日本の多くの会社で宗教行為が行われていたのは何故か?

経営人類学ことはじめ―会社とサラリーマン
東方出版 売り上げランキング: 36217

この本で、会社が宗教行為を行う例について分析されていて面白かったので紹介します。
会社と宗教とは水と油のように見えて、実は宗教行為を行う日本の会社は多い。
例えばトヨタの豊興神社、日本航空の日航香取神社、間組の狭間組守護神社、さらには新日本製鉄八幡製鉄所の境内地三万坪を誇る高見神社など、大手企業の多くが会社の敷地内外に神社を祀っているし、高野山や比叡山には社祖や重役たちを合祀した会社供養塔が多く作られ、高度経済成長期には、会社供養塔に会社の発展を祈願する擬制的先祖祭祀が盛んに行われていたという。
このような組織的に行われるものや、あるいは経営者や創業者の信仰が会社全体に半ば強要する形で浸透していたという。会社によっては朝と夕方社内に「般若波羅蜜多・・・」とお経が流れ、全社員唱和したのち、奉仕の精神を謳った社訓を読み上げるという会社や、あるいは97年に倒産したヤオハンは創業者和田カツが生長の家の熱心な信者であったこともあり、生長の家の教義を元にした社員教育から始まり、会社の急成長に伴って社内のコミュニケーションロスに直面。1964年、経営理念を共有するべく全社員に生長の家の信者であることを義務付けたという。のち、シンガポールに出店した際は生長の家の教義を説く研修を行おうとしてイスラム教徒の従業員らと信仰を巡って対立している(和田自身がシンガポールに赴き、直接従業員と話すと容易に解決した、ということらしいがその経緯は謎)
ヤオハンの例はあきらかに極端だとしても、特に高度経済成長期は宗教と会社とはそれほど遠くない、むしろ既存宗教の基盤のひとつだったということのようだ。
アメリカの宗教社会学者ロバート・ニーリー・ベラーはその著書『社会変革と宗教倫理』において、日本的な価値のありかたをこう説明した。

『経営人類学ことはじめ』(P93)
社会変革と宗教倫理 (1973年)』(P204-205)
日本人の価値は自然的な存在である集団のなかで実現される。それゆえに集団は価値の場となる。集団は現実の構造と統合されていて、そのために聖なる性質が付与される。神と人との関係は連続しており、集団の象徴的な首長はとくに聖なる性質を付与された者として重要な位置を占めている。その機能のひとつは、集団を神的な祖先と集団を保護する神とに関連させることである。個人は、集団の象徴的な首長を通じて精神と祖先から流れる普段の恵みの流れのおかげで存在する。個人は、わずかながらも受けた恵みを返し、必要とあらば集団のために自らを犠牲にするように行動する義務を負う。

これは、少々一面的であるように個人的には思う。必ずしも、集団の首長は象徴的であるとは限らないし、あくまでこれは天皇を中心としたイエ制度的な色合いが強い分析のような気がする。集団というか、関係性の中にアイデンティティを見出す傾向は確かにこの社会は強くあり、それに強く拘束され、あるいは依存する度合いは強いと思う。その関係性が、かつての日本では終身雇用制度下の特に大企業を中心とした会社という集団の中で固定的であったのではないだろうか?
経済学者の間宏は79年にその著書でこう書いた。

『経営人類学ことはじめ』(P93)
日本の企業は営利追求と集団の永続という二つの目的ないし方向性を持っている。企業において重視される「和」はまさしく集団の永続を目的としたものである。会社は永続する間に一種に精神を付与され、メンバーの精神面での支えになるという。企業が工場などに守護神を祀るのは、企業が営利団体であると同時に精神団体であることによる。

宗教学者のヤン・スィンゲドーは84年にこう書いた。

『経営人類学ことはじめ』(P94)
日本人にとって「共同体」は聖なる価値を帯びており、現代においてこの共同体意識を具体的に実現しているのは「会社」である。会社が神を祀ることはなんら不思議ではない。

こういった考察でこの本の論文はまとめているのですが少し自分なりに考えてみる。
会社はある一定の自治の元で閉鎖的空間であったこと、新卒採用年功序列終身雇用による集団の固定化があったこと、旧来の地方共同体や家族共同体はことごとく解体されていく過程にあったことなどによって会社という集団は旧来の共同体の代替の役割を担っていた。あるいは会社以外に共同体らしい共同体が少ない状態にあったので、そもそも関係性にアイデンティティを見出す傾向が強い日本社会においては多くの人々が会社集団に共同体的役割を求めていた。当然、村や家族などが執り行う祭祀についても、暗黙の了解的に会社もまた行うのは当然と言う「空気」が醸成されてたかもしれない。
会社が宗教行為を行っていたという事実は、既存宗教と新興宗教とが力を持ち、かつ会社が強く共同体性を持っていた一時的な時代の現象だったのではないか?と思う。

『経営人類学ことはじめ』(P103-104)
かつての年功序列、終身雇用制度は急速なスピードで解体しつつあり、村的な人間関係の存続が次第に困難になっている。雇用関係は精神性を脱落させて、たんなる契約関係へと変化していく。
もし、会社内での人間関係や組織原理に、従来とは異なった状況が生じているとすれば、集団主義や間人主義に支えられた会社の宗教性も変容していくことになるだろう。地域や血縁を紐帯とした共同体型の宗教は、近代化のプロセスのなかでしだいに影響力を喪失し解体されている。そして現代社会においても村的な性格の強かった会社が、その共同体性を喪失していくとすれば、宗教は現代社会のなかでまたひとつ重要な基盤を失ったことになるのかもしれない。

同書でも最後にこうまとめられているが、既存宗教の影響力はもう保てないだろう。ただし、大会社はグローバリゼーションと景気後退の中で共同体としての役割を捨てつつも、中小企業は逆に宗教性を強めることで結束を固めるように思う。ただ、その宗教性は既存宗教など教派系ではなく、ニューエイジなどの宗教的なるものから、経営者の個人思想など宗教とは言いにくいものまで含まれるだろうが、宗教的な儀礼などが取り込まれた形で上手くソフィスティケートされていくんじゃないかなと。そして、共同体に宗教性が望めなくなっていくことで、個々人の信仰心は高まっていくだろうし、あるいは緩やかに信仰で繋がるような形態へと変化しているようにも思う。
会社と宗教とが結びついていた時代は終り、宗教的な色合いを薄めた宗教的な信仰が、基盤無く多くの人々に浸透していく過程に現代はあるのかなと思ったりはしています。おそらく「会社と宗教」から「働く人たちの信仰心」へと研究の対象は移り変わるべきなんじゃないでしょうかね。この社会で信仰心を持っていない人はいないか、いても限りなく少数派だと思う。そして多くの人は自身のその思考や行為が信仰であることに気付いていない、というのが興味深い傾向かなと。
関連エントリー
経営人類学という新しい学問がとても興味深い
既存宗教に変わって急拡大する「宗教的なるもの」への信仰
「社」という語の由来から垣間見る日本人のコミュニティ信仰
現代人にとってのプロテスタンティズムとしてのニューエイジ思想
人間は脳の○%しか使っていないので凄い潜在能力があるんだ信仰
ソーシャル・ベンチャー(社会貢献を目的としたベンチャー)は何故、自己啓発・ロハスなどニューエイジ系に傾倒するのか
「「空気」の研究」山本七平著
15分でわかる労働法の歴史

むかし大名、いま会社―企業と宗教 (日本文化のこころ その内と外)
中牧 弘允 淡交社 売り上げランキング: 520007
おすすめ度の平均: 5.0

5 『会社本位主義の本質の一要素か?』

企業の神社 (神社新報ブックス)
神社新報社 売り上げランキング: 701238
「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
山本 七平 文芸春秋 売り上げランキング: 536
おすすめ度の平均: 5.0

5 日本と「空気」
5 裁判員になった人は皆読むべき
4 遅れてしまった出会い
5 「空気」読め!
5 日本人を呪縛する最高法規「空気」に科学的・論理的光を当てる良作

スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク