お年寄りを山に棄てる「姥捨て」はただの伝説。実は無かった。

先日読んだ「暮らしの中の文化人類学 平成版」によると、一定の年齢に至った老人を山に棄てるという棄老、俗に言う姥捨てなど「制度化された老人の遺棄はないと考えられている。」とあって、へぇ~と思いました。理由は以下の四つ。

1)棄老伝説は「かつては老人を捨てる風習があったが何かのきっかけで今はやっていない」という形式であること

伝説が歴史的事実を語ることもあるが、しかし単純に事実を語ることはまれであり、むしろ様々な屈折を経た表現で語られる。棄老伝説が人々に語る内容は、「かつては老人を捨てたが、ある出来事をきっかけに老人の持つ知恵や知識に助けられることが多大であることを悟り、労働力として役に立つことが少ないという理由で老人を捨てることの愚を知って、棄老の習慣をやめた。したがって今は老人を大切にする」、という形を取ることが多い。このような話は実は逆のこと、つまり過去においても決して老人を捨てるようなことはなかったし、現在も今後も、人間としてそのようなことをしてはならないと人々に伝えているとも解釈される。さらに言うなら、老人を抱えてもなお生存が可能なように技術や制度を発達させてきたことによって人間の社会は成り立っていることを、屈折した表現によって人々に教え示唆しているとも考えられる。

棄老伝説いろいろ

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/7211/Japanese/ubasutej.html

http://ed.city.kasama.ibaraki.jp/~kasamaj/minwa/ue/minwa3.htm
http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1026585333533/index.html
http://www.jyofukuji.com/06kokoro/2004/08.htm
ネットで色々探してみるとどれも確かに、かつてはやっていたけどお年寄りの大事さがわかってやめている、という形式ですね。どうやら仏教説話が元ネタらしいです。

姨捨山 – Wikipedia
史実には続日本紀(768年)に、朝廷から褒美を得た全国9人の内信濃国は4人の名が上げられていて、その内の更級郡の建部大垣が親孝行を理由とされている。この噂話に棄老を戒める仏教の説話が物知りによって付け加えられて姨捨伝説が定着したものと考えられる。

2)そもそも高齢者は少数であったこと

生産性が低く食糧事情の悪い社会では、老齢まで生きる人は極めて少ないことが観察されている。そして高齢になるまで生き残った老人たちは死ぬまで壮健で、労働力としてまったく役に立たない状態になって長く生きていることはない。まさに枯れ木が倒れるように死ぬ。したがって、数少ない老人の食料をわずかでも惜しむような事態はめったなことでは起こらない。

3)農業主体の生業形態の場合、老人の手を借りる作業は数多くあったこと

自分の食料は自分の手で手に入れる狩猟採集のような生業形態ならともかく、農業を営み、食料を自給自足している社会での仕事は多種多様で、実際老人の手を借りなければ働き盛りの男女は毎日の食事にたいへんな不自由を強いられることになる。あるいは、田畑での労働時間のかなりの部分を、食料調整(脱穀する、粉にする、アクを抜く、筋や皮をとるなど、食料を料理する前の段階での準備)のために割かねばならなくなる。雑穀にしろ野菜や山菜にしろ口にするまでには手がかかり、食料をわずかな手間で口にできるようになったのは、既製品の食材を購入するようになったつい最近のことである。食料調整の手仕事などに老人はなくてはならない存在であることが多い。

4)一定年齢で死を強いるという制度は、社会的に成立し難いこと

一定年齢に達したら必ず死を強いられるような制度がもし存在したなら、人間からの生存の希望や活力を奪うことになり、心理上からも、人間の社会や文化の成立の仕組みからも、そのような制度が存在したとは考えられない。制度化された棄老と近世の日本でも実際行われた新生児を殺す間引きとは、同じように生きている人間に死を強いることであっても、その意味するところは異なる。老人の場合は子供を産み育て、社会の成員として長年貢献してきただけでなく、周囲の人々との関係を通して様々な記憶を周囲の人々に刻みつけているから、人々に与える影響はたいへん大きい。

なるほど。確かにイエを重視するこれまでの社会だと、姥捨というのは考えにくいですね。飢饉など特殊な状況下以外で、棄老の制度があったという資料は無いのかな。

逆にいうと、「自分の食料は自分の手で手に入れ」、「老人の手を借りなければ働き盛りの男女は毎日の食事にたいへんな不自由を強いられ」ないような、また、老人の知恵と経験に重きを置かない価値観の社会では、棄老に近い状態が生まれる可能性はあるのかもしれませんね。

変化が激しく、過去の経験が陳腐化・無力化しやすく、自分の食料は自分で手に入れる事が重視される社会。なるほど。これまでの歴史上、心理的に姥捨的状況が生まれやすい時代になっているのかもしれない。それゆえに老いは恐怖となっているのかな。働いて稼ぎを得ることに価値観が置かれ、そして自身の経験は陳腐化していくのであれば、働けなくなり、そして尊敬も得られなくなる老いは恐怖でしかない。老いという側面で言うと姥捨的時代が現代なのかも。

老いると棄てられる時代は、人々から希望や生きる活力を奪います。

参考サイト
姥捨て山って、昔、本当にあったのですか? それとも迷信などの類ですか? – Yahoo!知恵袋
「姥捨て」の証拠ってありますか? -OKWave
姨捨山 – Wikipedia

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