誹謗・中傷がタブーになるまでの日本の1000年の歴史をざっくりと

誹謗中傷は禁止されるべきか
ただ、そもそも禁止されるべき、というのがどのレベルで決まってるのかなあというのは謎です。「神様(造物主)が誹謗中傷を禁じたんだ」というレベルだとしたら、「じゃあ神様が人間に誹謗中傷機能をつけたのは何故だ」ということになるから、もっと下のレベルでの話だとは思いますが。
この辺は電車内で携帯電話を使うなとか、最近は化粧も禁止されてたりするんですけど、それに近い、なんかこうもやもやしたものを感じます。

この辺りの背景には日本の武士の歴史が大きく影響していると思います。以前読んだ「〈悪口〉という文化」という本に詳しかったのですが、今手元に無いのでざっくりと書くと、かつて平安時代末期に勃興した武士階級では悪口の言い合いは即決闘につながり、至る所で決闘が行われていました。鎌倉幕府が開かれても、武士たちのちょっとした言い合いがすぐに血で血を洗う決闘に繋がっていたため、悪口を禁じ、悪口は幕府が法廷で裁くという決まり(御成敗式目)が制定されます。それでも武士同士の悪口は収まらずしきりに誹謗・中傷から決闘に至ったり、裁判が行われていたようです。その後、歴史を経るにつれて武士同士の争いは為政者の裁きによって決着するようになります。誹謗中傷などの対処は悪口を言ったもの、言われたもの同士の直接のやりとりから、1000年かけて為政者が管理し、裁くものへと変えてきたのが日本の法制史の一側面だと思います。

武士階級以外では血で血を洗う決闘、という事態はあまり無くて、悪口祭(Kousyoublog | コミュニティの秩序維持機能としての悪口祭)、江戸の喧嘩(Kousyoublog | 江戸の華と言えば喧嘩だが実はほとんど口喧嘩だけで決着した)など丸く治める知恵みたいなものが主流でした。名誉を重んじる武士と、世間を気にする庶民という二つの文化だったのではないかなと思います。

しかし、明治維新が大きなターニングポイントで、明治維新で身分制度が廃され、明治民法によって旧来の武士階級の家族制度を真似た家制度が全国民に導入、国民皆兵、学校教育制度の整備、さらに旧武士階級出身の福沢諭吉によって個人主義が輸入され「学問のすすめ」が大ベストセラーになりました。(人口3000万人程度の当時、300万部も売れたとか)

ほんとはこわい「やさしさ社会」」では大正デモクラシーの時期に「自分」(人格)の重視という意識が高まったとしていました。その後第二次大戦の敗戦によって、旧来の家制度は解体され、古い宗教的価値観も否定されます。

武士的な名誉を重んじる風潮と人格の重視という意識が日本社会に浸透した中で、個よりも重視された国家や世間や家などが否定され、個人こそ最も価値のあるものという価値観になります。旧来の家制度など共同体の崩壊は65年ごろだと「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」では書かれています。それでも、崩壊した家制度に代わって、共同体の役割を果たしていたのが会社だったと僕は思うのですが、その会社も徐々に重要ではなくなっていきます。

明治維新から現代までの歴史を通して、我々は完全に「個人」を重んじることに価値を置くようになりました。そして、宗教が力を失った今、「人生は一度きり」という思想が主流を占めています。「人生は一度きり」なので「無駄にしたくない」という欲求が働きます。さらに、一度きりの人生なので傷つく、傷つけられることに敏感になります。

武士的価値観の元で名誉を重んじ、また、人格を神聖なものと考え、傷つく/傷つけることに敏感なので、人格を傷つける誹謗・中傷は恥辱として決して許されるものではない、と、明治維新以降150年かけて日本人は意識を変化させてきました。

どのレベルで決まっているのか、という問いには、日本社会の変化の過程で自ずと誹謗・中傷に繋がる悪口をタブーとして禁じることが決まってきたと言えると思います。神聖なる人格を傷つけるなどとんでもない!という意識を醸成させてきたわけですね。「人生の自己目的化」という観点で言うと欧米社会よりも日本は進んだ個人主義の社会になったと言えると思います。欧米社会ならばキリスト教徒としてなど宗教や地域などの多様な共同体や価値観を生きる目的にしますが、日本は様々な共同体を解体させてきた結果、自分の人生を生きる以外に目的が無いため、(昨今のスピリチュアルブームや自己啓発もこういう背景があると思います)この傾向はますます強くなるのではないかと思います。まぁ、悪口は好まないので悪口をいえないことに対しての苦労は無いのですが、傷つけない振舞いを重視され、人の顔色を窺うこと(=空気を読む)に汲々とする今の状況は正直息苦しい。しかし、こればっかりはいかんともしがたいなぁと思います。

ただ、過去に学ぶことで上手くバランスを取ることが出来るのではないかなという思いもあります。かつて、武士ではない庶民たちは悪口祭(Kousyoublog | コミュニティの秩序維持機能としての悪口祭)というイベントを各地で開催していました。公の場では誹謗中傷は決して許されませんが、匿名の、ローカルなルールを共有するグループ・集団内で悪口祭や無礼講の本音を言い合うイベントを行う、つまり、秩序維持を目的として一時的に人格の神聖性を取り払って、ワッ!とやることも必要なんじゃないかなぁと思う今日この頃です。とは言え、今の社会状況では悪口とは言わずとも本音を言い合う、というようなレベルでやるのも困難が大きそうです。

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〈悪口〉という文化
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山本 幸司
ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書 74)
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森 真一

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