日本は1000年以上若者の非行に寛容な社会だった

かつての日本は若者の非行に寛容な社会だったようだ。
村々では若者組と呼ばれる十五歳~二十五歳ぐらいまでの男子で成り立っている集団が広く存在していた。そして若者宿と呼ばれる若者たちの集会所が村の中に提供され、村の警備活動や神事、婚姻の仲介や段取りなどを行っていたが、時にその若者組が集団で大暴れすることもあったという。

「暮らしの中の文化人類学」(P165~166)
戦前、自分たちの行動をうるさく言ったり、若者に酒手を充分はずまない家から、夜分こっそり石臼を持ち出して遠くの田の中に捨てたり、天水を溜める水がめを持ち出して、火の見やぐらの上に持ち上げるなどしたという。家の者は困って酒代を払って、青年たちに再び元の所へ持って来てもらわなければならなかった。(中略)
ところが面白いことに、盛んに「非行」をしていた若者達が若者組を退会すると、すっかりそれらの行為をやめてしまうのである。(中略)
つまり、若者組の「非行」や横暴は、やっている者たちにとっては真剣で本気なのだが、客観的に見ると「制度化」された「非行」であり、若い時期に何をやろうと、後あとまでその人の人生に傷を残すことにはならなかったのである。そして、若者宿は、思春期の子どもを、ある時期だけ、枠はあるとは言いながら、家族からそして村落の厳しい規制から切り離す役割をし、一方では一人前のムラの成員として育ってゆくための修養をさせながら、他方では限度ギリギリまで、社会的なルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供したことになる。

暮らしの中の文化人類学 平成版
波平 恵美子
出窓社
売り上げランキング: 546,084

また網野善彦の異形の王権でも平安時代の子供、若者はかなり自由にある種アンタッチャブルなものとして扱われていたとしている。

「異形の王権」(P55)
童たちは飛礫を打ち、人を凌礫し、互いに闘乱するなど、まさしく「大人たちの統制」から外れ、「誰にも拘束され」ず、「天衣無縫」に動き廻って、検非違使たちを東奔西走させており、(中略)殺生禁断を犯して魚を取ったため数日の間拘禁された童部たちが免ぜられたことも記されている。

異形の王権 (平凡社ライブラリー)
異形の王権 (平凡社ライブラリー)
網野 善彦

若者(童は子供の他、童の格好をした童形も含む)たちは自由に非行、時には大暴れしながら、ほとんど罰せられていなかったようだ。

中世でも同様だったようだし、少なくとも平安時代~昭和30年代ごろまでは日本社会はどうやら、若者の非行はある程度止むを得ないと考えて、(勿論、その時々の政権は取り締まろうとはしていたようだが)許容するような体制だったと思われる。で、例えば若者の犯罪が増えているとマスコミが強調したりするところの遠因は、そういう若者のそもそもの非行を許容しない体制に移行しつつあるということが背景にあるんじゃないかなと。

「暮らしの中の文化人類学」(P166)
家庭でも学校でも、子供は監視や干渉や保護はされても、かつての若者たちのように適当につき放し、勝手に振舞わせ、しかし、自分たちの立場や役割は絶えず意識させておくというようなことはない。そのような機能を備える集団は、今の都市社会のどこにもないのである。(中略)若者宿は若者たちがそろってうち込めるような「非行」も教えてくれるが、同時に社会の一人前の成員となった時の技術や知識や生きていくうえでの知恵を教えてくれる先輩がいた。

「日本はなぜ諍いの多い国になったのか」(P232~233)
かつての地域社会や年長者は「限度ギリギリまで、社会的ルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供」しました。他方、現代の年長者はそのような時代が存在したことを忘れ、「社会的なルールを無視する」若者の行為を、予定調和を乱す「リスク」「コスト」としかみなさなくなったのです。

若者の非行は「止むを得ないものとして許容する体制」がおそらく1000年以上続いてきて、現代は「発生してはならないとして許容しない体制」へと移行しつつある、あるいはそうなっているという認識で間違いないのではないかと思います。或いは平安時代のやりたい放題から江戸~昭和初期にはコントローラブルな制度化に組み込んできた訳で1000年かけて若者の非行を減らそうとしてきたといえるのかもしれません。

そういう社会背景で、いくら発生件数が下がっていようとも、一件たりともおきてはならないというような意識になって、若者の犯罪を喧伝するマスコミだったり、それに同意する人々があるんだろうな、と思う。

若者が暴れたりあるいは犯罪を犯すのは、被害者になりたくないですし、関わりくないので、無いに越したことはないのですが、そもそも発生しないようにすることは可能なのだろうか。ほんの50年程度前まで若者が社会的ルールを無視する行為を許してきた社会を続けていたのに、許さない体制へと転換することは果たして現実的なのか、という視点で考えることは重要だろうと思うが、今のところ僕はよくわからない。どうなのだろう。

社会ルールから或る程度逸脱しても許す社会か、社会ルールからの逸脱を許さない社会か、そして許すとしたらどの程度まで許すか、という論点はあっていいように思うのだけど、そういう話自体タブーなところあるなぁと思う。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク