賤民制と身分的周縁を構成する社会集団

【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ
「士農工商」とは何だったのか
江戸の身分制度研究略史
近世身分制社会の成立
近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓
近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層
賤民制と身分的周縁を構成する社会集団
柔らかい身分理解という日本社会史の新視点

支配者層としての武士、庶民層としての町人・百姓、その両者の間で支配体制の実務を担った身分的中間層・近世社会に事実上大きな影響力を行使しした社会的権力とみてきたが、彼らから排除され、あるいは賤視された多くの人々も、近世身分制社会に存在していた。それが賤民身分を含む、身分的周縁である。

塚田孝は身分的周縁を構成する社会集団を以下の三つに分類している。
(1) 賤民制にかかわるえた身分・非人身分や、猿飼・ささら(説教)・茶筅・おんぼう・鉢開きなど
(2) 公家家職とつながる宗教者・芸能者や職人、具体的には修験・神職・陰陽師・相撲取・座頭・鋳物師など、あるいは家康権威をかつぐ虚無僧
(3) 都市下層民衆、具体的には鳶・髪結・人宿・日用座・武家奉公人・町用人・家守・目明し・遊女(屋)・願人など(塚田孝2000 P84)

一方、吉田伸之は以下の四つに分類する。
(1) 「商人」生産を重視する近世社会の異端的存在として扱われた。
(2) 「日用(日雇い労働者)」農業日用や武家奉公人、鳶・車力・飛脚などの運輸・交通にかかわる肉体労働者や人足などの都市インフラにかかわる単純労働者
(3) 「乞食=勧進層」他者の施しによってしか生活できない人々。身体障碍者や非人身分、下層宗教者を含む
(4) 「芸能者」乞食=勧進層から派生して歌舞音曲を提供する者たち。また特定の商品を売るために芸能を特徴とするようになった香具師や飴屋など小売商人の一部。(吉田伸之2009 P144-149)

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賤民制のアウトライン~えた、かわた、非人

江戸時代の近世身分制社会において賤民として差別される、えた・非人身分は近世政治権力による上からの編成(近世政治起源説)ではなく中世社会の地縁的血縁的共同体の関係性の中で誕生してきた(中世社会起源説)。その登場の過程について現在主流になっているのが黒田俊雄らによる中世非人論である。

「中世非人身分の基本的性格は、体制的な諸社会集団から、種々の理由で疎外(脱落・排除・離脱など)された存在であること」(塚田孝「賤民身分論」1994 P131-132、黒田俊雄1983からの孫引き)。

犯罪などの刑罰や病気、飢饉や領主層からの収奪による生活破綻など多様な要因で既存共同体からの疎外を余儀なくされた人々が乞食=勧進化して相互に助け合う集団を形成、これが非人宿と呼ばれるようになった。同時に、平安末期から登場する触穢思想の一般社会への浸透の過程で、穢れとみなされた様々な職業を彼ら中世非人や乞食=勧進が担うようになり、中世非人から派生してえた、非人、きよめ、かわたなどそれぞれの集団が負う役に応じて職業的分化を遂げ、地縁的・血縁的共同体化して体制的諸社会集団から排除・差別されるようになった、とするものである。細部でいろいろと諸説あるが、大きな流れとしては主流の説として受け入れられている。

前述のとおり、宗旨改めに基づく近世戸籍制度の確立の過程で、えた(かわた)・非人は百姓・町人と別帳化された。その背景はキリシタン弾圧である。宗旨改めにおいてキリシタンも六代の孫まで類族とする類族帳が作られ、平人身分と区別された。「キリシタンの思想が血筋で伝えられるという見方」(横田冬彦 1992 P76)を前提としており、同様の措置が社会的に賤視されていたえた(かわた)・非人層にも拡大され身分制度の底辺とされることで賤民制度は登場してくる。「賤民はまさに『盗賊同類』、すなわち反社会的犯罪の潜在的温床として位置づけられ、各村で賤民とその種が隔離・監視されるべきだとされ」(横田冬彦 1992 P77)た。明暦二年(1656年)のことである。

近世身分制社会の要は「種姓」イデオロギーの存在である。天皇・公家のように生まれついての貴種がある、というのは共通の認識であった。では、武家政権成立に際していかにして統治の正当性をもたせるか、支配者としての武士の種姓を作り上げるためには、生まれついての賤民という存在が必要であった。この「種姓」イデオロギーが身分制社会の背骨であり、やがて、その「種姓」イデオロギーの衰退が身分制社会の変質と同時に進行する。

賤民は屠殺・皮革業や刑吏としての役を負うかわりに乞食=勧進権を認められて独自の村を構成するが、差別と排除という点では共通していたものの、そのありようは地域や時代によって多種多様であった。孤立させられて苛烈な差別の中で苦しい生活を余儀なくされた地域もあれば、関東のようにえた頭弾左衛門に率いられて非人を従え、関八州に強い影響力を行使した例もある。また、必ずしもえた身分が上で非人身分が下というわけでもなく、非人身分がえた身分を従える地域もあった。

集団化の波

このような違いがなぜ生まれるのか、それが「仲間と組合」の項でみた社会的結合と組織化の進展度の差である。十七世紀半ば以降、三身分が確立して近世身分制社会が登場すると、それに続けて諸身分内でそれぞれの役に基づく身分、職分、共同体ごとに集団化の動きが起こる。塚田孝はこれを「集団化の波」と呼び、十七世紀後半から十八世紀初めと十八世紀半ば過ぎの二度の波があったとする。この諸身分の集団化とネットワーク化が幕藩体制を支える秩序構造を作りあげる一方で、この時期に弱い編成しか作れなかった身分集団は自ずと相対的に低い力しか発揮できなくなり、身分集団に収斂しきれないネットワークとしての周縁的な人々がアウトロー集団化することになった。

そのような背景で、関東の場合、えた頭弾左衛門による勧進=乞食権の独占を背景として早くも慶安五年(1652)までに、えた身分だけでなく非人集団にも支配権を拡大して強い影響力を誇った。諸身分に先駆けての賤民身分内での集団化の動きで勧進権という権益の確保を行った格好だが、十八世紀初頭の集団化の波の中であらためてその勧進権の範囲が大幅に制限され、相対的に地位が低下していくことになる。関東の非人身分集団がえた身分集団に従属を余儀なくされたのは「“えた身分による勧進権分割の体制に組み込まれる形でしか非人の組織化が不可能だった”関東の特質」(塚田孝1994「賤民身分論」P91)であった。

賤民身分は前述のとおり生まれに基づいて職業選択や他身分間の婚姻、居住地の制限等が設けられることで被差別身分に置かれた集団であるが、それゆえに、かろうじて認められた勧進権をいかに駆使して実利を得るかが非常に大きな課題となる。そのために彼らは文字通り命がけで戦っていた。

一方、その身分ゆえに課される役からいかにして実利を得るかという模索もまたあった。畿内近国のえた身分は「かわた」と呼ばれ、通常の百姓村に従属する独自の「かわた村」を構成していた。彼らは通常の百姓身分からは婚姻関係も居住地も隔絶しており差別的な扱いを受けているが、唯々諾々とその立場に甘んじていたわけではない。身分は変えられないが、その差別的環境の中で、生活を変えることはできる。

かわた村の代表的な存在として和泉国泉郡南王子村がある。彼らに課されていたのは雪駄製造であった。雪駄製造は斃牛馬処理に付随して課される役だが、同時に独占製造・販売権ともいえる。江戸時代を通して差別と排除の中長く苦しい時代を送ったが、十九世紀になると、南王子村では団結して原材料の竹皮値下げ交渉を行ったり、販路の拡大を行ったりと様々な営業努力を行い、経済力を蓄えて急成長をする。幕末には御用金調達で地域の高額納付者十三人のうち十人が南王子村の者であったといい、また南王子村の属する泉州一橋領の村方騒動にも介入するなど、賤民身分として変わらず被差別的環境におかれたが、経済的には平人百姓たちをはるかに凌駕するほどに成長した。百姓から南王子村に移って自ら賤民身分となった者もいたという。

集団化の進展度による格差は、他の被差別的な扱いを受けていた身分的周縁の人々も同様である。

多様な身分的周縁

あらためて、支配者層としての武士・公家・寺社、平人層としての百姓・町人、賤民としてのえた(かわた)・非人という政治的に編成された三つの身分に入りきれない多くの周縁的な人々がいた。しかし、身分制社会秩序の埒外にあった彼ら身分的周縁と政治的編成を受けた中核の三身分との間に明確に線引きができるわけではない。「一個の身分・職分の内に『政治社会』レベルの側面と『周縁社会』レベルの側面」(渡辺恒一2000 P5)がある。その違いはその職分の所有と経営の質および社会的分業の位置であり、上からの編成と集団化の深度の差異であり、地域社会の社会関係における相対的なパワーバランスの中にあらわれてくる。

前述のとおり政治的編成に基づいて武士・平人身分から隔絶した地位におかれた賤民身分はその生まれと血統(種姓)に基づいて役の負担と所有・関係性の制限がなされて社会的に賤視されたが、そのおかれた非差別的身分の中で強い集団化を成し遂げる者たちも一部にあったことはすでに述べた通りである。では、社会関係の中で身分的周縁とされた人々はどうだったか。

身分的周縁の宗教者たち

身分的周縁を構成する宗教者の多くに共通するのは祈祷と物乞いを主な職分として行っていることである。

修験者

修験者は天台・真言密教を持つ古代からの神仏習合的山岳信仰者だが、両宗派は「修験者は僧侶ではない」(高埜利彦2000 P22)として排除。修験道本山派と修験道当山派に編成されるが、編成されない修験者も多く存在して独自の修行と祈祷活動を行っていた。

神祇奉仕者

神職が身分的周縁だったというと意外に思う人も多いだろうが、江戸時代、「神職」は賤視される職業の一つだった。近世以前からの神社は公家(堂上公家)が神社伝奏として存在する伊勢・石清水・賀茂など古代以来の二十二社をはじめとした主要神社と、神祇信仰が民間に浸透するなかで郷や村の鎮守として勧請された多数の氏神社がある。公家の世襲によって統制され、時の権力者とも近く、高い権威を保ち、社領地を与えられて寺社領主層の一角を占めた前者に対し、後者の氏神社は在地土豪層が経営を行い、神事を担う神主は神道家のほか氏子の百姓たち、僧侶、修験者、陰陽師といった民間の人々が分担し、必ずしも一つの氏子社に一人が専属するわけではなく複数の神社を兼ねるのが常であった。

井上智勝は江戸時代の「神職」と現代の神職との意味の混同を避けるため、一般的な神職を「神祇奉仕者」と呼んで、以下の三つに分類した。
(1) 「神主」:専属の奉仕神社を持ち、主体となって祭神への奉仕や神社の運営に関与する人々。
(2) 「社人」:専属の奉仕神社は持つが、①に従属的な位置にあり、補助的な仕事に携わる人々。
(3) 「神職」:専属の神社を持たず、しかし神祇に奉仕することで活計を立てている人々。(「民間に生きる宗教者」収録井上智勝論文2000 P28)

身分制の成立にともない神事担当者の百姓身分での兼任が禁じられて専門化が進められ、寛文五年(1655)の「諸社禰宜神主法度」を契機として十八世紀半ばまでに公家の吉田家・白川家によって大規模な編成がされ専門家としての神主・社人層が登場するが、多額の費用を払えないとか専門家になれないなど様々な理由で編成されない、あるいは編成を望まない人々が百姓身分からもはずれた身分的周縁として、身分制社会の埒外に置かれて非差別的な視線を受けた。江戸時代の「神職」という言葉は金銭をねだる神道乞食という侮蔑的な意味合いが強い。彼らは民間社会の宗教ニーズにこたえて祈祷や物乞いを通じて生活をしていた。

「明治五年(1872)、神道国教化を推進する新政府によって『神職』廃止が通達」(井上智勝P48)、身分的周縁としての神職とそれまでの多様な神祇信仰は切り捨てられ、以後明治国家によって神社の大規模な統廃合を経て再編成されて神道は国家神道へと生まれ変わっていく。周縁から中心へ、近世身分制社会下で始まった周縁的な神職の組織化は近代天皇制国家のイデオロギーに結実するのである。

陰陽師

陰陽師は古代律令制国家を支える官僚として政権の中枢にあり、鎌倉・室町の武家政権成立後も陰陽道の専門家として重用されたが、応仁の乱を契機とした室町政権の失墜とその後の戦乱、賀茂家の断絶と秀次事件に連座しての土御門家の財産没収・追放など時代の変化のなかで宮廷陰陽師は没落する。

一方で、室町時代までに庶民社会にも陰陽道は広く浸透し、竈神信仰や庚申信仰、七福神信仰などの民間信仰や陰陽祭、吉日・禁忌日などの大衆文化を形作る。民間にも陰陽師や陰陽師から派生した唱聞師や宿曜師が誕生して、庶民の生活に身近な存在として広まった。近世の陰陽師はかつての宮廷陰陽師のような公家や権力者相手の卜占ではなく、民間社会で町人・百姓相手に占い・祈祷を行って生計を立てるものがほとんどで、神職同様に物乞いや詐欺まがいのインチキな陰陽師も多く、陰陽師はおのずと賤視されるようになる。

このような陰陽師の身分編成は天和三年(1683)、土御門家に命じられるが同家の権力基盤の弱さとともに、このころ陰陽師の編成権を巡って幸徳井氏、唱聞師系の大黒氏と熾烈な主導権争いが展開されており、この内紛は長く尾を引いてまともに陰陽師の編成に乗り出せないまま、十八世紀初頭の第一の集団化の波にも出遅れ、土御門家による本格的な陰陽師の編成は寛政三年(1791)以降のことになる。結局陰陽師は身分制社会で重要な組織力とネットワークを構築出来ないまま幕末を迎え明治維新によって陰陽師職と土御門家の家職が廃止、かつてのエリート職業は身分的周縁に甘んじ続けて消滅する。

しかし、民間社会に広く根付いた陰陽師たちは占い師や方位鑑定士など陰陽師に類似的な職業を新たに見出し、やがてその支持者とともに明治時代の新宗教ブームの担い手となっていくのである。国家神道の成立に至る神仏分離へのオルタナティブとして次々と誕生する新宗教はやがて弾圧と国家的容認の中で、挙国一致体制を信仰レベルで下支えし、戦後、国家神道のくびきから放たれてオカルトブームや新新宗教ブームなど大衆信仰の中に脈々と息づいていく。中心から周縁へ、没落した陰陽師たちは厳しい差別の中で生き延びながら、日本の大衆文化・宗教観を確かに形作るのであった。

虚無僧

時代劇でおなじみ深編笠と尺八の虚無僧もまた身分的周縁を構成する宗教者の一つである。これについては保坂裕興(2000)の説明を引用しておく。

「虚無僧は、中世末期に尺八を吹く乞食芸人であった『薦僧』を前身とし、中世から近世への移行期に、『明暗』思想のもとに芸人・浪人らを集めて開宗し、新天地たる関東農村に寺院を開いていった。この普化宗は、近世の前半期まで百姓・町人をはじめ誰もが参加し、修行できる宗教であったが、十八世紀半ばを転機として、武家浪人を匿い救済するものに変化し、日本往来自由や不入守護(治外法権)などの特権を偽造しながら、増長の道を歩んだ。」(保坂裕興2000 P198)

背景は幕藩体制の社会問題である牢人(浪人)問題である。牢人問題については以前簡単にまとめたのでここでは割愛するが、その幕府の牢人救済方針を踏まえて、普化宗はだれでも虚無僧になれるという教義から、牢人救済を大義名分に虚無僧として組織化することに方針転換、徳川家康の関東移封時に牢人の虚無僧組織化や治外法権を認められたとする偽文書を創作して編成を推し進めた。

虚無僧の修行の場として各村々と契約を結んで修行場「留場」の提供を受けていくが、その際に所属不明の不法虚無僧が村々で暴れ金銭を要求するなどの行為が発生、その取り締まりを行う名目で留場契約が結ばれることが多い。暴力と抑止力を背景とした契約によって急速に勢力を拡大する虚無僧だが、村側も次第に協力して対抗のために普化宗の末寺ではなく虚無僧を統括する二つの本山と直接留場契約を結ぶようになり、普化宗は末端組織の弱体化を招き影響力を失って社会から排除されていく。強力な集団化を推し進めたが、その行き過ぎゆえに百姓たちの共同組織化による対抗を招き自壊した。その過程は近世身分制社会のダイナミズムを象徴している。

神子(巫女)

神子とは、「神社で神楽を舞うなどの神事奉仕をしたり、人々の求めに応じて祈祷や祓をしたり、死者や遠方の人の霊を呼び出す口寄せをしたりする宗教者である」(西田かほる 2000 P52)。女性が多いが男性の神子もおり、神道、修験、陰陽道など様々な系統がある。中世まで、神子は多くの神社に存在していたが戦国時代を境に江戸時代に入ると減少の一途をたどる。中世まで専属の神子や神楽集団が神事における神楽を担当していたが、近世以降の神主の専業化によって専門の神主が直接神事を行うようになる。これまでの様々な宗教者同様、中世まで神事にかかわっていた多様な宗教者が周縁化されていったのが近世であった。

しかし、他の宗教者が公家や寺社を本所として編成されて身分制社会の中に位置づけられたのに対して、神子は神子独自の本所が認められなかった。それは神子の多くが女性だったからである。近世身分制社会はイエという父系の血縁的共同体を基準に編成されるので女性は男性より低い身分におかれた。男女の間の身分差もまた、近世身分制社会を支える制度として存在している。そんな女性ゆえの差別関係の中で、神子たちは多くの場合、夫や父など血縁関係のある男性が所属する宗教各派、修験者の妻であれば修験各派、神主・社人の妻であれば吉田家・白川家、陰陽師の妻であれば土御門家などの編成を受ける。また、各本所とも神子を妻とすることを忌避する傾向が強く、このような女性ゆえの近世身分制社会における弱さが、神子が身分的周縁へとおかれ、集団化を成し遂げられず減少していく要因となった。

近世の障害者差別と盲人社会

近世身分制社会が役の動員を目的とした兵農分離から始まったことはすでに述べた。しかし、様々な理由で領主から課される役につけない者たちもいる。その理由の大半が生来のあるいは負傷によって負った様々な障害であった。彼らは人別張で役に立てない者=「役不立(やくたたず)」と呼ばれている。

江戸時代の農家はそれまでの複合大家族から単婚小家族への変化が起きていた。十七世紀の新田開発ラッシュが背景にある。複合大家族であれば、親族や小作農、奉公人を使って大規模な農業経営を行うため、障害者もなんらか可能な範囲での作業を担うことで家族の一員として扶助され得るが、単婚小家族が中心の社会になると、一人当たりの労働量は障害者が担うには困難なことが多い。年貢負担の大きさもあって障害者の自立は困難が多くなる。一方で幕府は障害者の扶養を家族や村に任せたから、家族負担は非常に大きくなる。障害者はまず親族縁故者が扶養を担い、それが困難な場合に村が救済措置を行う。しかし、共同体の扶助も凶作や飢饉が起きたり、十八世紀以降の水飲み百姓や潰れ百姓の増加といった貧富の差の拡大の中で機能不全を起こしていく。そうなると、障害者への視線は非常に厳しいものとなる。

中世から近世にかけて村々では解死人制度やその延長線上にある身代わり制度があった。

『日本の中世村落には、父=家の身代わりには肉親の子供・また庄屋=村の身代わりには乞食という、家と村とにそれぞれ対応する二つの身代わりの方式が存在した。後者の例としては、たとえば中世末の摂津の水争いに際して、「一村に壱人宛はりつけ」の処分が決まった時、村々では公然と「庄屋代に乞食」を犠牲としてさしだした、という。あるいは、十七世紀初頭の丹波の山争いのあとで、「村中の難儀に代り相果」てようと、すすんで相手方の村へ下手人に赴いた男は倅のために「苗字を下され、伊勢講・日待参会にも相加り候様」と願い、それを容れられて死についた、という。いわばこの男は苗字をもたず、講や日待などの正規の村の成員の集まりからも排除された、ごく下層の者だったのである。
村の身代りの要件は、村落共同体に扶養され、しかも村落の正規の成員から排除された存在、ということであった。日本の中世村落は、そうした身代り=犠牲となる乞食を村抱えで養っていたのである。』(赤坂憲雄P261-262)

このような村落共同体に扶養された下層の者には障害者も多く含まれている。共同体による扶助が機能しなくなると、困窮者や障害者は共同体からの離脱を余儀なくされ遍歴の民となっていった。その結果として中世に生まれたのが非人であったことはすでに述べた。では障害者はどうだったか。芸能者や呪術者として遍歴するか、乞食として物乞いを行うか、あるいは何等かの職を見出して同じ職分の健常者とともに身分的編成を受けるかである。何にしろ、役の負担を基準とする近世身分制社会において、労働力を担えない人々の立場は非常に低いものとなる。

そのような周縁の被差別者である障害者の中で、近世身分制社会において異例の身分的上昇を遂げた人々がいる。盲人の芸能者「琵琶法師」から発展した「座頭」である。

座頭~盲人の格式格差社会

中世、穢れ信仰から障害者やらい病患者は忌避され、差別されたが、その反面で穢れとともに聖性を持つ存在としても見られており、特に盲人の呪術者は広く信仰を集めるようになる。十一世紀ごろから盲人呪術者が琵琶法師として人気となり、琵琶だけでなくのちに三味線を使って平家物語や義経記を歌い、農耕儀礼や死者供養の呪術宗教の担い手となって、十五~六世紀ごろまでに宗教的芸能者として確固とした地位を築き始めていた。彼らは近世になると「座頭」と呼ばれて芸能者の代表的な層となる。

座頭の中から鍼術を学んで医師として活躍する人々が現れ、彼ら盲人鍼医が次第に武士層に重用されるようになると、その地位は非常に高まっていく。そのきっかけが三代将軍家光を治療した山川検校城管や五代将軍綱吉の侍医となった杉山和一の登場であった。杉山和一は元々藤堂藩士杉山重政の嫡男で失明して鍼術を学んだ人物で、身分的周縁というよりは、武士層に属するが、高い技術と巧みな政治力、そして盲人の鍼術教育にも力を入れ、座頭の地位を大きく引き上げた。

元禄五年(1692)、将軍綱吉は杉山和一を座頭仲間「当道」のトップである惣検校に任じると当道の基本法である「当道式目」を改定させその組織化を進めさせる。惣検校を頂点に、藩領ごとに支配役、その下に座元または組頭をおいて領内を数組に編成、さらに惣検校の下に十名の長老検校がおかれて最高支配機関となる「職十老制」が敷かれ、裁判権も認められるなど座頭に対する支配者層として君臨する。さらに、上から検校、別当、勾当、座頭の四官がそれぞれ四階級ずつ、全部で十六階級となる格式を整え、上位の座頭は武士層にも引けを取らない権威と権力を身に着ける。一方で、格式上昇にはコネとカネと家柄が非常に重要で、「過半数は一生かかっても、下から数きざみの座頭にとどまっていた」(加藤康昭1992 P159)。

強力に編成された盲人組織では上層階級の盲人が将軍家にも一目置かれるほど我が世の春を謳歌し君臨する一方で、下層の盲人は村落共同体の周縁で蔑視され、あるいは遍歴を余儀なくされながらささやかな芸能を披露しつつ物乞いで生計を立てる。残酷な格式格差社会が現出していた。

都市の貧困~日用(日雇い労働者)

「日用」とは何か、「日用は日雇とも書き、本来は一日を単位として、自らの労働力を販売することをいい、こうした日単位の労働を専業とし主な収入源として働く人々」(吉田伸之2009 P145)のことをいう。江戸時代、日用は村・町の別なく様々な局面で低賃金労働に従事して近世身分制社会を下支えした。

在地社会=村にあっては
(1) 貧しい百姓が地主に雇われて地主が所有する耕地で労働するような農業日用
(2) 百姓の二、三男が、領主の元に年季で雇用される武家奉公
(3) 交通・林業・漁業などが必要とする運搬や単純労働に雇用される日雇い
などがある。

都市社会=町にあっては
(1) 武家奉公人の不足を補う足軽・中間・小者などの下級奉公人
(2) 鳶・背負い、飛脚、仲仕・小揚などの港湾労働者、車力や軽子などの運搬労働者など、交通・物流インフラを維持するために不可欠な運輸・運搬・荷役に関わる肉体労働者
(3) 鳶と重なる火消人足、辻番・木戸番などの警備員からなる都市のインフラや治安・防災・警備システムを維持・管理するために必要とされる単純な諸雑業に携わる労働者
などがある。(吉田伸之2009 P145-147)

日用の多くはかつてはそうだったかもしれないが百姓・町人身分ではない。町人身分からなんらかの理由で没落した者、飢饉などで離散を余儀なくされた百姓とその家族、新田開発ラッシュが終わり食い扶持をみつけるためにまたは家計を支えるために出稼ぎとして村を離れた嫡子以外の若年男女、あるいはかつて武士身分だった牢人やその家族などで、彼らは人別張からも外れて身分を喪失した身分的周縁の存在である。

十八世紀以降相次ぐ飢饉と社会的権力としての大店や豪農の台頭などで既存秩序が崩壊して格差が拡大するなか、彼らの多くが生活の糧を求め都市に流入して日用層を構成する。速水融・鬼頭宏らによって歴史人口学上「都市の蟻地獄」効果と呼ばれる近世江戸の陥穽――高い人口密度と劣悪な生活環境による短命での高い死亡率――にはまることになる人々だ。『死亡率の高い都市に農村から流入した人々が数多く死んでいく』(鬼頭宏「文明としての江戸システム」2008 P101)、『男子の半数は出稼ぎ先で死亡、または行方不明』、『女子の場合はそれほどでもないが、両者をあわせてほぼ三割』(鬼頭2008 P188)と高い死亡率であった。

彼ら日用層の増加に対応して十八世紀前半から都市では日用層の就業を斡旋する人宿と呼ばれる人材業者が登場、様々な共同組織を組織して求人に労働者を供給した。江戸の番組人宿、日用座、六組飛脚仲間、町火消組合などが代表的で、彼らと日用層との搾取的関係がある。

日用層は増加の一途をたどり、「その日稼ぎの者」は「十九世紀の前半にほぼ二十八万~四十万人にも達した。この数値は、当時の市中人口の六~八割にも相当する」(吉田伸之2009 P354)。なお、江戸はほぼ市中人口と同程度の武士がいたと考えられているので、江戸時代後期、江戸総人口の三~四割が日用層であったと推定される。この百姓でも町人でもない都市の低所得労働者問題は江戸時代を通じての重要政策課題の一つで、対策として史上名高い寛政の改革・天保の改革が断行され、そして十分な成果が残せず失敗。彼ら主要身分の埒外におかれた身分的周縁としての低賃金労働者に支えられた近世身分制社会は、まさに膨れ上がる彼らの存在によって内側から突き崩されていく。そして江戸時代の終わりを招来するのだ。

江戸幕府が倒れたところで、この日用層という社会問題が雲散霧消するわけでは全くない。近代化の波の中で職を失う自営職人層や零細商人層、士族に編成されなかった身分的中間層からの没落者等も含め、彼らは、肉体労働者として、新たに誕生した工場労働者として、あるいはスラム街の住人として差別と偏見に晒されつつ低所得労働者層を再生産し、日本の労働者の生活・就業様式などにも大きな影響を及ぼしつつ近代日本にくさびを打ち込み続けることになる。

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