なぜ人は「呪い」とその「効果」の間に因果関係があると考えるのか?

僕は釘に打たれて死ねるのか – ミームの死骸を待ちながら
呪い、というものは存在するのだろうか。
存在するのだろうか、という問題提起自体かなり曖昧だな。「呪い」とその「効果」の間に因果関係はあるのか、と言い換えた方が良い。
そして因果関係を説明するために現在最も有効である考え方が科学であり、ニュートンのように新しい体系を開発することが出来ない僕は、「現在の科学体系の枠内で尤もな理由付けをすることは可能か」という視点で考えてみる。

まぁ、的確な突っ込みはid:Thscさんが「こんばんは、神です – Thsc」でしておられるので僕はネタっぽく書いてみると、問いを立てるのに、もう一歩メタに引いてみるといいかもしれないなーと思いました。
つまり、
なぜ人は「呪い」とその「効果」の間に因果関係があると考えてしまうのか?
とかね。
1)脳の仮説立証性
脳は「信じるものを見る」傾向がある。
ヒトはなぜ、夢を見るのか (文春新書)
ヒトはなぜ、夢を見るのか (文春新書)
北浜 邦夫

ヒトはなぜ、夢を見るのか (文春新書)」(P99-101)
たとえば、若い修行僧が山奥で瞑想するとしよう。彼は、「虚妄とは何か」を考えるよう禅師に言われ、山奥で瞑想している。昨日から眠らずに一心不乱に考えてみた。「お経には、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もないし、眼界も意識界もない、と書いてあったが、虚妄と関係があるのだろうか?」
公案に懸命に集中していると、ガサゴソと音が聞こえるので集中できず、そちらに注意がそれてしまった。修行僧は、この「ガサゴソ」で、まず「!」という反応をして、「?」となり、それから言葉で「何だろう」と考えた。
(中略)
修行僧は、見たものをおそらくキツネだろうと思い、昔見たキツネの記憶と比較し、次にもう一回確かめて「キツネだ」と分かる。学習した経験と生得的な情動体験を基礎にして新しい刺激を自分の都合のよい方向に解釈していくのである。これを「脳の仮説立証性」という。もし見たこともないものであったら、しばし首をひねり、何も該当するものがなければ「分からぬ」あるいは「物の怪」と判断するのである。

外部の情報に対して常に自信の学習経験と情動を元に仮説を立て、それを立証しようとしてしまう。例えば夢を見ている状態というのは、身体は眠っているが脳は覚醒している状態、つまり外部からの刺激や情報は無いが盛んに脳内の記憶と情動体験を刺激として仮説を立て、立証している状態と言える。少ない情報にも関わらず与えられた情報で夢という因果関係のあるストーリーを組み立てているわけですね。

2)シンクロニシティあるいはコンステレーション

ユング心理学入門
ユング心理学入門
河合 隼雄

ユング心理学入門」(P241-242)
このような、「意味のある偶然の一致」(meaningful coincidence)を、ユングは重要視して、これを因果律によらぬ一種の規律と考え、非因果的な原則として、同時性(synchronicity)の原理なるものを考えた。つまり、自然現象には因果律によって把握できるものと、因果律によっては解明できないが、意味のある現象が同時に生じるような場合とがあり、後者を把握するものとして、同時性ということを考えたのである。
(中略)
しかし、このような同時性の現象を因果律によって説明しようとすると、それはただちに偽科学(魔術)に陥る。
(中略)
同時性の原理に従って事象をみるときは、何が何の原因であるか、という点にではなく、何と何が共に起こり、それはどのような意味によって結合しているかという点が重視されてくる。

もう少し補足すると、同時性的な事象に対して自身が/人がどのような意味を見出しているか?という至極主観的な問題が要点なのだと思う。例えば、一時話題になったスティーブ・ジョブズの点を繋ぐ、という話は同時性(シンクロニシティ)を上手く表現している。
コンステレーション(布置)というのも同様で、周囲で自身の環境を変える様々な出来事が発生してすっかり配置が変わってしまったという体験をする訳だが、これも客観的ではなく主観的な事象。
シンクロニシティは客観的に観察されるものではなく、主観的に、事象同士にどのような意味を見出すか?という問題になるので、その意味を見出す心の動きというメタの方に注目することで、主観を客観という科学にまで引いていくことが出来る。
3)呪いと言霊信仰

呪い – Wikipedia
呪い(のろい)とは、人あるいは霊が、物理的手段によらず精神的・霊的な手段で、他の人、社会や世界全般に対して、悪意をもって災厄・不幸をもたらす行為をいう。「呪う」という言葉は「祝詞(のりと)」と語源的には同じで、「宣(の)る」に反復・継続の助動詞「ふ」が接続したものであり、古代の言霊信仰に由来するものと思われる。
日本では既に死んだ人・動物や神霊がなす呪いを特に「祟り」と呼び分けることが多い。呪術(まじない)とも関係が深いが、呪術という言葉は意図および結果の善悪にかかわらず用いられるのに対し、呪いという言葉はもっぱら悪い意味で用いられる。

呪術的思考 – Wikipedia
呪術的思考(じゅじゅつてきしこう)とは呪術が効く、という前提で物事を考える思考のことである。また、何かしら問題・課題がある時に、自己の健全・合理的な努力を欠いたまま、呪術に類似した行動のみによって解決してしまおうという思考も指す。
例えば、昔の人が、心理的な現象ではなく物理的な現象である天災の原因を神の怒りや誰かの怨念にあると考え、それに対して呪術で対処しようと考えたり呪術を実行した場合、それは呪術的な思考と呼べる。

言霊 – Wikipedia
言霊(ことだま)とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。清音の言霊(ことたま)は、森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のこと。その法則についての学問を言霊学という。
(中略)
声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。

呪術的なアレコレは世界中にあるけれど、西洋のそれと日本の「呪い」とは本質的に違うことに注目してみると面白いと思う。英語の構造と日本語の構造との違いとも大きな繋がりがあるんじゃない?で、「呪い」という信仰と日本文化とが言語を通じて同根である可能性なんかもね。関係性を重視し、そこにアイデンティティを見出す文化であるからこそ、「呪い」が有効なのではないかという「仮説」ね。
ということで、1)~3)あたりをネタにいわゆる心の現象学的アプローチで「なぜ人は「呪い」とその「効果」の間に因果関係があると考えてしまうのか?」を考えてみると面白いかもです。
4)両面宿儺(リョウメンスクナ)
これはおまけ。

両面宿儺 – Wikipedia
その身体にはローマ神話のヤヌスのように頭の前後に顔が二つ付いており、おまけに腕が前後一対の四本、足も前後一対の四本あったとされる。背丈は1丈・18丈等様様(どちらにしても当時の日本人の平均身長より遥かに大きい)。手には弓矢、剣を持っている。動きは俊敏で怪力。
(中略)
* 一説では両面宿儺は双生児や兄弟の象徴であり、古代史での双生児、大碓命小碓命(つまり日本尊命とその兄)のことという。また、別の説では仲哀天皇皇子の)?坂皇子忍熊王兄弟という。どちらも美濃国飛騨国に関係が深い。
* 竹内文書では飛騨国は“日玉国”“日霊国”で記され、飛騨が高天原であり、位山がピラミッドと考えている。両面宿儺は飛騨を拠点とした大和朝廷に匹敵する国があったと考えられている。

2008年の11月にブクマしてたんだけど、何でだったか全く記憶が無いので呪いかもしれない(笑)のはさておき、まぁ、普通に理解すると両面宿儺は飛騨の豪族で朝廷にまつろわなかったため、討伐され妖怪扱いされたものだろう。ただ、日本書紀でも描写は少ない。
で、注目しておきたいのは「竹内文書」ね。奇書「竹内文書」の発見を皮切りに日本中にピラミッドを見つけ、青森ではキリストの墓まで発見してしまった明治期を代表するトンデモおっさん竹内巨麿のヨタ話の一つ、飛騨は世界政府の中心だった!ジャジャーーン説が戦後、両面宿儺伝説とオカルトを結び付けてしまった。
そのファンタジー色全開の容貌もあって色々オカルトファンの学者さんたちで妄想炸裂したっぽい。

両面宿儺伝説をめぐる奇想
さて、飛騨における古代史異説となれば、避けて通れない問題にいわゆる「古史古伝」の一つ『竹内文献』のことがある。『竹内文献』そのものは昭和初期に成立した偽史だが、その中では飛騨のことが「日球国」「日玉国」などと表記され、太古の日本のみならず世界の中心たる大宮が置かれた、と記されている。そのため、昭和初期から『竹内文献』を奉じて飛騨高天原説を説く論者は跡を絶たない。
 また、『竹内文献』にはピラミッド日本起源説が示唆されていたため、位山こそエジプトのものよりも古いピラミッドだ、などと主張する者も現れた(注8)。
 そして、一九八四年、『サンデー毎日』が行った「日本にピラミッドがあった!?」キャンペーンにより、位山ピラミッド説は大きく宣伝された。こうなると、『竹内文献』を両面宿禰と結びつけた説が出るのも必然だ。

ということで、オカルトの文脈でリョウメンスクナという名前を見かけたら、あー、竹内のおっさんのヨタ話の続きかーと思ってビールでも飲みながら軽く読んでおく方がいいんじゃないかなー。
あとコトリバコは良くわかんないんだけど、明治大正期あたりまでは少なくとも子供の間引きは当然のことだと考えている地域が多かったし、お墓に入れられるということも無かったらしいので、子供の死体をケガレだと考え(ているから祟る、呪具として扱える)、かつ箱に詰める発想はかなり新しいんじゃないかと思ったりしますよ。
ま、そんなこんなで変なエントリーおわり。
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