浅間山噴火のかつての様子

支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望
支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望

浅間山の噴火が話題ですね。昨日も私外出しておりましたが、火山灰が気になってしょうがありませんでした。なんか都内でも火山灰が降ったとか降らないとか。

浅間山は古くから活火山として関東地方の人々の畏怖の対象でした。画像は19世紀の初頭に美人画でならした浮世絵師渓斎英泉が歌川広重とともに書いた木曽街道六十九次から「支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望」です。もくもくと浅間山から噴煙が上がっているのがわかります。

史料に書かれた浅間山の噴火と災害」を見ると各時代の浅間山と周辺の様子が伝わってきます。

もっとも古い浅間山の噴火記録は,『中右記』に書かれた1108年8月29日前橋降灰の記述となる.1108年噴火(M5.1)は過去1万年間における浅間山最大の噴火だったことが堆積物の調査からわかっている.『中右記』の記述には,それを裏付けるように,この噴火が国家的大事として扱われたことが書かれている.

記述が結構リアル。

『中右記』は権中納言藤原宗忠の日記である.京都で書かれた.嘉承三年八月三日(1108年9月9日)の鳥羽天皇即位によって改元されて天仁元年になったのだから,この噴火の報告が京都に上がったのは天仁元年九月五日だが,この噴火が始まった七月二十一日はまだ嘉承年間である.
 上野の国で発生したこの事件が京都に伝わるのに一か月半もかかったという事実は,当時の交通事情を考慮しても遅すぎるように思われる.上野の国がいちじるしく混乱して京都への報告が遅れたのだろうか.
 浅間山の噴火を記述した部分を口語訳してみよう。1108年8月29日、前橋にあった国庁の庭に火山灰が厚く降り積もった。そのため上野国の田畑の多くが使用不能になった。これ以前の浅間山は、治暦年間(1065-1069)に噴煙を細く上げていたが、その後、かすかになっていた。9月28日に、京都で何度も鳴動があった。そして10月3日から11日まで、東方の空が甚だしく赤かった.
 『中右記』と同じく京都で書かれた摂政藤原忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』の嘉承三年八月条にも次の記述がみつかる。
(中略)
八月廿日の鳴動だけでなく、その二日前、十八日未明にも、北東の方角から太鼓のような大きな音が聞こえたという。白河院が「この音は何か」と忠実に問い合わせたほどだった。『神皇正統録』に「天仁元年戊子八月十七日(1108.9.25),虚空ニ聲有テ鼓ノ如シ.数日断マス」とあるのは、日付の切り替わりを当時の常識的な寅の刻で考えて、丑はまだ前日だから十七日としたのだろう(高橋昌明さんからの2006.7.18教示による)。

あるいは、浅間山遠望が描かれた19世紀初頭は1783年(天明三年)の大噴火の印象がまだ強く残っていた時期だろうと思う。天明の噴火は上記の嘉承三年の噴火に次ぐ規模で一説には1400人余の死者だったと言う。

 この噴火による死者は,8月4日に軽井沢宿にいて降ってきた軽石にあたった2人(田村・早川,1995)と,翌5日に発生した鎌原岩なだれとそれから転化して吾妻川を下った熱泥流に巻き込まれた1400人余であるという.1400余という死者数は,たとえば荒牧(1993a)にも引用されているが,その内訳はよくわかっていない.幕府勘定吟味役だった根岸九郎左衛門の『浅間山焼に付見分覚書』(萩原2.332)を集計すると1124人が得られる。大笹村名主だった黒岩長左衛門の『浅間山焼荒一件』によると、翌天明四年七月、善光寺から受け取った経木を吾妻川の各村に死者の数ずつ配ったという。それを集計すると、1490人になる(萩原2.99-105)。根岸の集計とおおむね一致するが、根岸の集計にはない村が合計数を増やしている。黒岩の集計を信用して、これに軽井沢宿の死者2人を足して、合計1492人を天明三年噴火の犠牲者数と考えるのが妥当である。

丁度天明の大飢饉などとも絡んで、浅間山の噴煙はとても象徴的なものだったんだろうなと思う。

そんなこんなで、噴火を繰り返してきた浅間山が最近また活発になってきたというニュースを聞いて、これまでも浅間山の噴火には歴史上何度も悩まされてきたという歴史を少し調べてみたというエントリーでした。周辺住民の皆様は被害お見舞い申し上げます。

浅間山、歴史を飲みこむ―天明の大噴火 (ものがたり日本 歴史の事件簿)
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小西 聖一,小泉 澄夫
天保国絵図で辿る広重・英泉の木曽街道六拾九次旅景色 (古地図ライブラリー)
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