江戸城にあった霊廟紅葉山東照宮という権力装置

そういえば天皇家は泉涌寺の檀家 – finalventの日記
 仏教徒というより、天皇家というのは、仏教の頂点でもあったはず。たしか、このあたり網野善彦が以前いろいろ書いていた。
 というか、このあたりの国家鎮護というか国家権力としての仏教も、近代の感覚からはわかりづらくなっている。

仏教の頂点という話で、以下推論なんですが。

気になるのは江戸城内にあった紅葉山東照宮の存在なんですよね。

貴重資料「紅葉山御宮御霊屋総絵図」
  紅葉山は江戸城内中央にある小山で、歴代将軍の霊廟が営まれた。また、その東北には具足蔵とともに、将軍の御文庫(紅葉山文庫)などの建造物があった。
  絵図で「御宮」とあるのは紅葉山東照宮のことで、初代将軍徳川家康の廟所にあたる。絵図では一ノ鳥居しか描かれていないが、一ノ鳥居、二ノ鳥居、勅額御門、唐門をくぐって廟所にたどりつく。2代将軍秀忠(台徳院)の廟所は、一ノ鳥居の正面奥にある「二十四日」と書かれた廟所で、これは秀忠の命日が二十四日にちなむものである。この二人の廟所は単独で造営されており、別格扱いであった。
  当初は、3代将軍家光以降の廟所も単独で造営されており、一の鳥居の手前右手の平地に家光、家綱(4代)、綱吉(5代)、一の鳥居の手前左手に家宣と順次造営されたが、6代家継からは合葬されるようになる。絵図では、「大猷院(3代家光、4月20日没)・文恭院(11代家斉、閏1月晦日没)・温恭院(13代家定、7月4日没)様」「厳有院(4代家綱、5月8日没)・孝恭院(家治3子家基、2月24日没)様 八日」「常憲院様(5代綱吉、1月10日没)・有徳院(8代吉宗、6月20日没、)様・浚明院(10代家治、9月8日没)様 十日」「文昭院(6代家宣、10月14日没)様・有章院(7代家継、4月晦日)様・惇真院(9代家重、6月 12日)様・慎徳院(12代家慶、6月22日没)様 十四日晦日十二日」と記されている。
  14代家茂の名がみえないことから、本絵図は家定の没した安政5年(1858)から家茂の没する慶応2年( 1866)までの間の作成と推定される。ただし、宝蔵は御具足倉が2棟、御書物倉・御鉄炮倉・御屏風倉が書く旨の計5棟が書かれているが、江戸後期には書物倉は4棟であったと伝えられるので、その点は今後検討する必要がある。
  なお、現在、紅葉山にあたる地は皇居内にあるので、上記の遺構を見ることはできない。

9010 承応度紅葉山東照宮に関する一史料

を見ると仏殿だったようなんですよね。

この紅葉山には徳川家康が関東移封時に山王日枝神社を移動させておきながら、江戸幕府開幕後の1604年、再度山王日枝神社を動かして紅葉山を空けた後、1618年に徳川家の霊廟が築かれている。

重要文化財(歴史資料)~江戸城造営関係資料(甲良家伝来)Q&A4
「明治元年十二月十九日朝廷徳川家達ニ命ジテ、紅葉山の霊屋ヲ撤セシム」

で、明治になるや否や(明治元年10月23日に改元)、霊廟は取り壊されている。家達は徳川宗家の第十六代。

この紅葉山東照宮で国家鎮護としての仏教の何か儀式が行われていたんじゃないかなぁ。かつて東照宮は全国に作られ、武士たちが参詣していたらしいですが、家康は神になったんじゃなく仏教の守護者的位置づけとして祀られた権力装置だったんじゃないか。仏教を背景にした権力の象徴としてあったんじゃないだろうか、と根拠無く考えているんですがどうなんでしょうね。

仏教の最高位に徳川家が居て、そのまま仏教を背景にした国家統治を行おうとしても徳川家より下にならざるを得ない。だから天皇家は伊勢神宮を持ち出して神仏分離を行うことになったんじゃないか。国家神道を、徳川型国家仏教に対するカウンターとして作り出さざるを得なかったんじゃないか。とつらつらと考えていますが、根拠はナッシングです。はてさて。

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