流転する浄と不浄、信仰世界への回帰現象と科学の立ち位置

宗教の種類を問わず、特に定住農耕民の多くに二元論的な宗教的世界観(コスモロジー)が見出されるという。一方は秩序(コスモス)、他方は混沌(カオス)。
かつて、人々は山野を切り拓き、穀物を植え、田畑を耕して己の手が届く範囲で秩序だてられた生活空間を生み出していった。一方で、そのような俗=共同体と隔てられた外部の世界はこの世を超えた混沌とした空間であり、聖なる世界として位置づけられた。

脇本平也著「宗教学入門」P321
一方にこの世的・此岸的なもの、他方にこの世を超えた彼岸的なものが、対照的に、しかも相互依存的に成立して、宗教の世界を構成する。自然に対する超自然、合理的に対する非合理的、思議可能なものに対して思議することのできない不可思議なもの、というように、超とか非とか不とかの否定しを冠してよばれるような聖なる領域が、これと対照的な多面の俗なる領域と、相表裏して成立している。

赤坂憲雄「異人論序説」P30
カオスとはそもそも、秩序(コスモス)自身によって、その内側からは排除された範域の全体をさしている。いわば、秩序が秩序として自己同一化をとげるためには、あるカテゴリー群を混沌として疎外すること、すなわち境界をもうけることが不可欠の前提であり、境界領域はカオスと接するがゆえに、ある種禁忌された空間として不断に意識されねばならない。

聖なるものはそもそも俗世界に含まれないすべてのものを指していた。たとえば日本の「カミ」は正負を問わず、善も悪もない、雷などの大自然の現象や、蛇、猛獣など人間を脅かす”ひいでたもの”であり、恐怖・畏敬の存在であったと考えられている。
この聖なる混沌の領域も、俗なる秩序の世界が発展し階層・分業社会化するに従って「善き聖」=浄と「悪しき聖」=不浄(穢)とに分離していくことになる。
つまり、社会の階層分化にともなって、シャーマン・呪術師・司祭などの専門職が登場し、それまでタブーとされてきた聖と俗の二つの領域をつなぐ儀式を独占することによって、彼らは支配階層として社会の上位に位置していくようになる。彼ら支配階級の登場は聖なるものを排除された外部から、日常生活を規定する価値基準へと変えていき、さらに、それら聖なるもののうち「善き聖」の独占者としての祭司王の登場によって、秩序世界と相補的な聖の分極化が始まることになる。

赤坂憲雄「異人論序説」P119
“祭司王”は<聖なるもの>が包摂する多義的領域、言葉をかえれば身分かなカオスの領域から、「善き聖」=浄を抽出し、みずからそれを一身にまとうと同時に、「悪しき聖」=不浄を穢れとして疎外し、秩序世界の周辺部にある人々に集中的に負わせる。穢れを仮託された賤民の発生とは、むろん文化の最深部に埋めこまれた<差別>という名の浄化装置の起源でもある。

脇本平也著「宗教学入門」P322
聖なる領域のなかに、たとえば天国と地獄、義と罪、浄と穢、悟りと迷い、光と闇、というように、相対立する領域がまた二項に分けられる。その意味で、いわば二重の双分構造をもつ世界観が、宗教的な世界観の特色であるように思われます。そして、このような宗教的世界観に基づいて、聖と俗のからみ合いのなかで人生のさまざまな難問を解決し、社会的にも文化的にも個人的にも、さまざまな形でのいのちの拡充をはかっていこうとする、そのいとなみが人間の宗教生活にほかならない、と考えられます。

このように二極分化した聖は儀式を通して不浄は浄へ、禁忌への接触を通して浄は不浄へと転換する。

赤坂憲雄「異人論序説」P92
浄と不浄とは、可逆性・相補性を本質とする。もっとも汚れた不浄なるものがときにもっとも強い神秘力(浄)を有する、と信じられている。月経または分娩のさいの血や、人肝・人胆が、不治の「業病」とされたハンセン病や疱瘡・皮膚病などに効くという信仰などは、日本をはじめ世界の諸民族にみいだされる。ことに、身体の内/外にまたがる分泌物としての血は、汚染するものであると同時に清潔にするものである、穢すものであると同時に浄めるものである、という両義性のよく知られたメタファーである。
(中略)・・・<聖なるもの>は正・負に二分され、あるさだめられた儀礼的コンテクストの変換にともなって、「善き聖」=浄と「悪しき聖」=不浄とが相互に変換しあうのである。

この不浄を浄に変える儀礼はかつては聖職者の独占物であったが、時代が下るに従って聖職者の手を離れていき、各々が聖なるものへと近づく試みがなされてきた。
「聖なるもの」はどこに宿るか。まず原始的な社会から近代国家にいたるまで共同体そのもの、自身が所属し、生活の基盤を与えてくれる社会にこそ聖性が宿ると考えられた。一方で、人間が生み出した文化もまた聖の領域があると考えられた。この世にかかわる世俗的な領域としての学問、道徳、芸術は、超世俗的な領域、学問における真、道徳における善、芸術における美という価値の実在的な体験に聖なるものを感じるようになっていく。そして儀式という宗教体験が個人の手に移ったとき、神と直接つながる個々の人格にこそ聖なるものが宿ると考えられるようになっていく。
呪術的儀式の果ての呪術性の超克、すなわち人々の体感的な二元論的世界観を一元的に止揚する自然科学と、神とつながる聖なる人格に宿る理性に裏打ちされた個人主義思想の登場が近代の幕開けだったのである。
近代は科学と個人に対する万能感に包まれていた。しかし二つの世界大戦の悲劇と60年代以降に世界中で問題となる貧困と環境問題は科学に対する万能感を反感に変えた。人々にとって科学は聖なるものにつつまれた大いなる生を約束するはずだった。そして、科学が高度に専門化し、科学者を介してしか「真実」に辿り着けないと人々が感じ始めたとき、人々は再び、自身の体験に意味を与えてくれる何かを模索し始めた。それが世界的な宗教保守化の運動とスピリチュアルブームの勃興へと繋がっていった。
現代の宗教保守派、スピリチュアル、疑似科学の興隆は、これまで幾度も歴史上見られた信仰を自身の手に取り戻したいという動きの一つだろう。コスモロジーを自身の体験を元に構築したいという根源的な欲求が、人々を動かしている。
保守主義とは近代への懐疑であり、それゆえに信仰中心の共同体、聖と俗の二元論的世界観へと回帰する。他方で科学への失望は科学を宗教と同列の一つの信仰形態と考える多元主義的な動きに繋がり、個人の体験に意味を与えるものを宗教であれ、科学であれ、個々に選択しようとする傾向を生み出すが、近代という脱宗教化の枠組みゆえに宗教的なるものは宗教であることを否定し、科学的ならざるものでありながら科学を名乗る混乱を生む。
個人の体験に基づいた世界観が二元的であれ多元的であれ、科学は同じ枠組みや世界観の上位にあるのではなく、個人の体験世界に対する外部からのカウンターの位置にあること。その位置こそ科学を科学たらしめるのだろう。
これまでの科学に対する過剰な期待と万能感、それに対する失望と体験至上主義への回帰の中で、科学はいかにしてあるべき位置に立ち続け、そして地道ながらも確実な歩みを続けられるのか。それがこれからますます――おそらくあと半世紀程度は加速し続けるであろう宗教保守化とスピリチュアルブームの興隆の中で重要になっていく。
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