現代人のための神仏習合入門その2「跋扈する怨霊、翻る反旗」篇

前回→現代人のための神仏習合入門その1「神仏習合のはじまり」
今回は怨霊信仰が登場して散々暴れまわったのちに王権に取り込まれて行くまでです。引き続き参考文献は義江彰夫著「神仏習合」、末木文美士著「日本宗教史」より。

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神仏習合以前の古来の神祇信仰の元でも人には霊や魂があると信じられ、その霊魂を祀ることが行われていたが、それは祖霊と呼ばれる家や共同体に紐づいたすでに個性を失ったものであり、特定の個人の霊というかたちで出現するものではなかったと考えられている。
しかし、八世紀半ばごろには、特に王権中枢部など貴族の間で権力闘争の末に非業の最期を遂げたものたちの霊が怨みを持って現れるという観念が登場し始めていた。例えば神亀六年(729年)に謀反の疑いをかけられ服毒自殺した長屋王や、天平十二年(740年)時の権力者橘諸兄に対して反乱を起こして誅せられた藤原広嗣が怨霊としてあらわれ疫病や関係者の死に関わっているのではないかという噂がささやかれるようになっていた。
この傾向は九世紀に入ると一気に広がり、貴族から一般庶民まで、社会底辺を含む広範囲の人々によって、政争敗死者たちが怨霊として世の中に災いをもたらすため、その怨霊を祀ろうという動きが出てくるようになる。それが御霊会と呼ばれる神仏習合的なイベントである。
■拡大する御霊会
御霊会とは、当時怨霊とされた政争の末に死した六人の人物(早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂)の怨みを残した霊魂が疫病や天災、死者数の増加などの原因であるとして、その怨みを鎮めるために行われる密教的な内容の法会であり、九世紀以降京・畿内から始まって全国各地で自然発生的に頻発するようになっていた。この法会の際、怨霊のことを敬意を込めて御霊と呼んだことから御霊会と呼ばれている。
御霊会は怨霊をシンボルとして政情不安や疫病などの原因を、彼らを怨霊化させた権力者の責任として反権力的な運動として広がっていったものであり、王権支配に対する不満が怨霊を通して組織化されていったものと捉えられている。これは敗死した者たちの一族やその傘下にあった貴族たち、さらに彼らに共鳴する没落貴族たちを根源としつつ、密教僧たちが密教の呪術的観念と結びつけて広く底辺にいる人たちの社会への不満と呼応させて社会運動化したものだった。
御霊会の広がりに対して、朝廷は、御霊会は表向き天災回避を建前としていたので強制的な介入は出来なかったため、朝廷主催の御霊会を開催したり、反権力的な神仏習合神だった八幡神を守護神に祀り上げるなど率先して怨霊の怒りを鎮めようとするが、御霊会は静まること無く各地で盛んに開かれるようになっていた。
そのような反権力的な雰囲気がくすぶり続ける中で最強の怨霊菅原道真が登場することになる。
■猛威を振るう菅原道真の怨霊
菅原道真は宇多天皇に重用されて昇進し、醍醐天皇の下で右大臣にまで昇進を遂げるが、左大臣藤原時平によって太宰府へと左遷され、延喜三年(903年)に死した人物だが、その死後すぐに様々な天変地異は彼の祟りのせいだということがまことしやかに囁かれるようになる。
早くも延喜五年(905年)には道真の仏教の師にあたる天台密教僧尊意の元に道真の霊が現れ、左遷の怨みを晴らすために復讐をすると宣言。延喜八年(908年)、道真配流首謀者の一人藤原菅根が病死すると道真の怨霊のせいだという噂が広がり、翌、延喜九9年(908年)には藤原時平が陰陽師の祈祷の甲斐もなく39歳の若さで病没。
その後も様々な天変地異や疫病と結びつけられながらついに道真の怨霊は「密教究極の仏大日如来の化身である帝釈天の弟子観自在天神にあたり、龍や雷を操って危害を加える神」とされるようになり、延長元年(923年)には醍醐天皇の皇太子で、藤原時平の娘を妃にしていた保明親王が21歳で病死、続いてその子慶頼王が皇太子となるが二年後に5歳で死去、そして、延長八年(930年)6月26日、天皇の御所である清涼殿の落雷は、火災を巻き起こしてやはり藤原時平の下で道真配流に関わったとされる大納言藤原清貫他要人数名を死傷させた。さらにこの惨状によって体調を崩した醍醐天皇も三ヶ月後の9月29日、崩御する。
もちろん、醍醐帝を始めとする人々の死は怨霊の仕業ではない。しかし、これらの偶然の出来事はすべて道真の怨霊という一つながりの物語として人々の間で広がり、菅原道真は最強の怨霊としてその名を轟かすことになる。そしてこれは怨霊信仰の極みとしての意味を持っていく。

「神仏習合」(P107)
理不尽な処置で人を死に追いやれば、その霊魂はその罪を犯した人すべてに報復を加え、ついには最高責任者たる帝王をも殺してもいたしかたないという認識が、当時の日本社会を覆っていたことは確実である。御霊信仰にはじまる怨霊の怨みは、御霊会という法会と祭祀でうさばらしをするという限度を超えていた。直接加害者に死の報復を与え、王権の頂点に立つ帝王そのものを死に追いやるという、極限的な反逆活動を展開するところにまで到達してしまったのである。

怨霊信仰は神仏習合の一形態だが、社会運動としての広がりがエスカレートして、王権を揺るがす論理として当時の人々の間に共通の認識が形成されていった。
怨霊信仰が盛んになる中で重用されはじめるのが陰陽師と呼ばれる人々である。陰陽道は中国の陰陽五行説が仏教や儒教の伝来とともに日本に伝わり民間の神祇信仰や道教、密教などと習合しつつ天文や暦を観察する学問・占術として日本で発達した儀礼・呪術体系で、七世紀ごろには民間で陰陽師が活動を始め、律令制の下で陰陽寮が設置され、怨霊信仰が盛んになる九世紀から十世紀にかけて陰陽道として確立していく。天変地異や災難、出産、病気などの際には陰陽師が加持祈祷を行い、また怨霊を祓う、怨敵を呪詛するなどの儀式のために陰陽道の行法が発展していった。陰陽道は後に暦や方角、吉凶などを占う民間信仰として浸透していくことになる。
このように都では道真の怨霊が猛威を振るい、御霊会が燎原の火の如く全国に広がっていく中で、ついに関東で反乱の火の手が上がる。平将門の乱である。
■平将門の反乱を支える御霊信仰の論理
承平五年(935年)、叔父の平国香を殺した平将門はそのまま朝廷に反旗を翻し、天慶元年(938年)、藤原玄明らとともに、武蔵国府、常陸国府を次々と攻撃して関東一帯を制圧。翌天慶二年(939年)、上野国府に入城して新皇即位を宣言する。
この平将門が新皇に即位する時に行われた儀式に菅原道真が登場する。

「神仏習合」(P111)
九三九年十二月、上野国府を占領し、そこで四門の陣を固め、諸国の除目(引用者注:除目=諸官の任命)を行ったとき、八幡大菩薩の使と称する巫女が現れて”八幡の持つ帝位を蔭子平将門に授けよう”と八幡の言葉を口走り、そこに菅原道真の霊魂が出現して、帝位授与の位記(引用者注:位記=辞令)を記して将門に与えたのであった。これによって将門は帝位に即き、みずから新皇の号を称するにいたる。

八幡神もそもそもは王権に反逆する九州地方の独立勢力の神仏習合神であったものが、王権の守護神として祀られたもので、応神天皇の霊だとされている。応神天皇の霊である八幡神の神仏習合と化した八幡大菩薩が将門のことを蔭子(子孫)と言い、怨霊菅原道真が帝位授与の辞令を書くという反逆のための大義名分となる儀式であり、この儀式に際して三十二相の音楽(仏のそなえている三十二のすぐれた相を七言の経にして、雅楽の合奏曲に合わせて歌う仏事の音楽)が奏でられ、神仏習合神、怨霊、仏教音楽など神仏習合の典型的な様相がこの儀式に現れていた。
このような当時の日本社会を覆っていた反権力的な意識の発露である怨霊信仰を取り込みながら、将門の乱は新皇即位からわずか二ヶ月後の天慶三年(940年)2月、藤原秀郷、平貞盛らが率いる朝廷軍によって鎮圧される。また、同時期に西国で反乱を起こした藤原純友も翌年捕らえられ獄死する。
この二つの反乱の失敗ののちも、怨霊はしばらくの間猛威を振るうが徐々に沈静化し、怨霊たちは王権の守護神として朝廷に取り込まれて行くことになる。
■王朝国家の確立
ここまで見たような怨霊信仰が実際に武力反乱を巻き起こすまでに激化していく背景には宇多天皇から醍醐天皇、そして醍醐天皇の子朱雀・村上天皇へと至る時期に行われた朝廷の構造改革と密接に関連している。怨霊に呪い殺されてもやむを得ない、というぐらいに損な役回りを伝説では負わせられる醍醐帝だが、じつは、その治世は後世、延喜の治と称せられ、宇多帝の寛平の治、村上帝の天暦の治と並び後の王朝国家の基礎固めを行った善政の時代として知られている。後に後醍醐天皇は延喜天暦の治の時代を範として建武の新政を行った。
1)土地・税制改革
当時、律令体制は私的領主の勃興により徐々に無力化しており、新興勢力の領主たちは自身の土地(私営田)を寺社や大貴族に寄進することで徴税逃れをし、経済力を蓄えるようになっていた。そのため、宇多帝時代以降、朝廷は土地・税制の抜本的改革に乗り出す。
宇多天皇の私営田抑制施策を受け継いだ醍醐天皇は延喜二年(902年)、富豪たちの私営田を貴族・寺院に寄進する認否を国司(地方行政の責任者)の裁量に委ねる太政官符を発令。国司の権限を強化しつつその下の郡司の権限を奪うことで地方行政の再編成を進め、貴族・寺社への寄進認可を最小限にするとともに、私営田化しつつあった土地を順次公領として編成していった。
その際執られたのが負名という制度である。これは「実際に土地を経営する者が国衙に対し納税を約束した田畠の全体に誰々名という名をつけ、毎年その田畠総面積に応じた租税を出しさえすれば、経営の内実は名を負った者の自由に委ねられるという制度」(「神仏習合」P122)で、これにより旧来の幣帛班給制度に変わって実効性のある土地税制が確立した。
2)政治制度改革
御霊会の拡大のところでも触れたように九世紀の始めごろに軍事・検察行政を司る検非違使庁、天皇の秘書的役割を果たす蔵人所が設置され、特に検非違使庁は私的領有の発展とともに領主間の争いの増大に対応して巨大組織化していった。また、領主間の争いの急増によって法で処理出来ない紛争を武力で解決するための集団として武士が登場し、様々な紛争を経てその地位が強化されていく。
宇多天皇は史上始めて関白という天皇の政務を補佐する役職を設置し、藤原基経(藤原時平の父)を任命。さらに蔵人所式を編纂し、天皇を警護する滝口武者制度を確立。政治の中枢の現実的な組織化を進めた。
この宇多帝から醍醐・朱雀・村上帝の時期に天皇とそれを補佐する関白・摂政、政務の秘書としての蔵人所とそれを補佐する有能な官僚からなる殿上人、軍事・検察の検非違使、警護の滝口武者などが政治の核となり、その下に中央官制と地方行政が連なる体制が確立され、王朝国家の基礎が築かれていく。
■怨霊信仰の社会的背景
上記のような国政改革と社会変動の大きな流れの中で、中央では蔵人所、検非違使庁を中心とする新体制から旧来の豪族たち―藤原氏に実権を奪われる忌部氏、検非違使台頭により軍事の実権を奪われる大伴・物部氏、蔵人所設置によって閑職に追いやられる橘氏など―が次々と失脚していった。また、失脚していく名族の下についていた無数の人々もまた没落の憂き目にあっていた。
地方でも私的領有を基盤とする新体制へと変わりゆく中で、一部の富裕層とは別に私領を確保出来なかった多くの没落者たちや、大貴族・寺社の傘に入れず私営田経営に失敗した者たち、さらに私営田経営に乗り出していても、新制度によって自らの土地を公領に編成されてしまう恐れが常につきまとっていた。
彼らの不満や怨み、恐れが怨霊を生み出し、神仏習合初期から神宮寺建立などを通して彼ら旧勢力と密接に繋がっていた密教僧が、庶民の間にあった神祇信仰の災禍観念と密教の贖罪・報復の観念とを結びつけていくことで、変革期の社会不安に乗って一気に拡大したのが怨霊信仰の実態であったようだ。
そして、平将門の乱はそのような崩れゆく律令国家と新たに作られようとする王朝国家の転換期に拡大する反王権の雰囲気の中で起きた武力反乱であったが、戦略・戦術的な失敗もあったとはいえ、まさに現王権に変わる新しい体制を提示出来なかったために一時的な武力反乱に留まり敗れていった。
■怨霊信仰のその後
平将門・藤原純友の乱鎮圧後も菅原道真の怨霊は引き続き人々の間で囁かれるものの、当初は天皇を呪い殺すほどであったものが、天慶九年(946年)に北野社が建立されて以降は、官位や社殿をねだるなど要求が俗化していき、徐々に王権へと接近し、十世紀末には無力化していくことになる。
道真に変わって新たな怨霊として登場したのが牛頭天王だが、朝廷は積極的に朝廷主催の御霊会を開催し、民間にも開放。怨霊信仰はガス抜き的なカーニバルに転化していくことになる。
結局、新体制が確立していくことで、密教寺社勢力にしろ、武士勢力にしろ王朝国家が打倒出来ないことを知り王権に逆らうのではなく王権の中に食い込んで徐々に力を蓄えていくという方向に方向転換していった。武士は中央や地方で武官の地位を確保し、領主間の紛争解決を図ることで社会的地位を高め、密教勢力は王権擁護を全面に押し出すことで勢力のさらなる拡大をはかって行った。
このようにして怨霊信仰を取り込み、転換期を乗り越えて完成された王朝国家の下で平安文化が花開いていく。
しかし、この神仏習合の過程で生まれた怨霊信仰は王権を掣肘する論理を生み、武士階級の登場を招き、この後千年以上も続く戦乱と二重権力の萌芽となっていくのであった。そして、怨霊信仰の先に生まれた王朝国家の下で神仏習合を背景としてその後の日本社会に大きな影響を与え続けるケガレ忌避観念が生まれ、そして本地垂迹説の登場と中世日本紀に代表される新しい神祇信仰=神道が作り上げられていき神仏習合は一定の終結を迎えることになる。
(つづく)
参考サイト
御霊信仰 – Wikipedia / 御霊会 – Wikipedia / 祖霊 – Wikipedia / 寛平の治 – Wikipedia / 延喜・天暦の治 – Wikipedia / 陰陽道 – Wikipedia / 関白 – Wikipedia / 平将門 – Wikipedia

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