「天国と地獄」黒澤明監督

靴製造会社ナショナルシューズ役員の権藤(三船敏郎)は対立する重役らとの権力抗争の真っ只中、家屋敷など全財産を抵当に入れて資金を集め、翌日中に5000万円を支払うことで筆頭株主になり、会社の支配権を獲得する一歩手前まで来ていた。秘書の川西(三橋達也)をその支払にやろうとしたその時、正体不明の男から息子を誘拐したという電話が入る。しかし、誘拐されたのは息子ではなく運転手の青木(佐田豊)の息子の方だった。だが犯人はそれでも権藤に3000万円の身代金を要求する。「あなたは必ず身代金を払う、そういう男だ。」とうそぶきながら・・・
この映画が公開された1963年は、1960年に所得倍増計画が発表され、高度経済成長がまさに始まりを迎えていたころだった。のちに一億総中流という言葉に代表されるような目立った貧困層の消滅はまだ先のことで、経済成長の始まりの時期によく見られるような持てる者と持たざる者とがそれこそ目に見えてあきらかな時期だったのだろうと思う。しかしそれは次第に広がっていくだろうという期待感も人々の中にあったかもしれないが、まだ貧困が目の前にあった時代だろうと思う。
劇中、麻薬街と呼ばれる麻薬常習者たちの貧民街のような場所が描かれているが、昭和三十五年(1960年)当時「昭和35年当時、海外から輸入される麻薬は年間100億円。一つつみ0.02gが1000円前後。麻薬中毒者は20万人に対し、検挙率は1%程度」でしかなく、モルヒネ,コカイン,へロインなどの覚せい剤が広く蔓延しはじめていた。検挙者数が大幅改善に向かうのはその10年後昭和45年以降のことで、この当時はおそらく劇中の麻薬街というのは目の前に広がる世界だったのだろうと思う。(以前書いた記事「麻薬に手を出すな(昭和35年のニュース映像)」を参照。動画がリンク切れになっているが)
経済成長は、まず最初に富裕層が恩恵を受け、成長と再分配が上手くいけば、徐々に底辺へと広がっていくが、初期段階で確実に格差の拡大を生む。その目に見える格差と不遇の中で渦巻く鬱屈感を叩きつける対象が視界に入ってきたとき、その感情は「憎悪」をかたち作っていくのだろう。
作品のクライマックス、主人公権藤と犯人竹内銀次郎(山崎努)の面会シーンで、こんな会話がなされる。

権藤「君は何故、君と私を憎みあう両極端として考えるんだ。」
竹内「なぜだかわかりませんね。私には自己分析の趣味なんかありませんからね・・・ただ、私のアパートの部屋は冬は寒くて寝られない、夏は暑くて寝られない。その三畳の部屋から見上げるとあなたの家(うち)は天国みたいに見えましたよ。毎日毎日見上げているうちにだんだんあなたが憎くなってきた。しまいにはその憎悪が生き甲斐みたいになってきたんですよ。」

・・・ここには対象に対する想像力の圧倒的な欠如がある。いや、自らに対する想像力でもあるかもしれない。憎しみを向けているその相手もまた生きる人間であり、例え天国のように見える邸宅に住んでいようとも、同じように悩み、苦境にあっては眠れない日々を送っているのかもしれない。また、その憎しみは自身のどこから沸き上がってくる感情であろうか。ヘルマン・ヘッセはこう言っている。

ヘルマン・ヘッセ「デミアン (新潮文庫)
「われわれがある人間を憎む場合、われわれはただ彼の姿を借りて、われわれの内部にある何者かを憎んでいるのである。」

この作品の犯人竹内銀次郎は、彼が彼の中に作り出した地獄へと、自身が気付かない何かに呪縛され堕ちて行く。自身の中に作り出した地獄の業火に焼かれながら、ふと目に入った輝きに天国を見て、地獄の業火の痛みは天国への憎悪へと変わっていった。
そして最後は「断絶」で終わる。天国への憎悪が彼自身へと向かい、シャッター音とともに地獄の門が閉ざされ、そして権藤は天国も地獄も無い世界へと還っていく。人の営みは「天国と地獄」という断絶と排他とは無縁の連続的な活動であるはずが、人はその営みに想像上の「天国と地獄」を見てしまう。それは人が人であるがゆえの逃れられない悲劇だと思う。言葉にならないほどに残酷で、それゆえに人についての一つの真実を照らしているかのように見える象徴的な作品だった。
竹内銀次郎の憎しみは、もしかしたら今、人々の心に宿り始めているかもしれない、と思うことがある。社会背景は全く違うが、現代日本社会において、我々は我々の中に地獄を見ようとしつつあるのではないだろうか。そして、あるはずのない天国へと憎しみを向けようとしつつある・・・そんな漠然とした不安を、ぼくは拭い去りたい。
俳優陣はみな熱演。香川京子演じる権藤夫人の清楚さ、三橋達也の小賢しさ、戸倉警部(仲代達矢)の冷静なリーダーシップ、ボースンこと田口部長刑事(石山健二郎)の人情味などどれもぐっと来たが、やっぱりこれがデビュー作となった犯人役の山崎努は圧巻。静かな憎悪と狂気と絶望感がすごい伝わってきた。名作ですなぁ。

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5 非常に読みやすい一冊

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