「「空気」の研究」山本七平著

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
山本 七平
文藝春秋
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kindle版

「空気」の研究
「空気」の研究
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文藝春秋 (2013-06-07)
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現代の日本で我々を支配する”空気”の正体を考察した山本七平の代表作。
「空気」とは何かについて考察した『「空気」の研究』、
その空気を溶解させる水を差すという行為について考察した『「水=通常性」の研究』
空気と水の関係の背景にある日本的思想について考察した『日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について』
の三部からなっている。

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『「空気」の研究』

日本社会には「空気」という非常に強固な判断の基準があり、かつて第二次大戦中、無謀であるとわかっていながら戦艦大和を出撃させて海軍力を失い、あるいは戦後公害問題では自動車そのものを悪としたり、その空気によって時に日本社会は致命的なまでの状況に追い込まれることがある。その空気とは一体何か。
「対象と自己、第三者との区別がなくなり、その状態を絶対化して、その状態を阻む障害、または阻んでいると空想した対象を悪として排除しようとする心理状態」=「感情移入の絶対化」によって「物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちのその影響を受けるという状態」=「臨在感的把握」が生まれる。
そして、

あらゆる方向に臨在感的把握を絶対化する対象があり、従って各人はそれらの物心によりあらゆる方向から逆に支配され、その支配の網の目の中で金縛り状態になっている。

つまり、西欧の一神教的社会のように絶対的な規範の下で全てが相対化された社会ではなく、その都度、個々の状況で絶対化される対象が生まれて、一時的に我々を拘束して消えていく。その繰り返しが我々の社会であり、「空気」の支配のメカニズムであると山本七平は言う。

われわれ日本人の世界には原則的に言えば相対化はない。ただ絶対化の対象が無数にあり、従ってある対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変わりうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる――ただし、うまくやれば――世界なのである。
それが絶えず対象から対象へと目移りがして、しかも移った一時期はこれに呪縛されたようになり、次に別の対象に移れば、前の対象はケロリと忘れる

耳が痛いが的確な洞察だと思う。
では臨在感的把握によって生まれた空気に支配され右往左往するだけなのかというと、日本には「水を差す」という知恵もあった。その水を差すということについて次章で解説している。

『「水=通常性」の研究』

空気が醸成されている中で、例えば具体的な目前の障害など、現実を語ることで、その空気が消え去ることがある。その行為を「水を差す」と言うわけだが、現実という水を差されることで空気の支配から自己の「通常性」へと帰ることが出来る。
しかし、水は絶えず差し続けられ、どんな思想も制度も変質して日本と言う風土の中に吸収されていく。その水の連続が「雨」となっていわば現実を形作る。水を差すときの現実とは現時の情況の指摘であり、永続的に通常性を成立させている基本的要素とは、情況論理と情況倫理であるという。
情況論理とはその作り出された情況に対する対応について客観的に説明出来る論理のことであり、情況倫理とは作り出された情況に対する対応の正当性を西洋のような絶対的な尺度による固定の倫理ではなく、その時々の情況に応じて人間を基準に判断することであるといえる。「その情況ならやむを得ない」というような言い回しにあらわれる。
本来あるはずの情況を創出した責任は問わず、「人間は一定の情況に対して平等かつ等質に反応するものと規定」する。
そもそも、西欧のように「人間を基準にしない規範や倫理を作り出す伝統がないので、人間を基準とした日本的平等主義」であり「尺度の基準である人間に同一性を求め」ている。
しかし、

日本的情況倫理はそのままでは規範にならない。
その支点に固定倫理がなければ規範とはならないから情況倫理の一種の極限概念が固定倫理のような形で支点となる。

人間を尺度とした極限概念、それが「一人の絶対者、他はすべて平等」の原則となるが、この絶対者も情況を創出するだけの役割でしかない。
その結果、創出された情況に応じて臨在感的に把握するしかなく、空気が生まれていく。
この基礎となるのが日本の儒教思想で父と子の隠し合いの関係性によって、”一蓮托生、罪九族に及ぶ”がさらに拡大された連帯責任の社会、いわば集団倫理の社会であり、日本的情況倫理の基盤となっているとしている。
実際のところ、儒教思想が日本の基盤の思想になっているかというところは、読んでいても個人的に疑問が多いところで、山本七平本人も書いているが、「徳川時代には封建諸侯への臣従を絶対化するイデオロギーであった」儒教思想が「明治以降はこれが極限まで拡大され」たとしても、それが「わずか三十年で、日本人をエレミヤ→イエス的規範で律することが不可能な」ように、日本国民全体の思想として浸透するのは難しいのではないかと思うわけです。
ただ、導き出される指摘は確かに納得できるところ多くて、確かに日本的情況倫理という側面は大いにあるだろうなぁと思う。
そして、『「空気」の研究』『「水=通常性」の研究』という二つの考察から山本七平は日本社会の本質について以下のように定義する。

「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」でありそれが体制となった「虚構の支配機構」だということである。

この秩序を維持しようとするなら、すべての集団は「劇場の如き閉鎖性」をもたねばならず、従って集団は閉鎖集団となり、全日本をこの秩序でおおうつもりなら、必然的に鎖国とならざるを得ない。

そして、水を差す自由が無かったために第二次大戦の破滅を招いたと当時の人々は考えた。つまり、戦後言われた「自由」とは「水を差す自由」の意味だが、その「水」とは「現実」のことであり、その「現実」=「通常性」もまた「空気」醸成の基であることを忘れていた。

日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない「父と子の隠し合い」の世界であり、従ってそれは集団内の情況倫理による私的信義絶対の世界になっていくわけである。(中略)そしてその基本にあるものは、自ら「情況を創設しうる」創造者、すなわち現人神としての「無謬人」か「無謬人集団」なのである。

自由と言いながら「結局は空気と水しかない」と結論付けています。

『日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について』

当時カーター大統領の出現によってアメリカのファンダメンタリストが注目され、それに対して日本のファンディ(根本)の正体を探求した論文。前二章を踏まえた今読み返すと的確な未来予測になっていて、とても興味深い。
アメリカ建国神話の研究からアメリカが聖書を絶対としていた人たちによって作られた、「アメリカ的神政制と合理的民主制と千年至福的熱狂主義と市民革命と道義外交とが奇妙に混合し」た、「超倫理主義」の歴史を辿って「合理的万能信仰」を生み出していったとしていて、それに対する日本の社会について、以下のように書いている。

日本には一神教的な神政制は存在しなかった。そしてわれわれは、先祖伝来ほぼ一貫して汎神論的世界に住んでいた。この世界には一神論的世界特有の組織的体系的思想は存在しなかった。神学まで組織神学として組織的合理的思考体系にしないとおさまらない世界ではなかった

として、日本のファンディを新井白石の伝統にならった伊藤博文が西欧の根本主義者が分かちがたいと考えていた「聖書絶対と合理性」を分離して合理性だけ日本に導入し、並存させるという路線に求めた。
これは慧眼だと思う。その後も様々な人たちが指摘するように、この二重構造が現代の日本を規定しているのは間違いないと僕も思います。
そして、ここから山本七平の凄い洞察が始まる。
戦後の日本人の意識は大きく二期にわけられるとして、以下の二期を定義する
終戦時~六十年安保:「暮らしは低く、思いは高く」
六十年安保~   :「暮らしは高く、思いは低く」
これが書かれたのが1970年代後半ということを考慮に入れて以下の文章を読むと、凄いと思う。

この意識の「正」と「反」の次は「合」であり、「暮らしも思いもある程度高く(低く?)」という状態になるであろう。(中略)そしてこの「合」が、新しい非合理性の打撃を受けたとき、国内の一切の勢力は、本当は「何をしてよいのか一切わからない」という状態になり、その非合理性は、制御なきままに、どこかへ走り出す。(中略)そのためすべての機構は、何ら作動し得ない虚構のまま、ただ右往左往せざるを得ない。

そして、「非合理的絶対が生み出す力を輸入の合理性が制御し得ていない」「と感じたとき、まず出てくるのが、輸入の制御装置を絶対化することにより、あらゆる面でこの”力”を圧殺し封じ込めようという行き方である。」
「「空気」による極端な転化から、「水」による再転化へと二転三転し、」三転、四転したあとには

自らがその力を失い「”思い”と”暮し”が乖離していない」平穏状態、というより停滞状態に入り、鎖国的社会が再現されるであろう。

まさに凄い洞察力だな、と読みながら思いました。
そして、日本社会の根本主義(ファンダメンタリズム)とは、
「空気を醸成し、水を差し、水という雨が体系的思想を全部腐食して解体し、それぞれを自らの通常制の中に解体吸収しつつ、その表面に出ている「言葉」は相矛盾するものを並存させて」おいて矛盾を感じない思想であるとしている
その体制は情況を臨在感的に把握して、その情況に支配されつつ、瞬間的に情況に対応していくが、将来の情況を言葉で構成した予測には対応出来ない。

「人は未来に触れられず、未来は言葉でしか構成できない。しかしわれわれは、この言葉で構成された未来を、一つの実感をもって把握し、これに現実的に対処すべく心的転換を行うことができない」

という欠陥を持っている。情況が現実のものとして現われないと対応出来ない社会だという。
しかし、

「否応なく未来の予測を必要とする集団」たとえば企業などは、自らを一種の鎖国状態におき、その密室内だけで、自らの内で通用する言葉だけで自己の未来を構成し、その構成された未来と現状との間で事を処理する傾向を生んだ。(中略)おそらく日本は、その能力をもつ集団ともたない一般人の双方に分かれていくであろう。

新しき士大夫がすべてを統治して「民はこれに依らしむべし、知らしむべからず」の、儒教的体制へと戻っていくであろう。そして戻っていくことを、心のどこかで人びとは半ば認め出したのではないかと思われる徴候もある。

というある面において、今を言い当てたような予測をしています。
70年代末の、まだまだ会社が全てな時代の考証なだけに、会社絶対主義的な面はあるのですが、全体像として必ずしも遠くないように読めました。
21世紀初頭の日本社会は空気と言う言葉が最前面に出て支配者として絶対的に振舞っている訳ですが、その空気の支配の過程で、確かに空気に左右される人々と、未来を言葉で構成する人々との分化、また社会的停滞状態が進みつつあるようにも感じます。
ただ、最後に山本七平が提起した疑問

これに対して「自由」はいかなる位置に立ちうるのか。

この「自由」が確かにキーワードなのでしょう。それは水を差す自由である以上に、個々が未来を言葉で構成し、未来と現状の間で事を処理する能力を身につけることが出来るようになる「自由」なのではないか、と思います。
そして、その自由を行使できる鍵は「WEB」と「物語」ではないか。という思いを最近強くしています。これについてはちょっと別途考察したいと思います。
「空気」についての理解を深める以上に、今を考えるのに最適な一冊でした。

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