徳川吉宗の享保の改革と徳川宗春の尾張藩政改革

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アベノミクスは、江戸時代に一度「大失敗」していた!(河合 敦) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)
こんな記事を読んだので、以前書いた記事から享保の改革と徳川宗春についての部分を切り取って再掲しておこうかなと。比較してお読みいただければ幸いです。まぁあちらは仮にも歴史の先生、こちらはただの素人が趣味で書いたブログ記事なので温い目線で軽い気持ちでお読みください。

徳川吉宗の享保の改革

享保元年(1716)、徳川吉宗が将軍に就いたときの日本は転換点を迎えていた。十七世紀の大開発時代が終わり耕地面積は頭打ちとなり、人口も十七世紀の百年で二・五倍と急増したあと、十八世紀初頭から幕末までほぼ3200万人前後で横ばいに転じる。森林資源は枯渇して各地に禿山が見られ始め、元禄バブルを最後に経済成長の鈍化とともに幕府財政は急速に悪化し、「米価安の諸色高」とよばれる米の供給過剰と米以外の産品の供給不足による物価の乱高下で庶民生活は混乱、これに度重なる飢饉と疫病など大規模災害が追い打ちをかける。さらに幕政は短命の六代家宣、幼少の七代家継の弱い将軍職の下、譜代門閥と綱吉以降に台頭した新興知識人とに二分され政争に明け暮れている。吉宗が託されたのは課題山積する低成長時代の日本の舵取りであった。

吉宗はこの課題に対して「大きな政府」というと若干の語弊があるだろう、「強い幕府」という方針で臨んだ。大石学は(1)将軍権力の確立(2)首都改造と都市政策(3)首都圏の再編(5)国家支配の強化という四つに分類している。まず新興知識人層が拠っていた側用人制度を廃止、紀伊時代の家臣団を側近として大規模に登用、自身の権力基盤とすると、情報収集・監査機関としての御庭番制度、庶民からの意見や直訴の窓口としての目安箱を設置、鷹狩りを再開して将軍権力の確立を図る。次に町奉行として大岡忠相を登用して首都機能を強化し、商人の業種別組合を作らせて物価統制を図った。また、国家機能の強化として「公事方御定書」など判例法典の編纂をおこない法の支配を進め司法制度を確立、全国人口調査を行い、国民教育の振興、年貢徴収・増徴政策を展開、庶民救済の施策を次々と打った。

幕府を、将軍を頂点とする効率的な官僚機構に再編し、国家機能の強化と公共政策の重視により支配を日本全国あまねく行きわたらせた。徹底したデフレ政策と、倹約の推進・奢侈の禁止による緊縮財政政策、増税に次ぐ増税と新田開発、税収安定化政策によって幕府財政を黒字化した。享保の改革は大成功を収め、後々、幕政改革の模範となった。

しかし、庶民にとって吉宗の政治は非常に息苦しいものであった。享保の改革で辣腕を振るった勘定奉行神尾春央の「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」との言に象徴されるような苛烈な徴税、無理な新田開発による水害など二次災害、物価の乱高下や慢性的な生活必需品の不足、流通システムの不全が被害を拡大させた享保の大飢饉などによって、庶民の間には吉宗の政治に対する不満が鬱積していた。

享保の改革は『法と官僚による国家支配のシステム』(大石「吉宗と享保の改革」P337)という、後の明治政府へと繋がる『国家支配の近代化への起点』(大石「吉宗と享保の改革」P337)として非常に重要な歴史的意義を持つが、その出発点として、そもそも幕藩体制が構造的に抱えていた石高制という問題への抜本的改革を行えなかった、むしろその維持を目的としていたという点において、必然的に国民負担の増大を招来するものでもあった。

では、幕府が直面していた諸問題に対する対策は吉宗の「強い幕府」という方針しかなかったのだろうか?まったく同時期に、もう一つの解を実践してみせたのが尾張藩主徳川宗春であった。

徳川宗春の政治思想と吉宗との政争

享保十五年(1730)、御三家のひとつ尾張徳川家の家督を継いだのが徳川宗春(1696-1764)である。藩主となった宗春は自身の政策をまとめた著書「温治政要」を著した。それは吉宗の政治を批判し、山積する諸問題のもう一つの解となるものであった。「小さな政府」的な規制緩和と市場経済の重視という、現代でいうところのリバタリアン的政策群である。

「仁」の重要性を説き、その上でまずは第三条で「司法の健全化」と当時としては余りにも斬新な「死刑制度の廃止」を唱える。

『刑罰については、いったんあやまって後は、どのように悔いても取り返しがつかないことであるので、よく吟味したうえで何べんも念を入れ、慎重にしなければならない。たとえば、千万人のうちに一人誤って刑しても、天理に背き、第一国持大名の恥である。』(大石「規制緩和に挑んだ「名君」徳川宗春の生涯」P124)

江戸時代の刑罰が領地からの追放と打首・火刑・斬首等何種類にも細分化された死刑を中心として成立していたことを考えればその斬新さがわかるだろう。宗春はその治世の間一人も死刑を執行しなかったという。

次に、吉宗が法典を編纂したことを述べたが、宗春は法令の多さを批判し、法令が多いのはよくないことだという。

『法令が多すぎると、人の心も積極性が失われ、狭くなりいじけ、道を歩くときにも後先をみるようになり、いつも愚痴ばかり言い、自然と忠義の心も薄くならないともいえない。したがって、法令の内容をよく考え、人の難儀や差し障りになることや瑣末な種類の法令は取りやめるようにしたいものである。』(大石「規制緩和に挑んだ「名君」徳川宗春の生涯」P130)

また別の法度で宗春は『国に法令多きは恥辱の基』と述べ、前述の勘定奉行神尾春央は 『法ハ人間よりも重ク、法の次ハ人』と語っているように当時法の支配の強化を進めていた吉宗と真っ向から対立した。

また倹約・緊縮政策を批判して『やたらと省くばかりでは、慈悲の心は薄くなり、知らないうちにむごく不仁な政治となり、人々がたいへん痛み苦しみ、省略がかえって無益の出費を招くことがある。』といい、災害対策を重視して防災の備えの不備を注意し『たとえ千金を溶かした物でも、軽い人間一人の命には代えられない。これらのことは、みな上に立つ者のわきまえがなく、決断がないことからおこるものである。』と人命尊重の重要性を述べる。

この「温治政要」は藩士に配られ、この政策に基づいて尾張藩で次々と政策が実行された。吉宗の奢侈禁止政策に反抗するように華美と派手を推進して、吉宗が禁止した芝居や相撲の興行も許可、名古屋城下は異例の活況を見せ、文化が興隆して、消費が拡大し、名古屋はわずか数年で江戸・大阪・京都の三都に次ぐ規模にまで人口・経済が急成長、日本第四の都市としての地位を確立し、後の大都市名古屋の基礎を築いた。

だが、絶対権力の確立を図る吉宗は自身を批判してはばからない宗春への反撃を開始する。享保十七年(1732)閏五月、「温治政要」を禁書としたのを皮切りに、同九月には宗春に幕府が定めた倹約を行っていないなどの詰問の使者を遣わせる。これに対して宗春は、将軍は御三家と同格だとして突っぱねる。この主張は宗春にも理があるのだが、将軍職を頂点とした権力の再編を目指す吉宗の方針と真っ向から対立する観念でもあった。さらに吉宗の詰問に『倹約とは、他の大名がおこなっているように、重税をとって庶民を苦しめることではない。』と痛烈な返答を送り、両者の対立は先鋭化の一途を辿った。

しかし、消費拡大と規制緩和の政策を推し進める宗春のネックが藩財政の赤字であった。就任前に一万三千両の黒字であった藩財政は就任翌年の享保十六年(1731)には二万七千両の赤字に転落、以後赤字基調が続いていた。一方で名古屋城下は好況に沸いており、財政赤字の拡大に経済成長による税収増が追いつけるかどうかが問題である。これを吉宗は見逃さない。吉宗は財政赤字を理由に尾張藩の重臣を次々と説得、宗春包囲網を密かに築く。元文三年(1738)六月九日、宗春が江戸に滞在していた隙を突いて、吉宗に寝返った重臣たちが主導して尾張藩評定所名で藩政を宗春以前に戻すという触れを出した。事実上のクーデターである。宗春は失脚し、以後死ぬまで軟禁生活を余儀なくされた。さらに彼が謹慎を解かれるのは天保十年(1839)、死後半世紀以上経過してのことであり、名誉回復は幕府滅亡後のことになる。

幕府権力の大幅な縮小と規制緩和、経済自由化、消費拡大による民生の活性化という、もう一つの解は潰えたが、宗春の改革は庶民の間で理想化されて語られることになる。幕府の強権や悪政に対するプロテストのアイコンとして徳川宗春の名は様々な幕府批判の書物で繰り返し登場、失脚後百年あまり、江戸幕府の滅亡まで歴代将軍・幕閣は宗春の名を常に意識させられていく。

ここまで2013年に書いた記事

ここから少し補足とか訂正とか

吉宗の改革というのは徳川支配の延命と再編成という強力な一定の成果を残した行政改革であって、それは民衆の抑圧の上に成り立っている。だから彼の死後、大きな反動が起きて一揆が各地で頻発、混迷する社会の安定化に力を発揮して台頭した新進官僚が田沼意次であった。家重時代というのは吉宗の尻拭いをして幕藩体制を再び安定コースに乗せた時代として再評価されなければならない。一方で、田沼意次などポスト吉宗時代の政治家たちは吉宗が抜擢した家臣団の中から登場してきており、そういう点で吉宗時代と連続性がある。吉宗から田沼時代までを一連の流れで見るという見方が有力になってきているのである。

徳川宗春については、当時としては非常に開明的な政治思想を持っており、尾張名古屋興隆の基盤を築いたことは確かだが、上記で書いた「財政赤字の拡大に経済成長による税収増が追いつけるかどうか」の問題の解を当時持っていたかという点で疑問符がつく。なにせ石高制が基礎としてあるのだから、いくら貨幣が流通しようとそれを藩財政に直結させる仕組み自体新しい試みになる。その模索が田沼意次時代に始まるわけで、宗春は確かに先駆者ではあっても、改革者となれたかはなんともいえない。ただ、この吉宗路線と宗春路線の対立はその後も松平定信と田沼意次、水野忠邦と遠山景元ら都市行政官僚という対立と形を変えながら江戸の経済政策の大きなテーマになっていくので、一方的にどちからか失敗者だとかどちらかが悪だとかの二項対立で論じるのではなく、日本近世・近代史の中に位置づけて評価すべきではなかろうか。結局石高制の呪縛、徳川幕藩体制という限界を超えられなかった帰結としての明治維新であり、徳川時代から受け継いだ財政政策の限界を宿痾としていたがゆえの帝国建設とその崩壊であったわけで。

また、ツイッターのつぶやきもぺたり

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このあたりの近世近代経済史を社会史から概観する記事が書けると面白い記事になりそうなんですが、問題は切り口にするヒト・モノ・事件ですなぁ。十年以内ぐらいを目標にブログに書ければいいですね。

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