徳川家茂がもっと評価されるべき9つの理由

Wikipediaの徳川家茂のページ見てたらステキエピソード満載だったので紹介します。タイトルはホッテントリメーカーから→徳川家茂がもっと評価されるべき9つの理由 5users(推定) – ホッテントリメーカー

徳川家茂

徳川家茂 – Wikipedia
・家茂はわずか20年の生涯であったが、幕末の動乱期の中をその若さで潜り抜けていることは高く評価されている。勝海舟からは、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価されている。
・幕臣からも信望が厚かったと言われ、家臣や女性や動物たちに至るまで非常に優しい態度で接する一方、剛毅な一面を持つ人柄が明治後に旧幕臣たちなどからさまざまな逸話で伝えられている。
・幼少の頃は池の魚や籠の鳥を可愛がるのを楽しみとしていた。しかし13歳の時に将軍として元服すると、それらの楽しみを捨てて文武両道を修めるように努めた。病弱な体なのにささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていた姿は幕臣たちを当時も没後も感激させたという。
・幕臣戸川播磨守安清は書の達人として知られた。そのため70歳を過ぎた老人ながら、推されて家茂の習字の先生を務めていた。ある時家茂に教えていた最中に、突然家茂が墨を摺るための水を安清の頭の上からざぶりとかけ、手を打って笑い、「あとは明日にしよう」と言ってその場を出て行ってしまった。同席していた側近たちがいつもの家茂にも似ぬことをすると嘆いていると、当の安清が泣いていた。家茂の振る舞いを情けなく思ってのことかと尋ねると、実は老齢のため、ふとしたはずみで失禁してしまったと安清は言った。当時の習慣として将軍に教えている真っ最中に尿を漏らしたとなると厳罰は免れないので、それを察した家茂は水をかけるいたずらでその失敗を隠し、「明日も出仕するように」と発言することで不問に処することを表明したのである。その細やかな配慮に感激して泣いているのだと答えたという(安清の親戚だった戸川残花が「幕末小史」の中に記している)。
・文久3年(1863年)4月、家茂は朝廷に命じられた攘夷実行へのデモンストレーションとして、大阪で幕府の軍艦順動丸に乗って大阪視察を行っている。この時順動丸を指揮していた勝海舟から軍艦の機能の説明を受け、非常に優れた理解力を示した。その折に勝から軍艦を動かせる人材の育成を直訴されると、即座に神戸海軍操練所の設置を命令した。さらに同年12月に上洛の際、勝の進言を容れて順動丸を使うことを決断した(その理由として前回の上洛において往路だった陸行では22日を要したのに対し、帰路順動丸を使った時にはわずか3日で江戸に帰れた事実がある。そのカルチャーショックが勝への信頼感へつながったとする説がある)。さらに航海の途中で海が荒れて船に酔う人が続出したため、側近から陸行への変更を奨められたが、この時「海上のことは軍艦奉行に任せよ」と厳命し、勝への変わらぬ信頼を表した。これらの信任に勝は深く感激し、家茂に対する生涯の忠誠を心中深く誓ったという。家茂の死にはショックと絶望のあまり、日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記したほどである。その後も徳川家の保護と存続のため、気が合わなかった慶喜の助命に奔走し、晩年に至るまで徳川家の存続と名誉回復に尽力し続けた。晩年の勝は家茂の名を聞いただけで、病弱な体で激動の時代に重責を背負わされた家茂の生涯に「お気の毒の人なりし」と言って目に涙を浮かべたという。
・慶応元年(1865年)、兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰されると、その報復としてか、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申している。このとき孝明天皇は大いに驚き、慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉をしないと約束したという。
・ヨーロッパにおける絹の産地として知られたフランス・イタリアでは、1850年代にノゼマと呼ばれる原生生物が原因とする蚕の伝染病が流行し、両国の養蚕業は壊滅状態になった。これを知った家茂は、蚕の卵を農家から集めてナポレオン3世に寄贈した。フランスではルイ・パスツールがジャン・アンリ・ファーブルの助言を元に、日本の蚕を研究して病気の原因を突き止めるとともに、生き残った蚕同士を掛け合わせて品種改良を行った。
・文久2年(1862年)に公武合体策の一環として和宮と結婚。政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど非常に気を遣い、2人の関係は良好であった。徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲がよいといえたのは家茂・和宮であったといわれたほどである。
・墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。これまで家茂は義兄の孝明天皇に倣い写真は撮影していなかったとされていた。死の直前に大阪で撮影されたものと推定され、江戸にいる和宮に贈ったとみられる。発見の翌日に再度写真を検証しようとすると画像は失われており、そこにはガラス板があるのみだった。

徳川歴代将軍の中でもずば抜けて良いエピソードしかないところがすごいな。欠点が体が弱くて甘いもの食べすぎぐらいしか書かれてない。一生懸命職を全うして、人柄も良く、若くして夭折したような人は日本人は大好きですね。このエピソードの数々読んだら確かにグッと来るもんなー。和宮の墓所から写真発見→紛失のエピソードなんて、そんじょそこらの純愛ドラマ顔負けですね。映画化でもしたら製作者は100人が100人これをラストシーンにもってくると思う(笑)

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