僕にとっての散歩とは何か、について

今日は副都心線に初めて乗った。渋谷から西早稲田へ。諏訪神社参拝の後、学習院女子大の右手に沿って戸山公園箱根山地区へ。東京二十三区最高峰の箱根山登頂。その後、穴八幡宮参拝。早稲田大学の間を抜けて大隈庭園に行ってみるがお盆のためか閉園。早稲田通りへと戻り、早稲田通りを東西線に沿って神楽坂方面へ歩く。ムワッとした暑さだが、さほど疲弊せず、快適に歩ける。そのまま神楽坂へと出て、神楽坂下へ抜け、飯田橋駅を横目に九段下まで歩く。てくてくと。九段下駅から地下鉄に乗って帰宅。距離にすると6~7キロ程度。まずまずの充実感。猫との出会いは箱根山で一匹。しなやかな肢体と魅力的なキャッツアイの持ち主だった。写真を撮り、お礼を伝えて静かに立ち去る。

早稲田通りを歩いていると、落馬地蔵尊というお地蔵様が道端に奉られていた。あっ、と思って前後を見渡す。それまで平らだった道が丁度数歩手前で弧を描いてゆるやかに下り坂になっていた。こういう地形の変化は幾分敏感な方だと思っていたが、「落馬」の文字を見るまで気付かなかった。同じように、この緩やかな、しかし突然の下り坂への変化に気付かず、あるいは気付いた時には既に遅く、多くの人馬がこのあたりで落命したのだろうと思う。少しひりひりした。

歩いてみるとこのあたりは道沿いにまっすぐ歩くのでも意外と起伏に富んでいて面白い。ゆるやかに、あるいは急にアップダウンする。タモリは「タモリのTOKYO坂道美学入門」で坂の魅力を位置エネルギーの変化にたとえていたけど、まさにそういう変化を実感出来ると思う。

下っているときは自己の存在を後ろに置いたまま、上っているときは身体よりも先に自己の存在があって、それに追いつこうとするような、そういう感覚。置き去りにする、置き去りにされる感覚の中で、周りの景色が移り変わっていく。そして、その風景の中に時の移り変わりも見え隠れして、自己の存在、今ある景色の流れ、今は無い景色の歴史、それらを文字通り体感することが散歩の醍醐味だよな。

村上春樹の「羊をめぐる冒険〈上〉 (講談社文庫)」の最後で、「目的性は名前に取っては二義的な要素で、名前の根本が生命の意識交流作業にある」という趣旨の会話があり、その後、主人公とガールフレンドは北海道へと飛行機で向かった。到着後の二人の会話を思い出す。

羊をめぐる冒険〈下〉 (講談社文庫)」(P14-P15)
「ねえ」と彼女が言った。「なんだか今ごろになって体が移動しているような気がしない?」
そう言われてみれば実にそのとおりだった。
(中略)
「やっぱり名前のついた乗りものに乗るべきだったのよ」

このくだりが、ずーーーーーーーっと、小骨のようにひっかかっていた。この「今ごろになって体が移動」を言葉に出来ないけれど実感として持っていたからだ。常に置き去りになっていたというか。散歩には、「今ごろになって」が無い。身体に存在が遅れている、あるいは先行している様子を歩いている間常に意識出来る。また、名前があり、過去があり、未来がある様々なものと次々と出会う行為でもある。一人で散歩することは孤独な行為に見えて、実は、徹底的につながりをもたらすのだという確信に近い認識を持ちつつある。とてもエキサイティングで、面白い。

二年ほど前に突如として散歩への欲求が芽生えたのだけど、その欲求はまさにこの存在確認という欲求だったんだな。今日、夏の陽射しを浴びながらやっと意味を把握出来たかな、という気がしたので文章として整理しておこうと思う。まぁ、アレなこと書いてる自覚はある。

そうそう、川に沿って歩く、という行為はまた少し別の意味を持つ。川についてはまた後日整理しようと思う。

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タモリのTOKYO坂道美学入門羊をめぐる冒険〈上〉 (講談社文庫)羊をめぐる冒険〈下〉 (講談社文庫)

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