世界と人々の暮らしを激変させたコーヒーの1000年の歴史

インド出身のジャーナリスト、ナヤン・チャンダ氏が書いたグローバリゼーションという本はおよそ五万年前に人類がアフリカから世界へと第一歩を踏み出してから現代まで結びつきを強めて行く過程を様々な視点から描いた傑作なのですが、その上巻にコーヒーがいかにして広がっていったかが描かれていてとても面白かったので、それを参考にしつつ、コーヒーの歴史を簡単にまとめてみます。

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1)コーヒーの伝説

コーヒーがいつごろから飲まれるようになったかは定かではないが、伝説によると、エチオピアのカッファ地方のあるヤギ飼いの少年に始まるという。
昔々、アフリカ東部のエチオピア南西部カッファ地方にカルディというヤギ飼いの少年がいた。
ある日のこと、放牧していたヤギたちが、飛び跳ね、角をぶつけ合い異常に興奮しているのを見つけ、カルディは驚く。そして、ヤギたちが食べていた赤い木の実を口に入れてみたところ、身体がぞくぞくするような快感が舌から全身へと広がっていく体験をしてしまったという・・・
エチオピアではなくイエメンという説もある。イエメンのシェホデト僧院の導師はこのヤギ飼いが「ヤギを魔法にかけた」という木の実をあぶり醸造してみた。同書ではハインリヒ・エドワルド・ヤコブの著書「コーヒー、日用品の壮大な叙事詩」(日本語訳無し)を引用し、このときの様子をこう描写している。

グローバリゼーション 人類5万年のドラマ (上)」(P170)
「すると、ほんの少しも経たないうちに、このシェホデト僧院の導師はまるで魔法にかかったような気分になってしまった。導師は、いまだ経験したことのない不思議な陶酔状態に陥った。導師は熱心なイスラム教の信者なので、酒に酔った経験などまったくなかった。・・・・・・ところがいま、身体の感覚はほとんどなくなり、心はいつになくいきいきと、愉快で、かつ冴えた状態になった。考えも頭に浮かぶだけでなく、はっきりと目に見える形をとった」

そして、この後、導師は真夜中の礼拝の際に信者たちにこの飲み物を飲ませるようになったという・・・
このコーヒー起源の物語はあくまで伝説であって事実はわからないが、一説にはコーヒーの名前がカッファ地方に由来するとも言われている。
事実としては、紀元前のエチオピアのアビシニア高原一帯でガラ族がコーヒーの実をつぶしたものを携帯食としていたといわれており、六世紀から九世紀にかけてアラビア半島に伝わりスーフィー(イスラム系神秘主義者)たちの間で眠気覚ましに用いられていた、ということのようだ。

2)イスラム圏での拡大

13世紀ごろには早くもコーヒー豆の焙煎が行われアラビア半島ではカヴェハ・カネスという名の飲み物を出すコーヒーハウスが登場、人気となっていたという。当時のメッカの総督はコーヒーを社会に悪影響を与えるものとしてコーヒーハウスを閉鎖したが、民衆の暴動などを招きカイロのスルタンがその命令を撤回する事態になったというエピソードも紹介されているが、wikipediaのコーヒーの歴史によると、当時、コーヒーの飲用についてはイスラム法学者たちの間でも意見が分かれており、多くの法学者の間では悪しき逸脱(ビドア)であるという意見が多かったという。
当時、「コーヒーを供する場所が庶民や知識人が集まる社交場となりはじめたため、それが為政者や社会に対する不平不満を語り合う場に転ずることを警戒する動機があった」とも言われているが、民衆の間でコーヒー人気は広がって行き、「1454年にアデンのムフティー(法学者)、ジャマールッディーンがイスラム法学上の見解で合法と判断して以来、数十年にわたる論争を経つつ、やがて飲用しても構わないという見解が主流となってコーヒーは中東圏に広まっていった。」(コーヒーの歴史 – Wikipediaより)という。
当時、あるイスラム教聖職者はこう言った。「コーヒーを体内に入れて死んだ者は地獄の業火に焼かれることはない」また、信者たちは「正しい意図と献身、それに心からの信心を持っていれば、コーヒーを飲むと隠された秘密の快楽に到達することができる」とも教えられたという。
16世紀初頭、飛ぶ鳥を落とす勢いで世界帝国建設に走っていたオスマン帝国がアラビア半島からエジプトまでを支配地域に入れると同時にコーヒーは瞬く間にトルコ地域に広がった。1554年、二人の実業家がイスタンブールにコーヒーハウスを開店すると、多くの人々がコーヒーハウスに足を運ぶようになったという。

グローバリゼーション 人類5万年のドラマ (上)」(P173)
時をおかず、暇をもてあます旦那衆、気晴らしを求める男たち、学者や詩人といった連中が、コーヒーハウスに群がるようになった。こうした人々は本を読み、パックギャモンに興じた。彼らは詩の朗読を聴くのは大好きだったが、モスクにはめったに足を運ばなかった。そこでこれらのコーヒーハウスは半ば冗談に、「メクテブ・イ・イルファン」(知識の学校)と呼ばれた。

3)イスラム圏からヨーロッパへ

オスマン帝国でのコーヒーの流行は瞬く間に地中海を経由してヨーロッパにも上陸、ヨーロッパに人々の間でも愛好者が増えていった。
1592年、キリスト教信者の間でこの「イスラムのワイン」の愛好者が増えていることを危惧した聖職者たちは、時のローマ教皇クレメンス八世にコーヒーの禁止を進言したが、それに対して教皇はこう言ってその訴えを退けたという。

クレメンス8世 (ローマ教皇) – Wikipedia
「それにしても悪魔はいいものを飲んでいる。いっそのことコーヒーに洗礼を授けてこちらのものにしてしまってはどうだろうか……。」

英邁な教皇として後世に名を残すクレメンス八世は大のコーヒー好きとしても知られている。
しかし、17世紀に入ると若くて信仰心の篤いムラト四世の下でオスマン帝国ではコーヒーハウスは禁止されることになる。当時オスマン帝国は反乱や経済の不安定さから、当時数千軒あったといわれるコーヒーハウスでは政府の悪口を言ったり、陰謀の巣となっていることが多かったため、1640年、イスタンブールのコーヒーハウスはすべて閉鎖されることになり、またイランでも同様に閉鎖された。
この閉鎖によってオランダやイギリスの商人たちは売れ残ったコーヒーをイギリスに輸出。1650年、ヨーロッパ圏で最初のコーヒーショップがトルコ系ユダヤ人ジェイコブによってオックスフォードに開店する。このジェイコブのコーヒーショップは大繁盛し、学生や知識人が常連客となってコーヒー代を1ペニー払うだけで知識を得られるという意味で「ペニーユニバーシティ」というあだ名がつけられた。
1683年、第二次ウィーン包囲として知られるオスマン軍対ヨーロッパ連合軍の攻防はオスマン軍の大敗に終わったが、そのときオスマン兵が捨てていったコーヒー豆を使い、ウィーンにコーヒーハウス「青い瓶」が開店する。

グローバリゼーション 人類5万年のドラマ (上)」(P175-176)
伝説によると、マルコ・ダヴィアノというイタリア人のカプチン会修道士がミルクと蜂蜜をまぜてコーヒーに入れ、その苦さを薄めることを思いついた。ウィーンっ子たちはこの新しい飲み方を気に入り、こうしたコーヒーの色がカプチン会修道士の僧衣の色柄と似ていることから、カプチン会への敬意の標としてこれを「カプチーノ」と名づけたという。

カプチーノの由来には諸説あるためはっきりとはしていないが、カプチン会修道士の頭巾のことをカプッチョと呼んでいたことにちなむ説が有力らしい。またマルコ・ダヴィアノはウィーン包囲の際に活躍した修道士で当時人々から多大な敬意を集めた宗教的指導者の一人だが、おそらく実際はカプチーノコーヒーの由来とは関係が無いとは思われる。
1669年、フランスにオスマン帝国の大使として赴任したスレイマン・アガがコーヒーを飲む姿の優雅さはたちまちフランス宮廷の貴婦人たちを虜にし、コーヒーが大流行することになり、そしてコーヒーは知識階級のたしなみとして定着することになる。

4)ヨーロッパから世界へ

ヨーロッパでのコーヒー需要の拡大によってイエメンの港モカからの輸出だけではその需要を満たすことは出来なくなっていたが、輸出は厳しく制限されていた。インド人巡礼者のババ・ブダンはメッカへの巡礼の際にイエメンからコーヒー豆を持ち帰ることに成功し、南インドで栽培を開始。続いてオランダの貿易商人がセイロン、ジャワに植えた。
そして1723年、フランス陸軍大尉ガブリエル・マチュー・ド・クリューはカリブ海のマルティニク島に一本のコーヒーの木を運ぶ命を受け、大西洋の嵐の中、コーヒーの木を枯らさぬよう自分の飲み水を与えながら、無事運んだという。そのコーヒーの木はマルティニク島で瞬く間に増え、後にマルティニク島ほかカリブ海はコーヒーの原産地としてフランスに供給し続けることになった。
ポルトガルはフランスとオランダに出遅れてしまい、コーヒーの木を手に入れられなかったが、1727年、仏領ギアナとオランダ領ギアナの境界をめぐる紛争の際にポルトガル領ブラジルの当局者であったフランシスコ・デ・メリョ・パリェタに仲裁が依頼されることになった。パリェタはコーヒーの木を手に入れるためにスパイ映画ばりの手段を講じ見事成功する。

グローバリゼーション 人類5万年のドラマ (上)」(P179)
彼はあっという間にフランス総督の夫人と熱い仲になった。(中略)ある宴会の折、フランス総督の夫人は何の疑いも持たない夫の目の前で、パリェタに大きな花束を贈った。その中にはよく熟れたコーヒーの実が一握りほど隠されていた。パリェタはこの宝物を持って船に乗り、ブラジルに帰った。その後、ブラジルは世界最大のコーヒー原産国への道をひた走ることになる。

パリェタがルパン三世やジェームズ・ボンドで脳内再生されそうになるすごいエピソードですが、実はたしかなお話ではありません。ただコーヒー豆が仏領ギアナを経由してブラジルに持ち込まれたというのは事実で、それにこのようなエピソードが語られるようになったということらしいですね。
このようにして、1750年ごろまでにはコーヒーは五つの大陸で栽培されるようになる。

5)奴隷貿易の横行と戦争、侵略

15世紀ごろから始まり、16世紀から18世紀にかけて最も盛んだった奴隷貿易の隆盛にコーヒー栽培は少なからぬ、いや直接的に多大な影響を与えている。
タバコ、綿花、砂糖、ココアなどと並んでコーヒー栽培でも多くの奴隷がアフリカから各植民地に運ばれた。約3世紀に渡る奴隷貿易でアフリカから大西洋を渡った奴隷の数は最大1500万人以上(定説では900万人から1100万人)と言われているが、コーヒー栽培では特に子どもの奴隷が多く使用されたという。

グローバリゼーション 人類5万年のドラマ (上)」(P181)
非合法の奴隷貿易で、毎年四万五〇〇〇人の奴隷がこの国(引用者注:ブラジル)に流入した。コーヒー・プランテーションはまた、奴隷貿易の人口構成の内容を変えた。コーヒー・プランテーションの奴隷の買い手は、成人男子ないし女子よりも年少の奴隷を欲しがった。おそらくそれは、彼らが敏捷にコーヒーの木々の間を動きまわって熟した実を採ることができたからだろう。コーヒー・プランテーションで働く奴隷の三分の二から四分の三は少年だった。ブラジルで奴隷制が名実ともに廃止された一八八八年には、奴隷の数は一五〇万人にも達していて、そのほとんどはコーヒー・プランテーションで働かされていた。

1598年にジャワ島に設立されたオランダ東インド会社は当初、香辛料貿易を目的としていたが後に軍事力を持ち東南アジア一帯を徐々に侵略して植民地化を進めるようになっていた。その大きな目標の一つが当時莫大な利益を生んでいたコーヒー栽培で、軍隊の力を背景にして強制労働によるコーヒー栽培を進めた結果、小規模農家が消えていき、民衆の生活は困窮。のちにジャワ戦争という民衆の独立戦争へと結びつくが、ジャワ戦争は敢え無く鎮圧、戦費により財政難に陥ったオランダ東インド会社はさらに悪名高い強制栽培制度を導入して植民地支配を強めていく。
奴隷貿易と奴隷労働は19世紀、植民地支配は第二次世界大戦の終結前後まで続き、コーヒーは世界の歴史に暗く悲惨な楔を打ち込んでしまうこととなった。

6)コーヒーの大衆化とフェアトレード、スターバックス

世界中でコーヒーが生産され供給が過剰になるとともに、海上輸送のコストが下がり、欧米で所得が増大していく過程で19世紀から20世紀にかけてコーヒーは一般大衆の飲み物として定着した。
日本には最初天明年間(1781年 – 1788年)に持ち込まれたが、鎖国下ということもあり、本格的に飲まれることは無く開国後の明治21年(1888)に上野に日本最初のコーヒー店可否茶館(かひいちゃかん)が作られたが、本格的なカフェは明治44年(1911)に銀座に作られたカフェー・ブランタンが最初となる。欧米にはいない女給(ウェイトレス)が人気を博し当時カフェブームを巻き起こしたという。
コーヒーの画期的な技術革新は1938年に起きた。コーヒー豆は長期間貯蔵することが出来ないため、天候や景気に大きく左右されてしまう。そこでブラジル政府はコーヒー豆の過剰を解消するためにネスレ社と提携し、ネスレ社はコーヒー豆の乾燥凍結法を開発する。インスタントコーヒーの誕生だった。
1960年代以降、今度は人口一人当たりのコーヒー消費量は減少傾向に転じ、技術革新による供給過剰もあって売価も減少し続けた結果、世界銀行の発表によると2002年には中米だけで60万人の職が失われたという。また、エチオピアではコーヒーは輸出所得の三分の二を占めるがコーヒー価格の下落により2000年から2001年にかけて年間総輸出所得の半分にあたる3億ドルも減少することになった。これらのような状況にも関わらず、世界のコーヒーの40%を支配する四大焙煎小売業(プロクター・アンド・ギャンブル、クラフト・フーズ、サラ・リー、ネスレ)は売価の下落によって大幅な利ざやを得ていたことが批判に晒された。

グローバリゼーション 人類5万年のドラマ (上)」(P184-185)
栽培農家に支払われる価格は一九九七年以来、八〇パーセントも下落したが、アメリカの諸都市では、挽いた焙煎コーヒー豆の小売価格は二七パーセントから三七パーセントしか下がらなかった。

現在でも残るコーヒー栽培農家に対する搾取を止めさせ、栽培農家のセーフティネットを整備するため複数のNGO団体がフェアトレード認定期間を立ち上げ、コーヒー1ポンドあたり最低1.26セントを払った業者に認定書を与える運動を始めるとともに、アメリカのNGOでは主要な小売業者に対してフェアトレードの認定を受ける栽培農家から仕入れるような圧力を掛ける運動を展開している。
このようなまだ残る問題の一方で、コーヒーは世界中の人々の口に行き渡るようになった。2007年には世界の消費量は750万トンに及び、2009年時点の一人当たり消費量は最多のルクセンブルグでは年間16.65キロ、日本でも一人当たり年間3.41キロに及ぶ。みんな飲んでますねー。
世界規模のコーヒーチェーンスターバックスは1971年にシアトルで開業したが最初は普通のコーヒーショップだった。しかしハワード・シュルツが1987年にスターバックスの商標を購入すると一気に店舗数を増やし世界展開していった。
その後スターバックスと近い様々な新しいコーヒーショップチェーンが世界中に展開し、コーヒーはより身近になっていくとともに、特にアメリカではスターバックスをはじめとするコーヒーショップでは無線LAN環境が提供されることで、サードプレイス化が進み、コーヒーを飲みながら、自宅とオフィスの中間の空間で作業に集中しあるいは趣味に没頭するという、一部の人たちの労働環境や生活環境を変えようとしている。
そして、ほとんどのオフィスや自動販売機、自宅で手軽にコーヒーが楽しめるようになった。
いかにして世界は小さくなり、技術と生活水準が向上し、人々に喜びを与えてきたか。またその一方で世界を断絶し、格差が生まれ、人々に悲劇をもたらしたのか。コーヒーの辿ってきた道は人間の営みや歴史を象徴的に表しているようでした。
世界と、人々の暮らしを文字通り劇的に変えてきたコーヒーの歴史でした。
ちなみに僕はコーヒーが一滴も飲めません(笑)
グローバリゼーション 人類5万年のドラマ (上)グローバリゼーション 人類5万年のドラマ (下)
このエピソードはこの本の上巻のわずか15ページほどの分量。コーヒーだけでなく様々なエピソードを交えつつ世界がいかにして狭まって行ったか?というグローバリゼーションの進展を壮大なスケールで描いていてとても面白いです。この本の感想はまた改めて。

参考サイト
コーヒー – Wikipedia
コーヒーの歴史 – Wikipedia
コーヒーの歴史 | コーヒー雑学 | UCC上島珈琲 – コーヒーから生まれる笑顔のために。
スーフィズム – Wikipedia
オスマン帝国 – Wikipedia
ムラト4世 – Wikipedia
第二次ウィーン包囲 – Wikipedia
Marco D’ Avianoの列福
カプチーノ – Wikipedia
クレメンス8世 (ローマ教皇) – Wikipedia
奴隷貿易 – Wikipedia
奴隷市場と奴隷貿易 Ⅱ ~黒い奴隷船~
奴隷市場と奴隷貿易 Ⅲ ~奴隷制度の光と影~
オランダ東インド会社 – Wikipedia
2 南アジア・東南アジアの植民地化
カフェー・プランタン – Wikipedia
・全日本コーヒー協会
スターバックス – Wikipedia

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