江戸幕府末期の財政状況がわかる図

「江戸博覧強記 上級編 (江戸文化歴史検定公式テキスト 上級編)」(P32)の図より作成。

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上は享保15年、下はその約100年後、江戸幕府末期の天保14年の幕府財政状況です。

享保15年は徳川吉宗による享保の改革の真っ只中。吉宗が将軍就任の前の時点は、幕府は五代綱吉のころの米価下落と綱吉から七代将軍家継までの間に膨らんだ財政赤字、さらにとどまるところを知らない物価上昇などによってそれまでの蓄えを食い潰してしまっているという状況でした。

そこで、将軍就任後、倹約と増税(年貢を五公五民にする、定免法による年貢収入の定率化など)による財政再建を行い、成果を出し始めたのがこのころ。農民への年貢取立ては苛烈を極め、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」とは享保の改革で辣腕を振るった勘定奉行神尾春央の有名なセリフですが、当然、増税に対して一揆なども頻発していたと言います。しかし、そのような民衆の困窮はともかく、上の図の時点でもすでに黒字化を果たしていますが、享保の改革末期には歳入は180万石まで急増、財政再建は大成功を収めました。

歳出の切米・役料は武士に払う俸禄(給与)のことで、年貢を取り立て、上納金を納める代わりに切米・役料を与えられるという御恩と奉公の関係が成立していました。また米価下落に歯止めを掛けるための米の買い上げ代金にも14.2%が使われています。

下の天保14年は天保の改革の最終年。この年、改革を主導した老中水野忠邦が改革の失敗と政争に敗北したことなどにより失脚しています。このグラフについては江戸博覧強記32ページの説明を引用します。

江戸博覧強記 上級編 (江戸文化歴史検定公式テキスト 上級編)」(P32)
享保15年から一一三年後の天保14年(1843)、幕府の財政状況に大きな変化がみられた。まず歳入・歳出ともに、その財政規模がほぼ二倍に膨張した点である。これは歳入不足の補填、経済規模の拡大に伴い、元文・文政期の貨幣改鋳や明和期以降の南鐐二朱銀などの計数銀貨(一定の形状をもち、品質を保証された銀貨)の発行といったインフレ政策が行われた結果であった。

財政バランスは、享保期と同じく若干の黒字を計上している。しかし、貨幣改鋳益が歳入全体の四分の一を占め、これによってようやく歳入と歳出の均衡が実現していた。貨幣改鋳に伴う収入はあくまで一時的であり、恒常的に歳入不足に直面していたことがわかる。

歳出項目をみると、日光社参といった臨時の支出もあったが、何よりもその他の項目の増加が著しく、多様な名目の少額支出をうかがわせる。その結果、切米・役料の割合が10%以上減少しており、家臣団への支払いを相対的にカットし、御用金・上納金を増やしながら財政を均衡させていた、当時の幕府財政の実態が浮かび上がってくる。

日光社参は基本的に幕府の威勢を誇示する目的で不定期に行われる行事で、多くの供を引きつれて日光まで練り歩くイベントですが、安永5年(1776)以来67年ぶりに実施されたもので、財政が逼迫している中で行われたことについて後世強く批判をされています。恐らく将軍の権威はかなり失墜していたのでしょう。また、この年天保の大飢饉が起きていることもあって年貢の割合が下がっている可能性もありますが、それにしても歳入に占める年貢の割合がかなり落ち込んでいます。幕府の官僚機構が巨大化してしまっていたのでしょうね。奥向き費用も単純に享保期と金額で比較しても1.5倍と大奥が巨大化していたことがうかがい知れます。水野忠邦の改革を阻んだ政敵の一つが大奥でした。

上記の歳入で大きな割合を占める貨幣改鋳益ですが、天保の改革では質の低い貨幣を乱造することで物価の上昇を招き、株仲間の解体もあって流通システムは大きく混乱して景気低迷。また寛政の改革で行われた棄捐令に習い、「札差が旗本・御家人に貸出した未返済の債権は全て無利子、元金の返済は原則として20年賦、ただし知行高に比して借財の多い者へは、さらに軽減した償還の措置をとる」(棄捐令 – Wikipedia)という無利子年賦返済令を出したことにより札差の半数が閉店に追い込まれ、また残った札差も貸し渋りを行うようになるなど江戸の経済システムを混迷させました。そして、上記の円グラフのような財政状況からわずか20年余りで江戸幕府は崩壊することになりました。

しかし、江戸幕府を引き継いだ明治政府も当初、財政は火の車。余談ですが、例えば、今我々が使っている太陽暦ですが、明治初期、西洋にあわせた暦の導入をするべきかどうか議論が始まってはいたのですが、その議論もそこそこに突如、明治五(一八七二)年十一月九日、翌月の十二月三日を明治六年一月一日とすることが発表されます。実は明治六年は閏月があるため通常の年より一ヶ月多い。そこで太陽暦に改暦すると閏月が消滅して給料を一か月分払わなくて済む、というのが太陽暦が導入された大きな理由の一つと言われています。

その後、江戸時代に発展した経済システムを資本にして明治維新下で殖産興業、富国強兵の名の下に急ピッチで経済成長を遂げていく訳ですが、当時、明治政府はなんとしてでも早期に財政を安定させなければならないという状況があったという側面も明治維新の背景にはあると思います。その一方で明治期は急激な経済成長の影で格差が拡大し貧困層が生まれ、地域コミュニティが解体して繋がりが希薄化していっており、その負の側面が昭和に入って世界大恐慌による経済不安を機会に表面化。社会不安の中で急進的な思想が生まれテロリズムが横行し、軍部の台頭を招き太平洋戦争から敗戦というカタストロフィへと突き進んでいきます。

江戸末期の財政状況が大きな流れとしてその後百年以上の間少なからず影響し、繋がっていくのだろうなぁというのが想像できるとても興味深い江戸末期の財政状況の図でした。

さて、現代の某国の逼迫した財政はどのような未来へと繋がっていくのでしょうか。

参考サイト
武士の俸禄
天保の改革 – Wikipedia
棄捐令 – Wikipedia
享保の改革 – Wikipedia
日光東照宮文庫調査 – 神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成

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