「見るなのタブー」と孤独という罰

禁忌(タブー)という言葉がある。主に、~してはならない、という形でその共同体における成員の行動を制限する規範のことを指し、死、暴力、性行為、出産、血、食事など多岐に渡るが、そのタブーに中に「見るなのタブー」と呼ばれる類型がある。

洋の東西を問わず、神話や伝承、民話などに見られる「見るなのタブー」はその名の通り、何かの行為や場所を見ることを禁じるタブーであり、多くはそれを見てしまったことにより悲劇が訪れることになる。

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この「見るなのタブー」について、「昔話と日本人の心」に興味深い指摘がある。西洋と日本とを比較した場合、西洋では最終的にはタブーを犯したものが勝利するものの、「その前にタブーを犯したものに対する罰が与えられる」。それに対して、日本の場合は「見てはならないといわれた部屋を見たものよりはかえって見られたものが、タブーを犯したものよりは犯されたものが不幸な結果になって」おり、タブーを犯したものも直接的に罰が与えられることはない。

例えば「うぐいすの里」という物語がある。若いきこりはある日森の中で見たこともない館を見つけ、そこで出会った美しい女性に留守を頼まれる。そのとき「次の座敷はのぞかないでください」と言われるのだが、我慢できなくなったきこりはその座敷を開け、最後の座敷へと進む。そこにあった三つの卵を手に取るが、誤ってその卵を落として割ってしまう。帰ってきた女性は悲しみ、うぐいすになって「娘が恋しい、ほーほけきょ」と鳴いて飛び去っていき、きこりは一人そこに残される。

あるいは「鶴の恩返し」として知られる「鶴女房」も同じ構成だ。また「浦島太郎」は罰を受けているように見えるが、現在知られる「開けてはならぬ」との禁忌を破って玉手箱を開けて老人になるという物語は近世になって変形してきたもので、元々は竜宮城から戻る際に乙姫様から「途方に暮れたときはこの箱を開けるがよい」と渡されたものだった。

また、西洋はタブーを与えるのは父や夫、王であるのに対して、日本では女性がタブーを与え、男性がタブーを破るという類型だという。敢えて言うならばタブーを破られた側が直接的な傷を負って悲嘆に暮れて立ち去り、破った側が一人取り残されるという、孤独という罰が与えられるとも言える。そして、このような孤独という直接的ではない罰が与えられるゆえに、タブーとして機能しているのかもしれない。

この日本の昔話の中の「見るなのタブー」の特徴を、果たして文化社会全般の特徴として広く当てはめることが妥当かどうかはわからないが、タブーとして呪縛される一つに見られることに対する恐れは確かに日本社会にあるようにおもう。

昔このような記事を書いたことがある。
外集団の価値基準に左右されながら閉鎖的な内集団を形成する社会
この中で、井上忠司の『「世間体」の構造』から以下の部分を引用した。

「世間体」の構造(P111-112)
要するに、わが国の人びとには、自分だけがソトを見ていて、ソトからはひとに見られまいとするアンビバレント(両義的)な傾向がつよいのである。このソトから見られまいとする防衛の傾向が、ウチの<集団主義>的傾向と相まって、わが国特有の「内集団」を形成している
(中略)
ソトの集団を「準拠集団」とする一般的な傾向と、ウチの集団の<閉鎖性>。一見、相矛盾するかにみえるこの二つの特徴が、じつは相反することなく共存しているところにこそ、ウチとソトの観念に特有なダイナミクスの本質がある、といわなければならない。

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ここで井上が言う集団主義というのは山岸俊男が言う「安心社会」とほぼ同義である。「安心社会」とは集団内の相互監視と外れた者に対する制裁、さらに特定の相手との永続的なコミットメント関係を形成することによって「安心」を作り出した社会のことだ。(関連→「安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方」山岸俊男 著

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特段、日本特殊論としてまとめるつもりは無いが、自然発生的に形成されてきた民話の中のタブーと、集団心理として日本の集団・共同体に見られる傾向とに一種の関連があるように見えるのは興味深いなと思っている、というお話でした。果たしてこの傾向は現代社会に生きる我々にどのような影響を与えているのでしょうか。

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