近世身分制社会の成立

【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ
「士農工商」とは何だったのか
江戸の身分制度研究略史
近世身分制社会の成立
近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓
近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層
賤民制と身分的周縁を構成する社会集団
柔らかい身分理解という日本社会史の新視点

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兵農分離~太閤検地と刀狩り

近世の身分制度は兵農分離を軸としている。その土台は豊臣秀吉による太閤検地と刀狩りによってつくられた。太閤検地によって統一基準で算定された石高に基づき、秀吉から大名へ、大名から家臣へと領地が石高で与えられ、その知行の大きさに見合う軍役奉仕が義務付けられる。また、太閤検地によって百姓の耕作権が公認されるのとひきかえに、領主に対する貢租の納入が義務付けられる。支配者としての武士と被支配者としての百姓という構造が確立されていく。

この兵農分離に基づく身分構造の制度化として実施されたのが「刀狩り」である。「刀狩り」も、農民の武装解除という通俗的な理解が根深いが、そうではない。刀狩りは刀・脇差の所持ではなく帯刀を禁じることでの帯刀の有無を表象とした身分統制、すなわち『武士に奉公する者と、奉公しない百姓、戦う奉公人(兵)と戦わない百姓(農)の差別化』(藤木正志 「刀狩り」2005 P106)であった。

「秀吉の刀狩りは、村に多くの武器があることを認めながら、村と百姓が武装権(帯刀と人を殺す権利)の行使に封印することを求めた。帯刀(携帯)権を原則として武士だけに限り、百姓・町人には脇差の携帯だけを認めた。刀を除く武器も、その使用は凍結された。しかし、村と百姓が完全に武装解除されたわけでも、文字通り素肌・丸腰にされたわけでもなかった。」(藤木正志 2005 P228)

このような豊臣政権の兵農分離政策は天下一統から朝鮮出兵へ至る諸戦争への役の動員体制のために作られた。武士の軍役への動員のためにも武士とそれ以外とを分離する必要があり、百姓や職人など様々な職能に応じた動員体制が同時に構築される。それは職種ごとに居住地を分ける志向ももっており、武家奉公人の在地からの離脱と、村方居住者の百姓化、不徹底に終わったが一部で商職人の城下町への集中といった変化があった。この豊臣政権の戦時体制を近世初期身分制と呼び、これを受け継いだ徳川幕府によって近世身分制社会が成立する。(横田冬彦1992 P52-54)

宗旨改め(宗門改め)と江戸身分制社会の成立

豊臣政権はまた、役の動員のために戸口調査も実施した。天正二十年(1592)の「人掃令」である。村ごとに各家単位で武家奉公人、職人、百姓、村役人、障碍者を分けて夫役台帳にとりまとめる。その共同体がどの程度の役の負担を行えるか把握する目的で作られた。このような豊臣政権下で始められた戸口調査は不十分ながら「戸籍制度」の萌芽であったが、徳川幕府はそれを制度として確立する。それが「宗旨改め(宗門改め)」である。

慶長十七年(1612)の禁教令以後、一般民衆レベルで町・村など共同体に依拠した信仰調査とキリシタンの棄教が進められ、その名簿が作成されるようになる。寛永期(1624~45)、それまでの過激な弾圧によって国内から宣教師が一掃されると、キリシタン改めは「全家族・全住民の町・村単位の登録制度へと転換」する。寛永十二年(1635)、全国的なキリシタン転宗者と一般民衆からの起請文が徴収され、寛永末年(1645)までに各共同体ごとに全住民の家族構成と宗派・旦那寺の記載がされた宗旨人別改帳が作成、寛文期に宗旨人別帳は毎年登録が義務づけられた。

この宗旨人別帳に「職業に関わりなく、村の帳に登録されたものが『百姓』であり、町の帳に登録された者が『町人』」(横田冬彦1992 P73)、さらに『百姓』『町人』とは別帳で出され、寺請から属籍が区別された者が『賤民』となる。

「すなわち江戸時代、将軍と大名によって構成された『公儀』のもとで、すべての人々が宗旨改帳という『戸籍制度』によって登録されていた近世的な身分制度とは、<武士―平人―賤民>という身分制度であった。」(横田冬彦1992 P76)

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