愚迷の帝王が打ち込んだ楔

2010/4/21 党首討論-谷垣vs鳩山前編

2010/4/21 党首討論-谷垣vs鳩山後編

三宅観瀾(みやけかんらん)は十七世紀後半~十八世紀初頭の朱子学者である。徳川光圀の下で「大日本史」の編纂に関わり、水戸藩の朱子学研究機関「彰考館」の総裁に就任、その後、新井白石に招かれて幕府の儒官として活躍した。
彼は著書「中興鑑言」で後醍醐天皇の政権について論じ、後醍醐天皇の建武の新政の迷走ぶりをこう評した。

「知らずしてこれをなす、これを愚という。知りてこれをなす、これを迷という」

後醍醐帝の建武の新政は、疲弊した鎌倉幕府に代わって政権を奪取した当初は民心を得て、大きな構想と天皇親政の強いリーダーシップの元で華々しく始められたが、すぐに頓挫する。

(山本七平著「現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)」P193)
いわば、後醍醐帝は大きな構想をもち、それを急速に実行に移そうとしたのだが、それを現実化しうる能力のある者がいなかった。優秀な官僚群がなくそれの組織化もできていなかった。さらに帝はその時代の民情・風俗を全然知らなかった。そのためその施政は初期には華々しく展開されたが、結局は「構想倒れ」に終わったわけである。

何が悪かったのか、観瀾はこう指摘する。

号令の発するや、朝に定め暮に改め、彼より奪いこれに与え、内批廷断、常に矛盾をなす。論功の主吏、依違沮閣し、往々数人を以て一賞邑を争い、所在これがために擾動す。これまさに綸ふつ(糸編に孛)の言をして、反覆泛濫して適従するところを知らざしめんとす

命令を発しても朝令暮改、奪ったかと思うと与え、上下の意志は一致せず、常に矛盾をなしている。賞罰の担当者たちは互いに手続き・意見がまちまちで、数人で一つの賞となる領地を争い、このことで天下をかき乱している。後醍醐天皇の言は何度もくりかえされて溢れかえり、どれに従って良いかわからなくなっている。

意を恣にして芸なく、因循せざれば擾動し、法すら且つ蕩然として持拠する所なく、ついに天下の民をして淫縦争奪し、窮怨交交起こらしめ、時に方りて禍発すれば一敗して救わず。これ以て論をなすに足らざるなり。

専制的に勝手気ままに権力を振るうが統治能力は無く、前例を守って何もしないか、あるいは天下をかきまわすだけ、自分で定めた法ですら自分が守っていこうともしない。人々は次第に欲のままに勝手に相互に争い奪い合い、生活に苦しみ政権を恨むようになる者が相次いで起こるようになる。何かあれば一気にひっくり返って当然だ。これ以上論じる必要もない。
後醍醐帝は高い理想と幅広い構想力、少なくとも愚かではない政治センスを持っていたが、反面、世情に疎く、自意識が異常に強く、肥大化した自己無謬感・全能感に囚われていた。特に偶然といっていいぐらいに北条氏から政権を奪取できたことでその全能感に手がつけられなくなり、結果として政権を失っていく。
観瀾は後醍醐帝の幼き日の環境にもその一因があるとしている。

今の上たる者、生まれながら天下の富貴を以て自ら享け、襁褓齠齔(きょうほちょうしん)、輔くるに保姆滕御(ほぼようぎょ)を以てして、その怡コニを済しその叱詈を縦にし、或いは挫折違忤するなし。

皇族たる者、生まれながらに天下の財を享受することができ、二、三歳から七、八歳の幼い時期、保母や老女に助けられて、喜びも悪口も好きなように言い、やめさせたり機嫌に逆らっても正されるというようなことはなかった。
要するに幼い頃に恵まれすぎた環境にあったことでスポイルされてしまったということで、それは必ずしも後醍醐天皇だけに責任が帰されるものではなく、後醍醐帝とその臣を責めるより「世習の正しからざることを詰らん」と語っている。
後醍醐政権は華々しいスタートを切ったものの、人々の離反を招き足利尊氏の挙兵によってわずか二年あまりで瓦解した。
政権瓦解後も後醍醐帝の執念は止むところ無く、二人の天皇が立つ南北朝時代となり、政権は長らく分断の時代を迎え、南北統一後も後醍醐帝につき従った「悪党」と呼ばれる勢力が各地で力を蓄ていき、基盤の脆弱さをはらんでいた室町政権は各地で頻発する反乱に手を焼き、南北統一から半世紀あまりで勃発した応仁の乱によって戦国時代へと突入。豊臣・徳川氏によって統一されるまでの長い戦乱の遠因はまさに後醍醐帝の愚迷さにあった。
そして、この後醍醐帝をどう扱うかが、江戸時代、朱子学の一大テーマとなって発達し、その朱子学は天皇の正統性をうたい、天皇から将軍職を任じられている徳川の統治の正統性を支える原理となったが、一方で幕末になると天皇の正統性はすなわち勤王思想へと転化して倒幕へと繋がっていく。そして明治以降、愚迷であっても天皇に忠義を尽くし「君たらずとも臣」であった楠木正成や新田義貞らが再評価されて神格化され、統治規範として儒教的神道思想の一端を担い、その規範意識は戦後もいわば「空気」のようにして社会に横溢することになる。
歴史を振り返ってみると政体が制度疲労を起こしている中で、後醍醐天皇ほど強烈ではないにしてもプチ後醍醐のような人物が登場し、数年と言わず数百年単位の長きに渡って影響を及ぼす「くさび」のようなものを打ち込んで退場していくというプロセスを辿ることが往々にして起こる。
愚迷の帝王後醍醐が、その愚迷さによって700年あまりものあいだ抜くに抜けない巨大な「くさび」を打ち込んだように、ここ十数年の政治、社会の混迷は再び大きく深い、長く抜けないだろう「くさび」をこの社会にグサッと打ち込んでいるんじゃないかと思うことがある。
鳩山氏は確かに愚迷のカリカルチャ的な存在感だが、歴代の指導者たちも大なり小なり愚であり迷であった、あるいは愚迷であることを余儀なくされ、または愚迷であるかのように煽られた。まるで、人々は彼らが愚迷たることを熱望し、投影しているようでもあった。
三宅観瀾の後醍醐評はことごとく現政権に当てはまっているかのように読むことができる。それは、確かに彼らの資質や能力や体制の問題も大きいが、我々もまたそれをどこかで望んでいるのではないだろうか。政権の愚かしさを責めることは容易いが、三宅観瀾がそうしたように、あえて「世習の正しからざることを詰」ることが必要だろう。世習とはまさに我々が形成しているものだからである。
上記の動画や政治家たちの言動に愚かさを感じるとき、その気持のどこかに、自身の愚かさの投影である面はないだろうか。あるいは政治家の愚かさの発露を望んでいないだろうか。あるいは愚かさを叩くことに喜びを感じていないだろうか。何故、愚かだと思うのだろうか。
テレビでもお馴染み政治学者の山口二郎先生のブログでポピュリズムについてとてもよくまとまっていた論考をみつけたので、そこから引用する。

08 年5月:ポピュリズムと民主政治についての考察 | YamaguchiJiro.com
1960年のアメリカ大統領選挙におけるケネディとニクソンのテレビ討論は、民主政治におけるテレビの影響力を決定的に高めた歴史的な画期であった。もちろん、ニクソンはメディア政治における自己演出についてケネディに遅れを取り、苦杯を嘗めたのであるが、そのときに彼の言った言葉が印象的であった。
 「人々はケネディの中に自分がこうありたいと思うものを見出し、ニクソンの中に自分が実際にそうであるものを見出す」
 ケネディ、ニクソン、それぞれの人となりが実際にどんなものかは重要ではない。メディアに映った政治家のイメージに人々は自分の美しい面と醜い面を重ね合わせるとニクソンは言いたかったのであろう。それこそが、近代的なポピュリズムの要諦であった。
(中略)
社会保険庁の杜撰な業務や、道路予算の無駄遣いなど、政府が犯す明らかな誤りをたたくことは、民主政治におけるメディアの使命である。しかし、悪をたたくこと自体がステレオタイプ化するとき、思考停止が始まる。思考を停止したまま、悪をたたくことに共鳴し、そのことに満足している人々は、ポスト近代型ポピュリズムの担い手となる。このようなポピュリズムの蔓延は、民主政治を劣化させる。しかし、どこまでが正当な批判で、どこからがステレオタイプかを識別することは困難である。なるべく多様な言論を並存させ、そうした言論の摩擦や軋轢の中でステレオタイプを崩していくしか方法はない。

「愚迷の帝王とは、私自身のことではないか?」。一人ひとりがその終りの無い問いを問い続ける、ある種苦行にも見える活動こそが、実は民主政治の要諦であるように思う。そして苦行ゆえに民主政治は腐敗するのだろう。
※三宅観瀾の「中興鑑言」とその意訳については山本七平著「現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)」より引用または参照。
参考書籍・サイト
・山本七平著「現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)
・山本七平著「現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)
・網野善彦著「異形の王権 (平凡社ライブラリー)
三宅観瀾 とは – コトバンク
08 年5月:ポピュリズムと民主政治についての考察 | YamaguchiJiro.com
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