「士農工商」とは何だったのか

【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ
「士農工商」とは何だったのか
江戸の身分制度研究略史
近世身分制社会の成立
近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓
近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層
賤民制と身分的周縁を構成する社会集団
柔らかい身分理解という日本社会史の新視点

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「士農工商」の由来と受容

「士農工商」という言葉と社会を構成する人々を四民に分ける分類は古代中国の古典に由来する。「春秋穀粱伝」に「古者有四民,有士民,有商民,有農民,有工民。」とあり、「漢書」には「士農工商,四民有業。學以居位曰士,闢土殖穀曰農,作巧成器曰工,通財鬻貨曰商。」、「管子」にも「士農工商四民者,國之石民也。」とある。いずれも士農工商に身分的序列の意味はなく、職能から社会を構成する人々を分類する意味でつかわれていた。

いつごろ士農工商の分類が日本に伝わったかは定かではないが、「続日本紀」の「霊亀元年(七一五)五月辛巳朔」に「四民之徒。各有其業」とあり、十四世紀に成立した「神皇正統記」にも「凡男夫は稼穡をつとめておのれも食し、人にもあたへて、飢ざらしめ、女子は紡績をこととしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。賎に似たれども人倫の大本也。天の時にしたがひ、地の利によれり。此外商沽の利を通ずるもあり、工巧のわざを好もあり、仕官に心ざすもあり、是を四民と云ふ。」という記述がある。平安~鎌倉時代までに「士農工商」「四民」という概念は中国古典と同じく身分差を意味しない、社会を構成する職能別の分類として定着したようだ。

ただ、日本では受容される過程で「士」の指す対象が武士となった点に特徴がある。「中国では、士は何事かをなしとげる能力のある人、とくに学問によってそれを行える人の意味が強い」(朝尾直弘「日本の近世 7 身分と格式」1992 P15)、すなわち士大夫層を指すが、神皇正統記では士を「仕官にこころざす」者とし、続けて「仕官するにとりて文武の二の道あり」として武士の意味を付け加えた。十五世紀、一向宗の僧蓮如は阿弥陀如来の本願をたのむ心にすがって往生できる人々を士農工商を前提として四つに分類し、士にあたる人々を「奉公・宮仕ヲシ、弓箭ヲ帯シテ主命ノタメニ身命ヲオシマズ」とした。慶長八(1603)年の日葡辞書にも士農工商の語が登場しサブライ(侍)・ノウニン(農民)・ダイク(大工)・アキビト(商人)」また「四民」として「サブライ(侍)・ノウニン(農民)・タクミ(匠)・アキウド(商人)」と紹介されている。(朝尾1992 P17-18)

ここまで中国でも日本でも基本的に「士農工商」の各々の間に身分の別はない。以後近世にはいっても「士農工商」は基本的に身分としてではなく職業分類としての使われ方が主流であった。

近世の士農工商観

しかし、豊臣政権による太閤検地とそれに続く兵農分離によって武士とそれ以外との区別が生まれ、続く徳川幕府もその体制を引き継ぐと、それ反映して士と農工商との差別関係が表現されるようになる。中江藤樹は「翁問答」にて「士は卿大夫につきそひて政の諸役をつとむる、さぶらひのくらゐ也。物作を農といひ、しょくにんを工と云、あき人を商と云。この農工商の三はおしなべて庶人のくらゐなり。」として、士と農工商の「くらゐ」の差を唱えた。農工商の間に身分の差はない。

一方、西川如見は著書「町人嚢」(享保六年)で「五等の人倫」論に基づいて士農工商を整理した(大島真理夫「士農工商論ノート」)。すなわち、天子=禁中(天皇)、諸侯=諸大名、卿大夫=旗本のうち物頭の地位にある者、士= 一般の旗本、そして庶人の五つが五等で、庶人は彼ら天子・諸侯・卿大夫・士の家臣や下級武士も含む士農工商の四民であるとする。

「庶人に四つの品あり。是を四民と号せり。士農工商これなり。士は右にいへる諸国又内の諸侍なり。農は耕作人なり。今は是を百姓と号す。工は諸職人なり。商は商売人なり。上の五等と此四民は、天理自然の人倫にて、とりわき此四民なきときは、五等の人倫も立つことなし。此故に、世界万国ともに此四民あらずといふ所なし。此四民の外の人倫をば遊民といひて、国土のために用なき人間なりと知べし。」

士農工商の間に特に身分差をとらえていないものの、その四民の外にある人々に対して「国土のために用なき人間なり」として差別的な視線を向けてもいる。同様の視点は近世初期の仮名草子「可笑記」にもある。

「それ天下にたからおおくありといへども、人をもって第一とす。人の中にも士農工商の四民を以てたからとす。士とは奉公人の事、農とは百姓の事、工とは職人の事、商とはあきんどの事。此外の者は遊民とて何の用にもたたず、ただ鼠のごとし」

職分論から身分論へ

ほぼ江戸時代を通して士農工商は職分の違いとして国を構成する人々「四民」全体を指すことばとして使われてきたが、江戸時代も中~後期になると、社会的矛盾が利害の衝突として現れるようになり、百姓と職人、商人をはじめとした諸職業、諸社会集団の間の軋轢が社会問題となってくる。その結果「士農工商」を身分制社会のあるべき姿、理想像として捉える見解が登場する。

寛政十一年(1799)、藤田幽谷は著書「勧農或問」で町人の奢侈が農業の衰退をもたらしているとして、商業の抑制のため、商人の身分制限を主張した。

「猶又一法を設けて農を利するのみにあらず、これを貴び、商賣をば是を抑へ且賤しむべし、士農工商の次序を以四民の格を明らかにし、且其種類を定め、百姓町人かたく婚姻を通ずべからず…… (中略)…… (商人は)人別帳にも御百姓とは別にして、帳の末へ記させ、此商人は何程富たりとも、田地を取に限ありて、百姓一軒前の半分とか、三分一。四分一ならでは持たせることを禁じ、いかに著姓旧族たりとも、既に商人と定る上は、小百姓の下座と定めて是を辱しむべし…… (後略)」

ここではじめて、士農工商を身分序列として捉える言説が登場するのである。商業への敵視が士農工商という言葉に身分序列の意味を付与し、江戸後期という流動化する社会の中である種の理想論として語られるようになった。十九世紀初頭には歌川国芳の農耕絵巻「労農夜話」など、士農工商を身分序列としてとらえる作品も登場するようになり、この時期、ある程度「士農工商」が身分の違いを表す言葉として捉えられるようになったと考えられている。

つまり、職能区分を示す「士農工商」が身分として捉えられるようになったのは十九世紀に入って、江戸時代後期から幕末のことであり、それは言葉の捉えられ方であって、制度としても社会としても実態を表すものではない。ただ、この身分の差を表す言葉としての「士農工商」に対するスローガンとして「四民平等」が幕末維新期に大きく唱えられるようになる。

徴兵制と四民平等

明治政府において「四民平等」は徴兵制の施行とセットで広く唱えられた。「徴兵告諭」(明治五年(1872))は四民平等となって庶民が権利を獲得し平等となった今、武士が独占していた兵役も広く負担されるべきであるとする。

「然ルニ大政維新列藩版図ヲ奉還シ辛未ノ歳二及ヒ遠ク郡県ノ古二復ス、坐食ノ士ハ其禄ヲ減シ刀剣ヲ脱スルヲ許シ四民漸ク自由ノ権ヲ得セシメントス、是上下ヲ平均シ人権ヲ斉一二スル道ニシテ則チ兵農ヲ合一二スル基ナリ、是二於テ士ハ従前ノ士二非ス民ハ従前ノ民ニアラス、均シク皇国一般ノ民ニシテ国二報スル道モ固ヨリ其別ナカルヘシ」

引用文中にもあるように制度の変化は士農工商から四民平等へではなく、「兵農分離」から「兵農の合一」へという流れである。

斉藤洋一・大石慎三郎著「身分差別社会の真実」(1995年)によると、「士農工商えた非人」と士農工商に被差別層の二者を加えた言い方が登場するのは明治七年(1874)のことだという。明治時代に新しく作られたこの言葉は昭和初期の融和教育を通じて広く浸透した(斉藤・大石 1995 P32-34)。昭和初期の融和教育の展開は初期の部落解放運動の大きな成果だが、同時に「士農工商えた非人」の身分制社会から「一君万民」の平等な一つの臣民へという虚構にも利用され、挙国一致体制形成に少なからぬ影響を及ぼすことになった。

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