Wikimedia Commons
File:Roberto il Guiscardo Costantino.jpg – Wikimedia Commons
から。

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