「西の魔女が死んだ」長崎俊一監督/サチ・パーカー主演

登校拒否になってしまった中学一年生のマイ(高橋真悠)が、しばらくの間、お母さん(りょう)に連れられて田舎の山村で自給自足に近い生活をする英国人のおばあちゃん(サチ・パーカー)の元で生活していく過程で、「魔女修行」を通して徐々に成長していくというストーリー。
梨木香歩の同名小説を原作のテイストやテーマを壊すこと無く忠実かつ丁寧に映画化した佳作で、細部にまで行き届いた繊細な描写、演出がとても心地良い。
思春期の少女の目を通してこの作品描かれるのは大きく二つのテーマだとおもう。一つは成長して行く過程での自我と自己の確立、もう一つは生きていく中で死をどう位置づけるかということだ。
■自我と自己の確立
主人公のマイちゃんはクラスに馴染めず孤立し、そして気付くといじめの対象にすらなっていった。漠然と、女の子同士の自己を捨ててグループに所属せざるを得ない濃密な人間関係を拒否してしまうことから始まるその孤立が登校拒否へと繋がっていき、そしておばあちゃんの家で過ごす事になるわけだが、そこでおばあちゃんと一緒に行うのが魔女修行と言うものだ。
魔女修行と言ってもファンタジックなものではなく、もっと地に足がついた、例えば毎日のスケジュールを立てる、早寝早起き、規則正しい生活を送る、自分の意思で行動すると言ったようなもので、自律性を養って行くプロセスのことだ。裏庭の畑から野菜を収穫し、にわとり小屋から卵を取り、いちごジャムを作り、植物を植えて育て、料理、掃除、洗濯をこなす。全ては自分の意志で。その意志の力が魔女への第一歩だと、おばあちゃんは言い、マイも自主的にそれをやり遂げて行くようになる。
自我を確立し自我を中心として直観、感覚、感情、思考と意識、無意識の関係性を保つことで自己という全体の調和を取れるようになっていくこと、つまり精神分析学で言うところの「心の全体性(psychic totality)」の重要性がおばあちゃんの家という自然の中で魔女修行と言う名の自律的な行動を通して、生き生きと描かれて行く。
■生の中の死をどう位置づけるか
年頃のお子さんをお持ちの方は、お子さんから「人は、死んだらどうなるの?」と訊ねられたらどう答えるだろうか。あるいは「私、死ぬのが怖い」と告白されたときにどう答えるだろうか。
数年前、主人公マイちゃんに「人は死んだらどうなるの?」訊ねられたパパ(大森南朋)は「死んだら最後だ、もう自分というものも何も無くなってしまうんだ」と答え、続けてマイは「わたしが死んでもやっぱり朝になったら太陽が出て、みんなは普通の生活を続けるの?」と聞き、「そうだよ」と答え、マイは言葉に詰まり、そして不安と恐怖を抱えたまま生活を送っている。
パパが語った死は消滅であるという死生観は、おそらく正しい理解であり、現代人の多くが共有している死生観であり、その死=消滅ということを敢えて見ないことで、多くの大人はバランスを保っているのだろう。しかし、死ということと向き合うとき、消滅はある種の恐怖として人々の心に影を落とす。
作中でマイちゃんはおばあちゃんに今の私の意識が消えてしまうのが怖いといった、自己が消滅することの恐怖を訴える。そうだ。僕も怖い。おそらく誰しもが従容と死を受け入れることは出来ないだろう。「人は死んだらどうなるの」という問い掛けは問いかけられた側もまた、普段見ようとしなかった「死」について否応なしに向かい合うことになるし、また、相手が思春期の子供であったとき、大人が内面で処理しているように敢えて死を切り離してしまうということは、なかなか困難なのではないだろうか、とおもう。
おばあちゃんはそのマイの訴えに対して、魂と肉体の関係について語る。人は身体と魂があわさって生きていて、歳を取り死ぬことで魂は身体から離れて行き、また長い旅にでるのだと。肉体から解放されて魂は自由になるのだと言う。これはさまざまな宗教で語られる霊肉二元論とよばれる考え方だ。
霊肉二元論については脇本平也著「宗教学入門」を引用しよう。

宗教学入門 (講談社学術文庫)」(P154)
人間は、肉体と霊魂との二つの部分から成り立っている。この両者は、原理的には相対立する性質を有しながら、しかも、ともに結合して人間というものを存立させている。そして多くの場合、肉体に属するものとして、罪や迷いや死があると考える。いわば肉に必然的につきまとう罪や迷いや死が、紙の恩寵や赦しによって浄化され、あるいは、禁欲的な苦行によって乗り越えられ、そこに霊の救済や再生が実現する、というような信仰形態がこうして成立してきます。

キリスト教など一神教に代表的な考え方だが、仏教などでもこれに近い二元論的把握がなされ、ある程度普遍宗教に共通の理解と考えられている。
どのような考え方を取るにしても、生の中に死をどのように内包して、その恐怖を和らげるような一つの物語を語ることが出来るか。例えば死が消滅であるとしても、その消滅を受け入れることができるような死生観を、自身は信じていなくても、お子さんに「お父さん、お母さん、人は死んだらどうなってしまうの?」と問われたときに、その問いを受け止め、そして語ることが出来るか、そのヒントがこの作品にはあるだろう。
■物語が持つ力について
この「西の魔女が死んだ」の原作について、実は次のようなエピソードがある。

ダ・ヴィンチ 2008年 07月号 [雑誌]
(デビュー作「西の魔女は死んだ」について)
「この人ひとりにだけ読んでもらえば良い。そう思って書き終わったものを持っていったら、その人は私に何の断りもなく原稿を出版社に持っていっちゃったんですよ(苦笑)」
その人こそ誰あろう、臨床心理学者の故・河合隼雄氏だった。日本にユングを紹介した第一人者であり、物語が魂に及ぼす力について知り抜いているこの人が『西の魔女が死んだ』の最初の読者だったことの幸運を喜びたい。そうでなかったら作家・梨木香歩は誕生していなかったかもしれないのだから。
休学していた大学を卒業するため、イギリス留学から一旦帰国した梨木さんは、一時期、河合氏の下でアルバイトをしていたことがある。梨木さんにとって河合氏は「物語の可能性について目を開かせてくれた人」だった。『西の魔女が死んだ』を読んだ河合氏は「涙が出た。よかった。あの原稿はもう出版社に持っていったよ。これを出すことは意味があることだから」と臆する梨木さんの背中を押した。
「私自身は臆病な人間ですから最初はすごく葛藤がありました。一市民であり無名の私が誰にも知られず祈るように書くことが、何か社会の無意識にいい作用を及ぼすのではないか。少なくとも悪い方向にはいかないのではないかという漠然とした確信のようなものはありましたが、それを社会に実際に発信していく、ということとはまだ結びついていなかったのです」

河合氏は最晩年の最後の仕事として科学が持つ厳密さと人が持つ曖昧さとを共存させる人生観を構築出来ないか模索していたようだ。おそらく晩年、文化庁長官に就任したのもそういう背景があったのだろうとおもう。そのような河合氏だったが故に、この作品は世に出さなければならないと考えたのだろう。
そうやって出版された作品は100万部を超えるベストセラーとなって多くの人に届き、DVDのコメンタリーで同作のプロデューサーが「原作を読んだとき、この作品だけは映画化しなければならないという使命感を抱きました」と語っている様に製作者達に情熱を与え、そして丁寧な、実に丁寧な作品として作り上げられた。
僕は、人には知識やロジックを希求する時期と、物語を渇望する時期とがあるとおもう。経験上、それは交互に訪れて来て各々とり憑かれたようにそれを追い求める。それらは相反する概念であり、また共存させていかなければならない要素でもある。生きるためには、物語が必要なのだ。
そのような、物語を渇望する時期、特に本作で描かれる主人公と同世代の10代前半から20代にかけてのころにこの映画あるいは原作本は強い力となって生きるための物語として大きな影響を与えるのではないだろうか、と少々押し付けがましい言い回しだが、強くおすすめしてこの記事は終わりにしたい。少々ベタだが、良い物語です。

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5 いつまでも大切にしたいお話
3 原作を先に読んでいると… 残念な気分
3 美的化し過ぎ
4 「まずは早寝早起き」からの魔女修業
5 ゼッタイ見ておく映画です。じーまも魔女なので・・・

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5 心に響いた台詞を
3 まだまだ修行が足りないようです。
3 うすみどり色
5 心に静かに沁み込む
4 不思議な感覚がした

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