暴走する「甘やかな連帯」

梨木香歩著「ぐるりのこと (新潮文庫)」(P175-176)
十年程前、ある講演会場で、学校へ行かない子どもたちの孤独について話していたときのこと、質疑応答の時間になって、前の方の席で聞いていてくださった年配の男性が立ち上がり、「今の時代の大変さを言っていたようだったが、僕たちの頃は戦争中で、まず食うことが大変だった。学校は授業らしい授業もなく、僕たちは学徒動員で……。今の子たちとは比べ物にならない大変さだった。そのことについてどう思うのか」と質問された。私はまず、その人が「僕たちは」という言葉で、自分たちのことを述べた、そのことについて、「甘やかな連帯」のようなものの自覚はないか、訊いた。「僕たちの頃」、その方がそう言ったときのどことなく誇らかな調子が、何か郷愁のようなもの、宝物を見せるときのような二ュアンス、私がそのときテーマにしていた子どもたちが、望んで決して得られない何か、そしてその人自身もどこかでそれに気づいている―自分が持っている宝―それについて語りたいのだということが察せられたからであった。私はそれが確かに素晴らしい宝であること、うらやましく思うことを正直に言い、そしてその人はそれを認め、私はそれを受けて、けれど、「僕たち」「私たち」で語ることの出来ない孤独について、引き続き何か語った、と思う。
「群れ」にあるということ、それ自体が人を優越させ、安定させ、ときに麻薬のような万能感を生む。そして人は時々、群れを外れている人に向かってそれを確かめ、群れの中にいることの快感を得たいと思う。
甘やかな連帯は、そういう、そこはかとないところで止めておくのが健やかさを保つ鍵である。その快感への渇望が暴走すると、異分子を排除しようと痙攣を繰り返す異様に排他的な民族意識へと簡単に繋がる。

梨木香歩が言う「甘やかな連帯」は、その人を取り巻く環境が不確実なものであればあるほどに、その空想上の「甘やかさ」にすがりたくなるものだと思う。その甘やかな連帯を実感したいと思うが故に、連帯するものたちのウチとソトを明確に峻別し、連帯を確かめるべくソトに対して自身が所属する「我ら」を強調する。そして、その甘やかさは多くの場合想像上の過去が理想像とされていく。

自身を取り巻く社会の不確実性が増し、危機が迫る中で、その危機を克服するために過去にユートピアを設定し、複雑化した社会の中で、自身の安定の拠り所となる理想郷「甘やかな連帯」を渇望し、その形なき「甘やかな連帯」をわずかでも毀損しようとする者たちに「憎しみ」を向けて行くことになるのだろう。

「われわれがある人間を憎む場合、われわれはただ彼の姿を借りて、われわれの内部にある何者かを憎んでいるのである。」ヘルマン・ヘッセ「デミアン (新潮文庫)

己が誰かに憎しみを向けるとき、なぜ、己は憎しみを抱くのかを問えるかどうかが、「甘やかな連帯」を暴走から救う鍵になるのだろう。しかし、往々にしてそれは大きな困難を伴ない、時に新たな対立すら生む。

“Always remember others may hate you but those who hate you don’t win unless you hate them. “Richard M Nixon
(いつも覚えておきなさい。他人が貴方を憎んだとしても、あなたが彼らを憎まない限り、彼らはあなたに勝つことは無いのだということを。)
リチャード・M・ニクソン(第37代アメリカ合衆国大統領)

せめて、憎しみの連鎖を生まないことだけしか無いのかもしれない。最近の、特にWEB界隈での風景を見ると、甘やかな連帯の暴走が目立ってきているような気がして、得体の知れない不安を覚えることがある。彼らの不安や恐れを排除と排他によってではなく、理解と信頼によってつなぐことはやはり出来ないのであろうか。

ぐるりのこと (新潮文庫)
梨木 香歩
新潮社
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