進化論教育は罪か?スコープス裁判と原理主義が変えたアメリカ

1920年代、禁酒法時代のアメリカでは、現代人から見ると不思議な法律が各州で次々と制定されていた。進化論を学校教育の場で教えることを禁止した反進化論法である。1925年3月、テネシー州でも反進化論法が制定され学校教育の場で進化論を教えることが禁じられると、その法律に反対する田舎町デイトンの生物教師ジョン・スコープスが反進化論法に反して進化論を教えたことを告白、同年7月、進化論を巡る裁判が開かれた。後世、この裁判は被告の名を取ってスコープス裁判、あるいは人間は猿から進化したという進化論からモンキー裁判と呼ばれ、アメリカの文化・宗教史上に残る大きな転換点となっていく。

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1)原理主義思想誕生小史

まずは、簡単にスコープス裁判へと至る当時のアメリカの社会・宗教状況をまとめておく。

・「金ぴか時代」の光と影

1865年、南北戦争が終結すると、アメリカは大きな構造変化の時代を迎えた。北部諸州を中心に農業社会から産業社会へと変化し大都市周辺には工業地帯が登場、鉄道が敷設され物流が活発になるとともに人々は西へ西へと開拓の歩を進めた。またそのような経済の急成長に惹かれて世界中から移民がアメリカへと渡り、爆発的に人口が増えていった。

反面、高い関税率と自由放任主義の元で巨大な独占企業が次々と生まれ、資本家と政治家の癒着が強まり、移民として渡ってきた人々の大多数は過酷な低賃金労働に喘ぎ貧富の差は拡大、また解放されたとはいえ黒人や女性、マイノリティへの差別も依然として根強く、転換期に見られる混乱と不安が人々の生活に影を落としていた。この浮ついた時代を作家マーク・トゥエインは「金ぴか時代」と呼んだ。

・「千年王国思想」

キリスト教の終末観は「千年王国思想」と呼ばれる。キリストの再臨によって審判の日を迎え至福の千年期を迎えるというものだが、19世紀までは人々の努力によって神の国が打ち立てられた後にキリストが再臨するという「後千年王国説」が基本的な解釈であった。しかし、19世紀末のアメリカではまずキリストが再臨してから神の国が作られるという「前千年王国説」が広まっていく。「後千年王国説」は毎日頑張って世界を良くしていくことでキリストが再臨するという前向きな思想であるのに対し、「前千年王国説」はそもそも終末を迎えると世界は悪くなる一方で、社会状況が悪化した果てにキリストが再臨して世界を良い方向へ変えてくれるという悲観的な思想だ。当時、目前に広がる貧困や格差に多くの人々が「前千年王国説」を受け入れ、後に第一次世界大戦での欧州の惨状が彼らの悲観的な終末観に拍車を掛けることになる。

・「社会福音運動」

19世紀末は貧困などの社会問題に対し、多くのキリスト教徒が福祉活動に力を注いだ時代でもある。彼らは「後千年王国説」に基づき、社会問題を積極的に解決していくべく様々な慈善活動を行った。YMCAや救世軍は19世紀初めに英国で生まれ、19世紀末のアメリカで特に盛んに行われた運動である。この時期に行われた教会による様々な福祉活動を「社会福音運動」と呼ぶ。

・「自由主義神学」と「高等批評」

「社会福音運動」に従事していた人々は福祉活動の中で、宗教の使命は神の愛だけであり、それは弱者への奉仕の中で実践される、聖書も教会も重要ではない、と考えるようになり、聖書や教義には科学的に誤りもあるとして、当時ドイツで生まれた「自由主義神学」に基づく「高等批評」に注目した。「自由主義神学」は近代合理主義や自然科学を踏まえてキリスト教を解釈しようという神学で、従来古文書等の研究で用いられた「文献批評学」の手法を聖書研究にも持ち込んだ。聖書も一つの文献であり誤りや聖書が記された時代と現代とで合わなくなった考えもある。そこで、科学的な批評と解釈を行うことで、究極的には人々の信仰心をより篤くすると考えられた。

・「社会進化論」

「自由主義神学」は英国の哲学・社会学者ハーバート・スペンサーの「社会進化論」に大きな影響を受けている。「社会進化論」はダーウィンの進化論~生物の自然選択、生存競争、適者生存が多様性をもたらすという考え方~を社会全体に敷衍した思想で、進化は社会の第一原理であり適者生存によって未開から文明へ、家内工業から機械工業へ、王の支配から多様な民主主義の時代へと移り変わり多様な時代へと社会は進化してきており、これからも進化していくとする考え方であった。この思想はキリスト教の「後千年王国説」とも親和性が高く、また日進月歩の産業・科学の進歩もあって広く受け入れられた。

しかし、「社会進化論」はそもそも生物の進化を社会全体の法則と捉えるという論理の飛躍から始まっており、人々をポジティブに奮い立たせ、ボランタリアリズムや進歩史観を生み出した一方で、適者生存という考え方は帝国主義による侵略や独占資本を正当化する論理に強い影響を与え、また優生学やドイツのアーリア民族優位説にも繋がっていく。さらにマルクスは「資本論」の執筆に際し社会進化論に大きな着想を得たと語っている。

アメリカでは「社会福音運動」の指導者であるジョサイア・ストロング牧師の「我が祖国」「膨張」などの著作がベストセラーとなった。これらはアメリカが「市民的自由」を体現するアングロサクソン文明の中心であり、その文明を世界に広めていくことはアメリカの使命であるとしたもので、宗教的に帝国主義政策を支持した。また社会進化論の影響下で「低開発地域に安定した統治形態を樹立し、その地域の人々が自分の運命を遂行しようとする努力をアメリカが助け、外部の干渉から保護する」(森孝一「宗教からよむ「アメリカ」」P18)という「帝国主義的反植民地主義」がアメリカの主流な考え方になっていく。

「自由主義神学」と「社会進化論」を思想的バックボーンにして科学と合理主義を受け入れ「社会福音活動」を行う彼らは「モダニスト」と呼ばれた。

・キリスト教原理主義の登場

上記のようなモダニスト達の聖書すら相対化しようとする動きに保守派は一斉に反発した。そもそもプロテスタントは様々な教派に差はあるもののルターが「聖書に帰れ」と言ったように概ね聖書を神聖視する。特に19世紀後半は社会構造の大きな変化と科学・産業の急激な進歩の中でかつての価値観が次々と失われて行った時期である。そのような変革の時代の中で多くの信者たちにとっては聖書は日々の生活の最後の拠り所である。ところがそれすらも疑えとモダニストたちは言う。必然的に大きな反発が生まれた。

A・T・ピアソンは「ちょうどローマ教会主義(カトリック教会)と同じように、高等批評(文献批評学)は、ただ学者だけが聖書を解釈できると考えることによって、人びとから神の言葉を奪いとっている。ローマは神の言葉と人との間に聖職者を置いたが、批評学は聖書と信者の間に高等教育を受けた解釈者を置いている。」(前掲書P191)と、進歩ではなく宗教改革以前の中世へ逆行しているという趣旨の批判を加えた。19世紀末から20世紀始めにかけてアインシュタインの相対性理論を始め専門家ですら理解するのに難しいさまざまな科学上の発見がなされ、高度な教育を受けたものだけが真実を理解出来る時代へと突入しようとしているという焦燥感を抱く人が少なからず存在するようになった。

1910年、プロテスタントの保守派たちが一同に会し「聖書の無謬性」「キリストの処女降誕」「キリストの贖罪」「イエス・キリストの肉体的復活」「キリストの奇跡の真正性」の「五つの基本信条」を文書化し、1910年から1915年にかけてこの中核思想を世に広める12のパンフレットがまとめられた。「諸原理(The Fundamentals: A Testimony to the Truth)」と名付けられたこのパンフレットは、それぞれ300万部印刷され、米国全土へ配布されていく。

当初、原理主義が批判の対象としていたのは「高等批評」など聖書を対象とした「文献批評学」であった。しかし、第一次世界大戦の惨状は自由主義神学の背景にある「社会進化論」へと批判の矛先を向かわせた。史上始めて全世界規模で起こったこの戦争によって数千万人の死傷者が出て、欧州は瓦礫と化し、科学の進歩によって作られた様々な兵器が使われ、スペイン風邪と呼ばれるインフルエンザの流行や、無神論の共産主義者によるロシア革命・ソビエト連邦の成立などこの頃に起きた様々な事象は前千年王国説を信じる原理主義者たちにとって黙示録の世界そのものだった。

進歩を謳った社会進化論が帝国主義思想を生み、大量殺戮兵器を作り出し、社会を混乱させていると彼らは考え、強い危機感を抱いた。そもそも原理主義者は前千年王国が現実を悲観視するため、現実世界を従容として受け入れあまり政治にコミットしないものだったが、この危機感がその姿勢を180度転換させた。さらに反共産主義、反知性主義的ナショナリズムと結びつき排外的な思想を強化していった。そのような中で適者生存、弱者切り捨て、帝国主義思想の根源であり、エリート達による少数者の支配思想としての「社会進化論」を象徴する思想が「進化論」であると彼らの目には写っていた。

かくして「進化論は文明を危うくする」という共通理解が保守的な人びとの間に広がり、アメリカ南部を中心とした諸州で学校教育の中で進化論を教えることを禁じる「反進化論法」が成立していくことになるのである。

2)スコープス裁判

1925年3月、テネシー州議会によって「反進化論法」が制定されると、リベラル団体ACLU(American Civil Liberties Union, アメリカ市民自由連合)はその反進化論法の是非を問う裁判を行うために進化論を教えたことで逮捕されても良いと思っている志願者を広告で募集、その広告に飛びついたのがテネシー州の田舎町デイトンの有力者たちだった。彼らは町の売名のため生物教師ジョン・スコープスがデイトン高校で2週間だけ臨時教師をした際、進化論を教えたと言う証言を取り付け、彼らに推されるかたちでスコープスは逮捕されることになった。

早速、ACLUは当時全米で最も有名かつ辣腕で知られる弁護士クラレンス・ダローを団長とする弁護団をスコープスの弁護につけ、それに対して原理主義勢力は弁護士で過去三度に渡り民主党大統領候補となり、ウィルソン政権では国務長官も務めた大物政治家のウィリアム・ジェニングス・ブライアンに検事を要請し、1925年7月10日、のべ10日間続くスコープス裁判が開廷した。

・ウィリアム・ジェニングス・ブライアン

この裁判で特に注目すべきなのがウィリアム・ジェニングス・ブライアンという人物だ。彼は1860年生まれ。”Great Commoner”(偉大なる庶民)と呼ばれ一般人の良識に絶大な信頼を置き、反エリート主義で民衆の意見を直接政治に反映させようというポピュリズムの体現者だった。演説家としても知られ1896年、1900年、1908年の三度民主党大統領候補となったときは全米を演説し、直接民衆の声を聞いてまわった。のちにアメリカの大統領選で行われる大統領候補の全米遊説は彼が始まりだと言われる。国務長官に就任してからは累進課税の導入、上院への直接選挙制、婦人参政権の導入、政治資金公表義務法などが彼のイニシアチブの下で実施された。

いわば弱者に優しい政治、民衆のための政治を実行する名政治家と当時見られていた人物だ。

また、彼自身は特に原理主義に傾倒していたわけでは無い。それどころか彼は人類の可能性を信じていたし、社会に対して悲観的な見方もしていなかった。原理主義勢力との共通点はただ一点、彼は強力な反社会進化論者だった。善意にあふれる政治家であったが故に、彼は社会進化論者が唱える適者生存・弱者切り捨ての正当化を断じて許すことが出来なかった。

1920年、ブライアンはドイツの軍国主義はダーウィンの進化論の影響であるという進化論批判の演説をするため全米をこう訴えてまわった。
「ドイツが毒ガスを戦争に使用したのは、神が人間を創造した、という聖書の教えを否定し、人間の祖先は猿であるという間違った認識を進化論者が広めたためだ。それが、残酷な兵器使用に対する抵抗感を弱めたのだ」「進化論は青年たちに有害な影響を及ぼしている。進化論を放置すれば米国の道徳的退廃は必至である。」(以上小川忠著「原理主義とは何か」P60-61)

彼の熱心な遊説が当時「反進化論法」の成立に与えた影響はとても大きい。彼は社会進化論思想の適者生存を嫌悪するが故に、進化論を敵視したのだった。また、反進化論法とともに禁酒法も彼が国務長官時代に成立に貢献した法律で、この二つは彼の大きな汚点となっている。

・原理主義の失墜

このような当時の大物二人が、当時キリスト教を二分していたモダニストvsファンダメンタリストを代表して進化論を巡って裁判が開かれるということで、全米の注目を集め、マスコミはこぞってデイトンに駆けつけた。マスコミ関係者や傍聴者があまりにも多数集まったため、裁判所の建物に入りきらず屋外に急ごしらえのステージが設けられて開廷することになった。町には屋台や見世物小屋が出来、スコープスは「サーカスのような雰囲気」だったと述懐している。

まず、ダローら弁護側は科学者や聖書学者ら専門家を証人として呼び聖書と進化論は矛盾しないこと、スコープスは反進化論法に違反していないことの二点を訴えようとしたが、検察側はそれに難色を示し、専門家の招致の是非を巡って審議はストップした。結局裁判長もファンダメンタリスト寄りの人物であったため専門家の招致は認められなかった。

元々デイトンは特に保守的な土地柄で、裁判長も陪審員もみなファンダメンタリズムに好意的な保守的な考え方の持ち主であり、全くと言っていいほど被告に勝ち目は無かった。そして専門家の招致が認められなかったことでさらに不利になったかに見えた被告側だったが、そこでダローは凄腕弁護士らしく巧みな公判戦術を見せる。

ダローは検事であるブライアンの証人尋問を要求したのである。理由は何でも良かったのだろうが、一応「上訴用の記録を残すため」と称し、後日ダローら弁護士3人を同じように証人として尋問を受けるというブライアン側からの条件も飲むことでブライアンを証言台に引っ張り出すことに成功した。このブライアンに対する証人尋問が後世の歴史すら一変させてしまうほどの起死回生の一撃になった。

ダローはこの尋問を利用してブライアンの聖書や歴史、科学に対する知識の矛盾や無知を鋭く突いていった。「イブはどのようにしてアダムの肋骨から生まれたのか?」「ノアの洪水の発生年代は?」「地球は6日で作られたとおもうか?」その都度ブライアンの無知さが明らかになった。そもそもブライアンは原理主義者ですら無かったのだから、当然と言えば当然だが、しかし彼の無知はまたフェンダメンタリストたちの無知としても捉えられた。決定打は天地創造についての質問で、『神は一日目に光を、二日目に大空と海を、三日目に地と陸と植物を、四日目に太陽と月を創造し、それぞれの日に夕となり朝となった、とあるが、太陽が創造される以前にどうして「夕となり朝となる」ことが分かったのか?』とブライアンに訊ねたのであった。

この尋問の途中臨席していた司法長官がブライアンの様子を見るにみかねて止めに入るが彼はこう言って毅然と退けたという。「私は単に,神の言葉を合衆国最大の無神論者,否,不可知論者から守ろうとしているだけである。私は彼を前にして証言台に上がり彼の思い通りにさせることを恐れていない,ということを記者の人達に知って欲しい。私は世界の人々に知って欲しい」正々堂々は確かに人の美徳ではあるが、この場合は自滅行為だった。

裁判を傍聴していたマスコミはブライアンの毅然とした態度ではなく、頑迷さ偏狭さ無知さを報道し、ブライアンの名声は地に堕ちた。そして彼が代表していたファンダメンタリストたちもまたアメリカ社会から過去にしがみつく、科学と知性の敵、表現の自由の敵だという汚名が与えられることになる。

7月21日、裁判はダローに対する反対尋問はなされぬまま結審する。被告ジョン・スコープスは罰金100ドルの有罪。しかし、勝者は明らかだった。
・・・ブライアンは7月の熱い夏、屋外という異例の環境で行われ、さらにこれまでの名声がすべて灰燼に帰すほどの屈辱を受けた裁判という疲弊した状況ですぐに名士として各地に招かれる。7月21日から7月24日までの三日間で実に1100キロ以上も移動し演説してまわった。
7月24日朝デイトンに戻ってきてすぐに午前中の教会での礼拝でスピーチを行い、宿舎に戻って家族とともに昼食、その後、溜まった疲れを癒すため彼は仮眠を取り・・・二度と目をさますことは無かった。享年65歳。遺体は特別列車でワシントンに運ばれ、国立アーリントン墓地に埋葬された。裁判が終わってわずか三日後の死だった。

3)茶番劇が変えたもの

ブライアンが命を削ったこの裁判は、残念ながら茶番劇以上でも以下でも無かった。しかし皮肉にもその茶番がアメリカの歴史を大きく変え、そしてさらなる悲劇と対立のうねりを作り出していくことになる。

・スコープス裁判後の保守とリベラル

この裁判のあとキリスト教原理主義は急速に支持を失い、わずかに残った原理主義者たちは時代遅れ、異端者として長く差別と迫害を受けることになる。1930年代以降彼らは中西部、南部に独自に教会や原理主義思想を教育する大学(「ボブ・ジョーンズ大学」など)を作り、文字通りその中に隠れ外界から隔絶されていく。その隔絶された「聖域」で彼らは思想を先鋭化させ、自分たち以外はすべて敵であると考えるようになり、自分たちはリベラルや無神論者と戦う神の戦士であるという極端な思想を再構築していく。彼らは息を潜めつつも50年代~60年代にかけてテレビ伝道などを駆使してじわじわと勢力を拡大、1970年代に入って一気に反撃をはじめることになる。

原理主義勢力が表舞台から去った後モダニズム一色になったわけではなく聖書を基本とした信仰中心の生き方を望む人達は少なくなかった。聖書の批判的な見方やリベラルな思想に反感を覚えるが原理主義のような過激な前千年王国思想も受け入れられないといういわば穏健な宗教保守思想の受け皿として1930年代以降登場するのが「福音派」と呼ばれる勢力である。彼らは30年代の恐慌という社会不安の中で勢力を拡大し、第二次大戦後から60年代のリベラルの時代の中でもリベラリズムを受け入れられない人びとを中心に着実に支持を集め、いわゆるアメリカの保守本流を形成する。

一方、裁判の実質的な勝者であるモダニストたちもまた、1930年代から第二次世界大戦のかけての暗い時代の中でその楽観的すぎる進歩思想は説得力を失い退潮する。代わってより現実的なリベラリズムが姿を現して行く。それはルーズベルト大統領が大恐慌からの脱却を目指して行ったニューディールという諸政策とそれを支持する「ニューディール連合」とよばれる連邦政府を支持する広範な人びとで長老派などのキリスト教主流派と黒人教会などからなる諸派だ。ルーズベルト政権以降第二次世界大戦終結後から1960年代末までに公民権運動や同性愛者の人権、フェミニズム運動などが一気に活性化しリベラリズムの時代をアメリカは謳歌する。

1960年代後半になると、ドラッグ、ヒッピー、フリーセックス、家族の崩壊、犯罪の増加、伝統的価値観の解体など「行き過ぎたリベラル」という問題を多くの人びとが感じるようになっていった。さらに70年代に入ってヴェトナム戦争の失敗、ウォーターゲート事件に代表される政治腐敗と巨額の財政赤字など連邦政府とリベラリズムに対する失望感や社会不安が広くアメリカ社会を覆う中、キリスト教信仰に目覚める人びとが続出していった。彼らは聖書に帰る回心(ボーン・アゲイン)を告白し福音派の勢力が一気に急拡大した。

そのような社会状況の中でテレビ伝道師だった原理主義指導者の一人ジェリー・ファルウェルはモラル・マジョリティという団体を設立し原理主義に限らず広く福音派などの宗教保守派を糾合して2000万人とも3000万人とも言われる巨大な宗教保守勢力(通称:ニューライト)を形成。ロナルド・レーガンの大統領就任を草の根レベルで支援し、政権に強い影響を及ぼした。80年代半ばにモラル・マジョリティは解散するが、一度作り上げられた巨大な保守勢力はその後も共和党と強固に結びつき宗教保守派の考える中絶禁止、同性愛結婚の禁止、学校での祈りの強制、宗教教育といった各種政策を主張する巨大な政策圧力団体と化して両ブッシュ政権を支援しクリントン政権と激しく対立していく。2004年時点の調査では宗教保守派は7000万人とも言われるように、保守とリベラルというアメリカの二つの思想の一翼を担う程に巨大化していくことになるのだった。

・進化論とアメリカの教育問題

最後に、スコープス裁判後の進化論を巡る動きについて。

20年代に各州で施行された反進化論法だが、スコープス裁判後はほぼ形骸化し順次廃止されていった。それでも最後まで残ったテネシー州の反進化論法は1967年まで続く。

1950年には時のローマ教皇ピオ十二世が進化論と聖書は矛盾しないという教皇回勅を出し、ヨハネ・パウロ二世も81年と96年に同様の趣旨の演説を行っており、カトリックはほぼ進化論を受け入れていると考えられているものの、アメリカのプロテスタント社会はそうではない。
1973年、テネシー州議会は「創世記法案」という新たな州法を制定、聖書の創世記と進化論を同様に教えなければならないとした。これは75年に違憲として廃止されるが、これを皮切りに70年代以降活性化した宗教保守派の活動に合わせてかたちを変えた進化論を巡る争いが教育の現場を主戦場として始まる。

共和党と強固に結びついた宗教保守派は80年代に入ると聖書の人類創造を科学的なアプローチで体系化した「創造科学」という説を主張。進化論と創造科学の二つの科学を学校で教えるべきとする「同一時間法」を20以上の州議会に提出。81年にはルイジアナ州とアーカンソー州で可決され施行された。これらは後に違憲となるものの、イタチごっこ的な様相を呈している。その後創造科学はインテリジェントデザイン説というものにかたちを変え、現在でも一部の州や学校で導入が進められようとしているなど進化論を巡る争いは尾を引いている。

近年では進化論かID論かというような論争ではなく徐々に進化論に反対するという考え方の背後にある、人びとの希望によりマッチした論争に進みつつある。宗教保守派の伸長の中で進化論など科学やリベラルな教育を重視する公教育に対する失望も広がる中、進化論論争に代わって90年代以降の宗教保守派が強力に後押ししているのが「スクール・ヴァウチャー制度」「ホーム・スクーリング制度」「チャーター・スクール制度」の三つだ。

スクール・ヴァウチャー制度」は生徒が私立学校等に通う場合に金券や資金を無償供与するものだが、州によっては必要な学費の数倍の支給がなされ、実質教会系学校が多い私立学校に通うことを促進するかたちになっていることがあり、共和党が強く支持し、民主党が反対している。

ホーム・スクーリング制度」は子供を学校に行かせず家庭で親が教育するというもので、2000年には約200万人にまで急増している。これを支持しているのは宗教保守派やマイノリティ教団に属する人びとが多く、宗教教育を子供に受けさせたいと願う人びとの圧力を背景に共和党が強く主張している。これについては実施している州では両親の資格や教育内容を厳密に定めることが多いが、それに対して反発も少なからずあり、今後社会問題化が懸念されている。

チャータースクール制度」はPTAや企業・NPOなどが州の教育委員会から特別認可を受けて独自の学校設立を行うことを可能にする制度である。しかし2000年にアメリカ連邦政府がまとめた調査によるとチャータースクール設立理由で最も多く挙げられたのが「学校教育について従来と異なるヴィジョンを実現させるため」としたもので、これらの多くに宗教や道徳教育等を重視することが含まれていると考えられている。

このように、進化論を巡る争いは表面上は科学と宗教の対立というように見えるが、実は「保守」と「リベラル」というアメリカの二つの思想の対立であり、彼らが依って立つ価値観を巡る争いであり、そして自由と安心という相反する二つの願いの問題であると言える。そしてそれは現在、自分の子供に受けさせる教育を選ぶ自由を巡る争いへと移り変わってきており、科学か宗教かという二項対立では決して解決出来ない問題になっているといえるだろう。

この深刻な二重構造をいかにして融和させていくか、がアメリカが構造的に抱える大きな問題の一つだということがいろいろ調べてみてわかってきた。アメリカのキリスト教を巡る諸問題についてはあといくつか記事に書こうと思います。

参考書籍・参考サイト
・森孝一著「宗教からよむ「アメリカ」 (講談社選書メチエ)
・蓮見博昭著「宗教に揺れるアメリカ―民主政治の背後にあるもの
・大宮有博著「アメリカのキリスト教がわかる―ピューリタンからブッシュまで
・飯山雅史著「アメリカの宗教右派 (中公新書ラクレ)
・小川忠著「原理主義とは何か―アメリカ、中東から日本まで (講談社現代新書)
CiNii 論文 – < 論説>1920年代アメリカの進化論論争を振り返って : 二つのドグマの衝突
社会進化論 – Wikipedia
進化論裁判 – Wikipedia
ウィリアム・ジェニングス・ブライアン – Wikipedia

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