「永遠に差別を!」米国を分断した政治家ジョージ・ウォレスの生涯

segregation now, segregation tomorrow, segregation forever.
(今日も人種隔離を!明日も人種隔離を!永久に人種隔離を!)

1963年1月、アラバマ州知事に就任したばかりのジョージ・ウォレスはその就任演説でこう叫び、駆けつけた支持者たちから大歓声を浴びた。

一見、人種差別主義者の典型のような人物に見えるが、アメリカでは彼の評価は真っ二つに分かれているという。一方は偏狭な人種差別主義者として、他方では二大政党制にこだわらず草の根の民意を反映することに尽くした人物として。

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■南北戦争とアメリカ南部小史

・南部と北部の対立

1776年、北部十三州が大英帝国から独立して以降、数々の侵略戦争、買収、入植等によってアメリカ合衆国の領土は拡大の一途を辿り、1790年に393万人だった人口は1830年にはおよそ1286万人と急増し、それにともなって、北部、南部、西部の三つの地域がそれぞれ独自の発展を遂げた。西部開拓については今回は割愛するとして、北部と南部はそれぞれ全く違った発展を遂げ、それが深刻な対立をもたらすことになった。

1840年代のアメリカ北部は産業革命を迎え数々の工場が作られると、職を求めて多くの移民が流入、金融・商工業が盛んになり、啓蒙主義的思想と、労働力不足から黒人奴隷を解放し労働者にしようとする傾向が強かった。一方、南部はやはり産業革命の恩恵から綿花需要が高まり、黒人奴隷を使ったプランテーション栽培が盛んになった。特にイギリス向けに輸出が増大、やはり1840年の統計によるとアメリカの輸出額の52%が南部で栽培された綿花輸出で占められていた。両者の立場の違いは様々な面で見られ、例えば商工業を中心とした資本主義が浸透していた北部は貿易に関しては高関税による保護政策を望み、綿花輸出に頼っていた南部は低関税による自由貿易を希望していたし、深刻な労働力不足に悩む北部では労働力を求めて奴隷解放を進め、奴隷制度によって成り立っていた南部では奴隷制度の存続を求めていた。

この両地域はことごとく利害が対立し、特に奴隷制度を巡ってはキリスト教的価値観から反対運動が激化、奴隷制拡大を望む南部と、奴隷制廃止を望む北部の間で駆け引きが繰り広げられる中で、1854年、新しい州が独自に奴隷制導入の是非を決定することができる「カンザス・ネブラスカ法」の成立によって新準州となったカンザスに開拓者たちが流入。賛成派反対派の間で武力衝突を引き起こし「流血のカンザス」と呼ばれた。

・南北戦争

1860年、奴隷制度廃止派のエイブラハム・リンカーンが大統領に就任すると、翌61年にサウスカロライナ州、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州の南部六州(後テキサス州も加わり七州)はアメリカ合衆国からの脱退を宣言、アメリカ連合国を結成し、南北戦争の火蓋が切って落とされた。さらにバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州の四州もアメリカ連合国側に加わり、文字通りアメリカを二分した激しい戦いになる。

北軍でグラント将軍とともに活躍し、近代戦の父として名高いウィリアム・シャーマン将軍は戦争をとても憎んだ人物として知られている反面、残虐なほどに南部を徹底的に破壊し尽くした。ジョージア州都アトランタを焼き尽くし、ジョージア州一帯の鉄道・通信インフラを破壊し、サウスカロライナ州都コロンビアを炎上させ、大西洋岸一帯を攻略した。戦争を憎んだ平和主義者の顔と、冷徹な戦略家の二つの顔を持つ彼は後年、退役軍人の集会でこうスピーチをした。

「今日ここには、たくさん若い人たちも集まっていて、戦争は栄光に包まれたものだと思ってます。しかし皆さん、戦争はすべて、地獄なのですよ」(猿谷要著「物語アメリカの歴史―超大国の行方 (中公新書)」P104)

最終的に北軍が勝利を収めたが、四年間で南北両軍あわせて死者62万人という甚大な被害を出し、南部は完膚なきまでに破壊された。しかし戦争という地獄は、終わることの無い無間地獄の始まりに過ぎなかった。

・奇妙な果実とソリッドサウスの誕生

1877年、連邦政府軍が南部から撤退し、かつて北部を覆っていた黒人公民権への熱気が失せて行くと、奴隷解放は後退していった。1883年、黒人公民権を認めた憲法修正十四条よりも各州の州法が優先する判決が最高裁で下り、さらに1896年には白人と黒人の分離も合法とする判決が降りると、南部では合法的な黒人差別が行われていった。

南北戦争直後、悪名高いクー・クラックス・クラン(KKK)が結成され、黒人に対するリンチ殺人が急増した。1885年~1930年の間でジョージア、ミシシッピ、テキサス、ルイジアナの四州だけで1591人のリンチ被害者がいたとのことだが、統計数値に出ない被害者の数はこの数十倍ともいわれている。夜ごと、黒人を縛り首にし、木に吊るして見世物にすると言う常軌を逸した行為が行われ、文字通り南部は恐怖が支配した。

歌手ビリー・ホリデーは、その横行する人種差別を告発する歌「奇妙な果実」を発表した。奇妙な果実とはその吊るされた黒人のことだ。

奇妙な果実 – Wikipedia
Southern trees bear strange fruit (南部の木には奇妙な果実がなる)
Blood on the leaves and blood at the root (葉には血が、根にも血を滴たらせ)
Black bodies swinging in the southern breeze (南部の風に揺らいでいる黒い死体)
Strange fruit hanging from the poplar trees. (ポプラの木に吊るされている奇妙な果実)
Pastoral scene of the gallant south (美しい南部の田園に)
The bulging eyes and the twisted mouth (飛び出した眼、苦痛に歪む口)
Scent of magnolias sweet and fresh (マグノリアの甘く新鮮な香りが)
Then the sudden smell of burning flesh. (突然肉の焼け焦げている臭いに変わる)
Here is a fruit for the crows to pluck (カラスに突つかれ)
For the rain to gather for the wind to suck (雨に打たれ 風に弄ばれ)
For the sun to rot for the trees to drop (太陽に朽ちて 落ちていく果実)
Here is a strange and bitter crop. (奇妙で悲惨な果実)

奇妙な果実
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5 生き方と歌とが渾然一体となる圧倒的説得力
5 『ビリー・ホリデイ/奇妙な果実』

南北戦争によって徹底的に社会基盤が破壊され、自身の依って立つ文化が否定され、そして北部の経済成長からも、拡大していく西部開拓からも取り残された断絶が、人種差別こそ南部のアイデンティティであるという歪んだ執着へと帰結していった。北部が黒人差別問題に介入すればするほど、南部の白人たちは頑なに人種差別に固執し、黒人へのリンチとを繰り返し、反中央政府の立場を取るようになった。

南部の反中央政府主義と人種差別主義を中心とした強い政治的同質性の連帯を「ソリッドサウス」と呼ぶ。

南部の保守層が人種差別に固執すればするほど、南部地域のアメリカ内部での孤立は強まっていき、そして差別される側である黒人たちも結束してそれに対抗するようになった。第二次世界大戦後に訪れたニューディール政策下のリベラルな時代背景が黒人の公民権運動を後押しし、そして1954年、ついに歴史上にその名を刻むマーティン・ルーサー・キング牧師が表舞台へと登場する。

キング牧師の非暴力主義によって拡大する黒人公民権運動に対して、南部の保守派層はかつてないほどに危機感を募らせた。そして、1963年、アラバマ州知事として、ジョージ・ウォレスが選ばれることになるのである。

■ジョージ・ウォレスの登場

ジョージ・ウォレスは1919年、アラバマ州クリオで生まれ育ち、アラバマ大学で法律を学んだ後、第二次世界大戦でB29長距離爆撃機のエンジニアとして、日本本土への戦略爆撃を担当。八王子、富山、長岡、水戸などの爆撃に参加した。第二次大戦後は学生時代に学んだ法律の知識を買われて、1953年から1959年までアラバマ州裁判所の判事に選出されている。ある黒人弁護士は判事時代のウォレスを、最もリベラルな判事だったと回想している。

1958年、彼は初めてのアラバマ州知事選に立候補する。このとき、クー・クラックス・クランなど人種差別主義団体からの支援の申し出を断り、NACCP(全米黒人地位向上協会)の支持を受けて比較的穏健な主張で選挙戦を戦っているが、惨敗。南部でも殊更保守的な色合いが強いアラバマではクー・クラックス・クランの組織力と、過激な主張なしには選挙を勝ち抜くことは出来ない状況だった。

1962年、二度目のアラバマ州知事選挙で彼は、一転して過激な主張を繰り返し、人種隔離政策や労働者の権利拡大を強く訴え、クー・クラックス・クランの支持を取り付けて圧倒的得票でアラバマ州知事に就任する。冒頭の演説「今日も人種隔離を!明日も人種隔離を!永久に人種隔離を!」は当時ウォレスのスピーチライターで差別主義思想に傾倒していたアサ・アール・カーターが書いたものだと言われている。アサ・アール・カーターは後にフォレスト・カーターと名前を変え、ネイティヴ・アメリカンを題材にした小説「リトル・トリー」を執筆することになる。差別主義者だったアサ・アール・カーターと、少数民族への共感と優しいまなざしで知られる作家フォレスト・カーターという二面性はとても興味深いのだがそれはまた別のお話。

■人種隔離政策の推進と対立

1963年、就任早々二人の黒人大学生のアラバマ州入学を巡って大学前で両派の衝突が起こると、ウォレスは自ら州兵を率いて入学しようとする黒人学生とその支持者の前に立ちはだかった。時の大統領ケネディも入学を認めるように大統領布告を出し、ニコラス・カッツェンバック司法副長官が派遣されて大学前で大統領布告を読み上げたが、ウォレスは頑として受け入れなかった。

この中央政府相手に一歩も引かず、体を張って人種隔離政策を守ろうとするウォレスの姿に南部の白人層はしびれた。

1965年、後世「血の日曜日事件」と呼ばれる流血事件が起きる。アラバマ州セルマから始まったキング牧師率いる公民権運動のデモ行進「セルマ大行進」に対して、あらゆる手段を使ってデモを停止させると宣言。民兵が催涙ガスなどを発射し65人が負傷する惨事となった。

ウォレスの差別主義的な数々の行為は、その残酷さから公民権運動に拍車を掛けたが、一方で公民権運動の恩恵を受けない白人ブルーカラー層や農業従事者、連邦政府の施策に不満を持つ貧困層など社会の底辺層に強力な支持を受けるようになっていく。ウォレスの人種隔離主義はケネディの民主党政権が「労働者をないがしろにして」「黒人問題ばかりにとりくむ」ことに対する民衆の不満の一つのはけ口として、映るようになっていた。

■大統領選への立候補とポピュリズム

1968年、広がる支持を背景にウォレスは大統領選に立候補する。1967年に結党した第三勢力アメリカ独立党の大統領候補として、副大統領候補には日本の無差別爆撃やベトナム戦争での北爆を立案した元米空軍参謀総長カーチス・ルメイ――彼は南北戦争の英雄シャーマン将軍の戦略をお手本にして日本やベトナムの焦土戦術を立てた――を立てて選挙戦に臨むと、意外なことにその支持は南部を超えてアメリカ中に広がった。それまで民主党支持者だったはずの北部の都市部ブルーカラー労働者やアイルランド系、イタリア系などの移民ら目先の生活に苦しむ人々が同調し、その苦しい生活の中から10ドル20ドルといった僅かな額の小口献金をウォレスに送った。ウォレスの選挙戦はそのような小口献金の積み重ねに支えられていた。

このような二大政党どちらにも共感しない多くの人々を掘り起こした人物がウォレスから遡ること70年前にやはりアメリカにいた。その人物はウィリアム・ジェニングス・ブライアン以前紹介した進化論裁判で非業の死を遂げた政治家だ。

1890年代、農業は大きく変わりつつあった。それまでの小規模農業から大規模農業へと組織化が進むとともに農産物価格の下落など農業不況の煽りを受けて、小規模農家は深刻な危機に直面していた。そこで相互扶助組織の「農民同盟」が結成され、後に政治に農民の声を反映させるため南部北部を横断した政党「人民党」が結成される。この時、人民党の大統領候補として全米を演説して回ったのがW・J・ブライアンである。彼は文字通り全米を演説して回り、二大政党どちらにも属さない草の根の人々の意見を国政に反映させるべく活動し、次第に大きなうねりとなって当時のアメリカを席巻していく。この草の根の意見を掘り起こす農民運動を「ポピュリズム」と呼ぶ。

ポピュリズムにはこのような民衆の意見を掘り起こして政治に反映させるという肯定的な意味と、大衆迎合的な否定的な意味との両義性があり、それは対立する見方というよりはコインの表と裏の関係の様に一体で、一つの政治的な活動が持つ多義性とも言える。

このとき掘り起こされた草の根の意見や支持層を取り込んで民主党は勢力を伸ばし、後にルーズベルト政権から始まる民主党政権でニューディール政策などのリベラルな施策を強固に推し進めていく基盤となっていくが、70年の時を経てかつてブライアンというポピュリストによって民主党の支持基盤となった草の根の運動が、今度はウォレスというポピュリストが掘り起こした草の根の運動によって民主党を揺るがすことになっていくのだった。

結局、ウォレスはニクソンに敗れることになるが、このときウォレスが分断した南部白人層と北部の低所得者層を後に共和党が取り込み、そして81年のロナルド・レーガン政権から前政権であるブッシュまで続く保守政権の巨大な支持基盤となっていくことになる。ウォレスは大統領にはなれなかったが文字通りアメリカを分断し、民主党と共和党の勢力逆転の足がかりを作るという大きな楔をアメリカに打ち込んだ。

■暗殺未遂事件

1970年にアラバマ州知事に復帰し、1972年三たび大統領選に立候補するが、大統領選の遊説中、メリーランド州ローレルのショッピング・センターに立ち寄り、支持者に囲まれる時に事件は起きた。アーサー・ブレマーという22歳の青年に銃撃を受け、一命を取り留めたものの下半身不随となり車椅子生活を余儀なくされる。襲撃犯ブレマーの日記を読んだある若い脚本家は一本の脚本を書き上げ、駆け出しの映画監督とともにある無名の俳優を起用して一本の映画を撮った。脚本家の名をポール・シュレーダー、映画監督の名をマーティン・スコセッシ、映画俳優の名をロバート・デ・ニーロと言う。

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5 ニューヨークの甘やかな腐臭、スコセッシ映像の頂点
5 現代社会に病んでる方必見です
4 一般の人がヒーローになろうと思ったら…
4 トラビスに見る犯罪者心理の一考察。
4 この疎外感が熱を持つ時、彼の目が輝きだす。

・・・この映画に影響された青年ジョン・ヒンクリーは1981年、レーガン大統領暗殺未遂事件を起こすことになる。絡みあった歴史の糸が数十年、数百年かけて多くの人を巻き込んでいく。

下半身不随となったウォレスだったが、不屈だった。1976年の大統領選にも立候補し、1974年と1982年にアラバマ州知事に就任し、四期十六年に渡って知事職を務めた。

その後、彼の「怒れる南部白人」という政治姿勢は多くの模倣者を生んだ。多くの政治家がウォレス的な怒りの表出や反中央政府的スタンスを戦術として取り入れ、大衆迎合的なポピュリズムがアメリカの政治に広がっていくことになる。そのような意味でウォレスはアメリカ型ポピュリズムの父となった。

■”I have a dream”

ウォレスと対立した黒人運動の指導者キング牧師が1963年8月にワシントンのリンカーン講堂で行った最も有名な”I have a dream”で始まる演説にウォレスのことを厳しく批判した一節がある。

I have a dream today.
I have a dream that one day the state of Alabama, whose governor’s lips are presently dripping with the words of interposition and nullification, will be transformed into a situation where little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls and walk together as sisters and brothers.
私には今夢がある。
人権差別主義者や州知事が連邦政府の干渉排除主義を唱え、連邦法の実施を拒否しているアラバマ州にさえ、将来いつか、幼い黒人の子供達が幼い白人の子供達と手に手をとって兄弟姉妹となり得る日がくる夢が。
スタンフォード大学The Martin Luther King, Jr., Research and Education Institute日本語訳より

晩年、ウォレスはパーキンソン病を患い銃撃の後遺症による車椅子での闘病生活を送っていたが、1995年、彼は自身が命じたことで起きた血の日曜日事件の記念式典に病をおして出席、知事時代の人種隔離政策が誤っていたことを謝罪し、黒人指導者達と手を取り合った。30年ぶりの和解だった。病の中でキリスト教信仰に目覚めていたとも伝えられるが、真偽は定かではない。その三年後、彼は静かにこの世を去っている。

(渡辺将人著「見えないアメリカ (講談社現代新書)」P126)
ウォーレスは晩年に変わったのだろうか。悔い改めたのだろうか。それとも、もともと人種問題を政治利益のために表面的に利用しただけで、黒人に心のなかで詫びていたのだろうか。あまりにも激しい政治人生を歩んだジョージ・ウォーレスについて、少なくともいえることは、常に感情に正直だったことだ。経済的に疎外された境遇にあるひとたちの立場に敏感に反応する力があった。そして、北部と連邦政府だけには、ただでは従わないという、生粋の南部人だった。

ジョージ・ウォレスは差別と偏見を拡大し、多くの人々の血を流し、そしてアメリカを分断した。そのことは今も、これからも長く批判され弾劾され続けるだろう。しかし、彼の生涯は多くのことを現代の人々に問い続ける。政治とは何であるか。政治家はどうあるべきか。ポピュリズムは何故起きるのか。民意とはなんだろうか。差別とは。断絶が生む悲劇とは・・・次々と湧き上がる問いの一つ一つに向き合うことが、今、特に重要度を増しているようにおもう。

余談だが、現在、ハリウッドでは血の日曜日事件を題材としたキング牧師の伝記映画”Selma”の製作がリー・ダニエルズ監督(「プレシャス」)によって進められており、このジョージ・ウォレスという複雑な難役にロバート・デ・ニーロがキャスティングされたと先日報道された。トラヴィスからウォレスへ、デ・ニーロは30数年の時を経て狙った男と狙われた男双方のモデルを演じることになるようだ。彼の渾身の演技を楽しみに待ちたい。

追記
デ・ニーロは降板し、ウォレス役はティム・ロスが演じることになって製作、2015年6月より「グローリー -明日への行進-」というタイトルで日本公開される。

■参考書籍

見えないアメリカ (講談社現代新書)
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4 誤解されるアメリカ
4 民主党選挙本部アジア系集票担当の現場を経て著者が見たアメリカ政治の多様性
5 アメリカ二元主義の内情が良く分かる
4 「共和党」と「民主党」
4 日本からイメージしたアメリカ政治とは全く違う

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4 超大国の栄光と苦悩
3 やや断片的
4 読みやすく手ごろなアメリカの歴史入門書
3 ぜひ改訂を
3 広く浅くアメリカ史をカバー

■参考サイト
南北戦争 – Wikipedia / アメリカ連合国 – Wikipedia / ウィリアム・シャーマン – Wikipedia / クー・クラックス・クラン – Wikipedia / 奇妙な果実 – Wikipedia / ジョージ・ウォレス – Wikipedia / George Wallace – Wikipedia, the free encyclopedia / Alabama Department of Archives and History: Alabama Governors–George C. Wallace / アサ・アール・カーター – Wikipedia / 血の日曜日事件 (1965年) – Wikipedia / ポピュリズム – Wikipedia / 殺人博物館~アーサー・ブレマー / ジョン・ヒンクリー – Wikipedia / 史跡めぐり・アラバマ州の選挙権獲得をめざす大行進

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シェーネラーとルエーガー~ヒトラーが範とした二人の反ユダヤ主義者
「ポピュリズムを考える―民主主義への再入門」吉田 徹 著
「人種主義の歴史」ジョージ・M・フレドリクソン 著

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