拍手が変えた日本の歴史~道鏡を滅ぼした憎悪の正体

賞賛や祝福、感動をあらわすために相手に向かって手を打ち鳴らす拍手の日本における歴史は新しく、明治に入ってからのことだと言われている。明治維新後、欧米人が観劇などのあとにマナーとして拍手しているのにならい、拍手の習慣が広がっていった。

だが、日本にも手を打ちあわせる拍手のような行為が無かった訳ではない。神に対するときに行う二礼二拍手一礼など拍手(かしわで)を打つ行為が古くから存在していた。現在では人に対する拍手(かしわで)は行われないが、古くは神だけではなく貴人に対しても手を打つことで敬意を表す風習があったと言われている。

高取正男著「神道の成立」によると、魏志倭人伝に「大人の敬する所を見れば、但だ手を搏ちて、以て跪拝に当つ」つまり、「身分の上のものにむかって、中国人なら跪いて拝礼するところを倭人は拍手をするという」記述があり、さらに「日本後紀」には渤海国の使者が来朝したときに、通常では二度拝礼して手を拍するところ、外国の使者が参列していたので、日本でしか通用しない手を拍つという礼法を行うのをやめたという記述がある。また「貞観儀式」にも儀式の際に天皇に物を献上するときは八開手(やひらて)という八回手を打つのを正式な礼法とするという定めがあるという。

当時の大和朝廷をとりまく国際ルールからは外れているが大和朝廷の中だけで通用するローカルな儀礼として貴人に対する拍手は日常的に行われていた。そしてそれは外交的な場ではそれがはばかられていたようだった。

この拍手というローカルな儀礼は、ときに日本の古代史に大きな転換点を招いた。

法相宗の僧侶道鏡は看病禅師として時の女帝孝謙天皇(のち称徳天皇)の病を治療したことからその寵愛を受け、政敵藤原仲麻呂を滅ぼし、藤原氏を朝廷から追放した後は称徳天皇の強力な後ろ盾で法王として朝廷の実権を握ることになるが、その圧倒的な権力を象徴するような拍手にまつわるエピソードがある。

天平神護元年(七六五)十一月、藤原仲麻呂とともに孝謙上皇・道鏡に逆らい廃位された淳仁先帝が憤死すると孝謙上皇は称徳天皇として重祚(再度天皇に即位すること)の儀式である大嘗祭が執り行なわれた。

この大嘗祭は、それまで仏教的な色を取り除いて行われてきた先例を大きく覆し、仏教と神祇信仰とをおりまぜた形で行われた。仏法を守護する神々という護法善神思想を全面に押し出し、僧侶たちも参列して「神等をば三宝(ほとけ)より離けて不触物となも人の念ひてある」(神々を三宝(仏教)から隔離すべきだという人々の思い)を退けて進められた。

大嘗祭のメインは深夜から早朝にかけて宮廷の大極殿前庭に特設された大嘗宮で行われる天皇親祭で、その場に道鏡が列席したかどうかは定かではないが、称徳天皇の寵愛深く、当時最高の地位である太政大臣禅師であったからおそらく列席しただろうと考えられている。

その深夜の儀式では前述した八開手という八度手を打つ拍手の儀礼がなされた。「法体の道鏡が群臣の先頭にたち、仏者としてあるまじき日本古来の八開手の拍手を大嘗宮前の庭上でしたとすると、それが参列した官人貴族たちにあたえた衝撃は前例のないことだけにはかりしれないものがあっただろう」(「神道の成立」P55)

さらに、神護景雲元年(七六七)八月八日。称徳天皇が日常起居する「西宮寝殿」に道鏡ら僧侶六百人が招かれ饗宴が催される。称徳天皇とともに法王道鏡、腹心の大僧都円興、大律師基真が階上に席を設けられ、饗宴が始まると六百人の僧侶は貴人にたいしてするように、階上の女帝と道鏡、腹心らに向かって一斉に拍手を行った。続日本紀にはこうあるという「緇侶の進退、復た法門の趣無し。手を拍ちて歓喜すること一に俗人に同じ。

「うたげ」の語源は「拍ち上げ」が縮まったもので、列席のものが一斉に拍手をすることから来ているという。「もとは宴に先だって正席に坐るものをうやまい、一座のうちの尊者なり正客なるものを礼拝することを意味した。」(「神道の成立」P118)いわば当時の日本的な儀礼の発露であった。このころ、仏教はまだ日本に伝来してきてそれほど時が経っている訳ではなく、勿論様々な影響を与えてはいたが、まだ外来の新しい宗教という位置づけであったと捉えられている。その外来の宗教である仏教を信奉する僧侶たちが古くからのヤマト的な拍手という行為を、天皇の寝殿で「俗人に同じ」ように行ったという事件は、大嘗祭の時と同様に貴族たちに衝撃を与えただろう。

かくして、道鏡の専横に対して貴族たちの間には不満というには巨大すぎる憎悪が育っていった。この憎悪の正体についても高取は考察する。その憎悪はいったい何であったか。

(「神道の成立」P123-124)
人は自分の生まれ育った特殊世界をはなれて普遍世界にむかうとき、はじめは少しばかり障害があっても、それを乗りこえたあとは、大きな問題は起こらない。反対に自分の所属する特殊世界に普遍的なもの、一般的なものが入ってくるのには、しばしば耐え難い異和感をいだく。いつまでも拒絶反応がおこり、それに馴れるということが少ない。
(中略)
これは自分が本来的に所属する特殊世界といえるような、生活文化をひとしくするなんらかの共同体に対する根源的な帰属意識の発露である。理屈ではどうにもならない感情の世界のことで、客観的にみればちょっとした言葉のありかた、手を拍っておじぎをするといった動作であっても、それがつまずきとなって現れる波紋は無視できない。

天皇の権威を背景とした道鏡の専横は確かに目にあまるものであっただろう。しかし宮廷に次々と持ち込まれる国際世界の普遍としての仏教儀礼とともに、大和朝廷という特殊世界の中だけで通じる拍手という儀礼をもなぞり、利用する道鏡という異質な存在は、おそらく古くからの廷臣たちの間にぬぐい去れないほどの嫌悪感と憎悪を植えつけた。

そして、その彼らの憎悪は、千年の時を超えてなお日本社会に影響を及ぼすことになる。

神護景雲四年(七七〇)、称徳天皇が崩御するや否や、道鏡一派は一斉に捕縛され道鏡は下野国へ、親族は土佐国へ配流され、道鏡はその二年後の宝亀三年(七七二)謎の死を遂げる。

道鏡捕縛とその後の新体制の指揮を執ったのは朝廷の儀礼を取り仕切っていた神祗伯大中臣清麻呂であった。中臣を名乗っていたが、神護景雲三年(七六九)、積年の功績により大中臣を賜り以降大中臣氏の祖となっている。清麻呂は権謀術数を得意とせず、政治力はなかったが有職故実に通じ、実直な人柄であったらしく、朝廷の神事や儀式を滞り無く進めることができる官僚であったと伝わっている。それゆえに藤原氏の眷属でありながらも、称徳・道鏡政権でも重用されていたが、称徳天皇が崩御するや速やかに甥の藤原永手・良継親子とともに光仁天皇を擁立して道鏡失脚を主導し、道鏡失脚後は朝廷の神事を一手に束ねて仏教勢力の排除を行い道鏡反動政治を主導した。

このとき、清麻呂はまず伊勢神宮の宮司菅生水通を道鏡と協力した咎で解任し、甥の中臣比登を宮司に就けると、その後中臣氏以外を伊勢神宮の宮司になることを禁じ、代々伊勢神宮は中臣氏が統率することを定めるとともに伊勢神宮に建設されていた神宮寺を廃絶、伊勢神宮から仏教色を排除した。

こののち十一世紀ごろにかけて朝廷では神仏習合が進むことになるが、伊勢神宮だけは仏教を排除し続け、その神仏隔離的傾向が中世になると伊勢神道や吉田神道といったナショナリスティックな思想を生む土壌になるのである。そしてそれら神道は江戸時代に盛んになる朱子学と反響しあい、明治維新を経て神儒混淆的な国家神道の登場を準備する。神聖不可侵なる伊勢神宮の聖性がファナティックなナショナリズムと結びついて悲劇が生まれていった。

直接の因果関係は無い。しかし、千数百年の大きな歴史のうねりの原点に、異質なものを排除しようとする欲求が一つの要因としてあった。
拍手と憎悪が道鏡を滅ぼしたのである。

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