近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓

【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ
「士農工商」とは何だったのか
江戸の身分制度研究略史
近世身分制社会の成立
近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓
近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層
賤民制と身分的周縁を構成する社会集団
柔らかい身分理解という日本社会史の新視点

スポンサーリンク
スポンサーリンク

三つの支配者層

支配層として君臨するのが、
(1) 徳川将軍家を頂点として、独自の家政機構を備え封建領主として被支配層の統治を認められた大名と、幕府の行政機構において官僚としての職務を分担する旗本・御家人、および各大名の家臣団からなる武士。
(2) 幕府の権威づけや元号宣下、官位叙任、祈祷や諸宗派の統制などの宗教的機能を持ち、幕藩体制を将軍家とともに支える役割を担わされつつも、制度上徳川将軍家に従属し、封建領主として大名と並列にあった天皇・公家。
(3) 近世身分制社会を成立せしめる宗旨改め制度の管理運用、キリシタン禁制のチェック機能、被支配身分の人身同定機能を担い、寺院本末制度によって本山・本寺の地位を保障し各宗派の組織化を行って幕府の統制下で宗教社会を形成した寺社。
の三つである。公家貴族層と寺社領主層を長袖身分と呼んで区別する場合もあるが、公家貴族層は朝廷とその領地、後述する公家家職として編成された諸集団、寺社は宗教世界と寺社領地のみに支配力を行使した。

支配者としての武士身分

大名は将軍家の下で「国や郡、或いは一万石以上に及ぶ一定領域を公的に支配・領有し、独自の家臣団と家政機構・軍事機構・財政司法行政機構を有することを承認された武家の家格である」(吉田伸之2009 P27)。御三家御三卿からなる親藩、徳川家の直臣家臣団であった譜代、徳川幕府成立以前から徳川家と同格の大名であった外様からなる。親藩・譜代・外様という将軍家との距離、所領規模(石高)、国持大名から城主、無城主など領地の格、参勤時の詰の間の違い、官位等によって格式が定められ、階層秩序化された。

旗本は将軍の直臣で将軍に謁見できる「御目見」以上の武士身分のうち、一万石未満の者を指す。高家二十六家と交代寄合二十九家を頂点として諸大夫・布衣・布衣以下の三層に序列化され、幕府の官僚として各奉行職や番頭・大番頭など重職を担った。

御家人は御目見以下かつ布衣以下の武士で、独自の所領を持つことはなく幕府から切米・扶持を給付されるとともに町屋敷を与えられて下層町人に貸し出して地代を徴収するなどして収入を得ていた。その大半は旗本・上位御家人が組頭を務める組の支配を受け、「組の者」として様々な職に就いた。下層御家人となるとやっていることは大工・左官・掃除之者・台所人など職人や賤視された日用層と変わらなくなる。

天皇・公家~朝廷社会

徳川幕府は元和元年(1615)、禁中並公家中諸法度を出して天皇・朝廷をその支配下に置いた。同法度は天皇・朝廷の弱体化を目指したものという理解はすでに否定されている。

「現在では、戦国時代末期に解体に瀕していた朝廷と公家の秩序を再確立し、幕藩体制という近世支配の一翼を担わせるため、体制に適合的な天皇と朝廷に再編し、その存続と機能の維持を図ったものと考えられている。」(藤田覚「江戸時代の天皇」 2011 P15)

天皇に対して学問をはじめ日本国の王としてのふるまいを求めるとともに、天皇を支える朝廷の序列を確立した。皇族、五摂家・清華家の堂上公家とそれ以外という家格、現任の摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣を上位としそれに次いで世襲親王家、非現任大臣、諸親王という序列である。その下に地下官人が従う。

朝廷統制のため、幕府は様々な規制と役職・組織を設けた。代表的な役職が武家伝奏である。武家伝奏は幕府と朝廷の交渉・連絡役で関白に次ぐ地位が与えられ、当初は武家昵懇衆という親幕府公家から選ばれ、後に公家候補者を朝廷が推薦し幕府が選任する仕組みとなったが、同職は幕府への忠誠を誓う誓詞血判の提出が求められた。同じく任命に幕府の同意が必要な議奏も設置され、関白と武家伝奏・議奏が朝廷の意思決定を行う執行部となった。また、朝廷監督機構として京都所司代が設置、所司代指揮下の禁裏付武家が旗本から選任されて京都に常駐し、朝廷財政の管理や御所内の役人の指揮監督にあたった。

公家たちは神道の吉田家・白川家、陰陽道の土御門家、鋳物師の真継家などそれぞれ家職を持ち、宗教者や職人たちを編成して主要な収入源とするとともに、朝廷は天皇を頂点とした封建領主として所領の村や町を支配する。この点で朝廷は幕府に従属する大名領主の一種であったといえる。

ただし、一般的な大名と違って天皇は幕府の権威づけや元号宣下、官位叙任、祈祷や諸宗派の統制などの宗教的機能を持ち、幕藩体制を将軍家とともに支える役割を担っていた。

寺社社会

近世身分制社会を成立せしめる宗旨改め制度の管理運用を担ったのが全国四十六万の寺社である。天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗・律宗・時宗・法相宗・日蓮宗と曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の禅三宗をはじめとする諸宗派からなり、キリシタン禁制のチェック機能と、被支配身分の人身同定機能を持たされた。

近世寺社の類型は以下の四つに分類できる。(吉田伸之2009 P32)
1) 将軍家や大名家の菩提寺
2) 中世以来の伝統を持つ宗派の総本山をはじめとする有力大寺院
3) 都市域における都市民の旦那寺
4) 在地社会における村落構成員の旦那寺

幕府は各宗派の本山・本寺の地位を保障して各宗派の大小寺院を末寺として組織化する権限を与え本山・本寺が末寺を統制する体制を整えた。寺院本末制度である。同時に各地の領主にもその支配下の寺院の管理を命じ、二重の統制体制が築かれた。基本的に僧侶はこの本末制度下で各寺院に所属することが求められ仏教僧侶の集団化が図られる。

同時に有力寺院には朱印地が与えられ、これを寺領として支配下の村・町から年貢や賦役を徴収する権限が与えられた。この結果、支配者層としての寺社領主が登場、その支配下としての寺社社会が成立する。

寺社社会は複雑に入り組んでいる。領主としての有力寺院が頂点にあり、寺院の管理運営を行う僧侶たち、被支配層としての百姓と町人、賤民たちがいる。江戸の場合、寺社領主たる寺院がその寺領の百姓・町人ら民衆を支配するが、寺院と僧侶たちと百姓たちは寺社奉行の、町人は町奉行の管轄下となり、さらに寺社領主が末寺であった場合には本末制度にのっとってその上位の本山がその寺社領主の統制を行う。

1、2のような寺領を持つ有力寺院は支配者層の一角であるが、一方で3、4のような地域共同体の旦那寺はむしろ被支配者層に近く、さらに本末制度下で組織化されない多数の無所属僧侶や宗教者が存在して、賤視され身分的周縁を構成する。

また、寺院ではなく神社も村や町に存在して信仰を集めた。神仏習合の言葉通り寺院でもあり神社でもあるということが多い。寺社同様に有力神社になると幕府から社領地を与えられて領主となるが、多くは町や村などの地域共同体の中で神事を担っていた。神社の神職に関する身分編成は公家の吉田家・白川家が中心となり、有力神社の神職は堂上公家が担ったが、大半の神社の神職は吉田・白川家を通して官位叙任されるか装束の許状を受けることで神職身分を得て神事を行い、氏子の村々の費用負担によって運営される。神社の神職を管轄する部署として寺社奉行下に神道方が設けられた。吉田家によって編成されなかった、あるいは敢えて編成を求めなかった神職=神道者も多く、彼らもまた賤視される身分的周縁を構成する。

分厚い平人社会~村と町

寛文期までに、主に寛政の飢饉を契機とした農政転換を背景として戦時動員体制の根幹であった役負担は米や銀など代銭納制に置き換えられつつも、その役の動員を目的とした戸籍制度の成立によって、被支配者層としての平人社会が姿を現してくる。百姓からなる「村方」=在地社会と町人からなる「町方」=都市社会である。彼らは移動と職業変更の自由を禁じられ、地縁的・血縁的共同体を生活基盤として三身分の中の中間層を形成した。

村方~在地社会

「村は、百姓の家屋敷から構成される集落を中心に、田畑などの耕地や野・山・浜を包摂する広い領域を持つ小社会である。その中心には、百姓の小経営と生活を支える自治組織=村中があった。村は農業生産を軸とする農村が大半であるが、漁村・山村・在郷町など多様であった。」(吉田伸之 2009 P33)

「職業に関わりなく、村の帳に登録されたものが『百姓』であ」ったから、若干トートロジーじみているかもしれないが、つまり百姓が住んでいたのが村である。いうまでもなく、百姓は農民もいれば漁師もいるし、木こりや猟師もいる。さらにいうと村には商人や職人も住んでいて、彼らは百姓として登録されるわけだ。百姓身分の商人・職人という存在は「士農工商」というくくりだと見えなくなる。

とはいえ、兵農分離に続いて商農分離と呼ばれる商人職人層の大規模な都市移動が進んだことも事実で、「惣村から非農業的・都市的要素が分離・剥奪された」(渡辺尚志 2004 P179)。村と町の分離が近世社会の特徴の一つをなしており、各々独自の自立的な地縁的共同体を構成することになった。

村は一村あたり約四百人の構成員からなり、名主・庄屋と村役人によって運営され、村法・村掟をもち、山野や浜は共有地として共同利用され、高度な自治機能を有していた。このような村の生産物と労働力を権威と武力を背景として取り立てることにより幕府・藩は存立していて、十八世紀初めの時点で、日本全国で約六万三千の村があった。

ただし、百姓身分だけが村を構成したわけではない。豊臣・徳川両政権はともに、職業・身分と居住地を一致させようという志向が非常に強く、賤民とされた人々も集住して村を構成させられた。かわた村などが代表的である。

町方~都市社会

「町は、城下町や宗教都市、鉱山町、門前町、港町、宿などの都市域において、その基礎に存在する地縁的な共同組織であり、在地社会の村とともに近世社会の土台を構成した。そして、居住者で商人や手工業者の小経営主体のうち家屋敷を持つもの(家持)が本来の町人身分であり、町人が自主的に運営する自治団体が町であった。」(吉田伸之2009 P34)

村と同様に町も一町あたり三百~四百人前後で構成され、名主・年寄・肝煎らによって運営され、町法をもち、道路や近接地域は共有地として共同利用され、高度な自治機能を有していた。「江戸八百八町」などと言われるように(実際はもっと多く、1745年時点で1678町)、このような町が複数集まって近世都市が形成され、全国で約一万程度の町が存在していた。

仲間と組合

家に代表される血縁的共同体、町や村の地縁的共同体とともに、近世の平人社会において大きな影響力を持ったのが、そのような地縁的血縁的共同体の枠を超えて、職業や社会的機能などに基づいた「仲間」「組合」などの共同組織による社会的結合であった。

町方にあっては商人や職人の小経営者が職業別の共同組織を結成し、享保の改革以後その動きには拍車がかかり田沼期の株仲間など、社会的に大きな影響力を行使するようになる。村方でも酒屋や質屋など多様な職種の共同組織が登場し、十八世紀に幕府へ公認の動きを強めていく。職業別だけでなく、村同士、町同士の結合も数多く見られ、単純な身分制社会ならざる多様性・多層性を近世社会が持つことになった。

様々な社会的結合と組織化の動きがその身分集団の力関係にも大きな作用を及ぼし、身分序列の高低を単純に判断できない状況を作り出す。実際、百姓と町人の間に身分の高低はないが、その平人社会の中で、強力に組織化された集団とそうでない者たちの間での力関係がはっきりと現れてくるようになるのである。これは後述する身分的周縁を考えるうえで大きな要素となる。

では支配者層としての武士・朝廷・寺社、中間層としての平人とみてきたが、賤民身分はどうか、それを考えるために身分的周縁のアウトラインを見ていこう。

次ページ→近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層

スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク