他者排斥を生む原始的な世界観の誕生プロセス

古くは古代ギリシアの人々が、自身の文化を解せず言葉が通じない異民族をバルバロイと呼んだように、「たがいに共有できる価値規範の欠如した人々(文化)を、野獣(非人間・非文化)のカテゴリにくくることで、全面的に排斥」(赤坂憲雄「異人論序説 (ちくま学芸文庫)」P249)する行為は数えきれないほど繰り返され、そのたびに、同じく数えきれないほどの悲劇が繰り返されてきた。

赤坂憲雄は「異人論序説」で、その「異質な文化にたいする無条件な排斥」を生み出す心理について、その空間認識が隠喩的地理学と呼ばれる関係性に基づいていることを指摘している。

赤坂憲雄「異人論序説 (ちくま学芸文庫)」P250

そこでは、自己からの距離をゆいいつ絶対の基準として、空間の文節化がおこなわれる。自己を世界の中心にすえ、自己との遠近にしたがって、人間・モノ・場所が同心円上に配列される。

つまり、混沌の中で自己と自己同一化が可能な範囲までを「われわれ」として秩序だてられた空間とし、その秩序を脅かす異端者を排除することで成立する世界観である。

古代ギリシア人をはじめとした多くの民族や国々にとっては自然と自国や自身が属する共同体が世界の中心に位置づけられた。

赤坂前掲書P250
かれらにとって、自分が暮らしている、またしばしば訪れる親しい領域のみが現実的な世界であり、そこで自己を「人間」として理想化する一方、親しくない領域や未知の到達できない彼岸(かなた)は、現実性の希薄な、ついには「人間」が獣や怪物にとって代わられるような世界である、と観念された。

赤坂前掲書P254
隠喩的地理学が空間を内部(うち)/外部(そと)に分かち、あらゆる人間をわれらWeとかれらTheyに分割する。古代ギリシア人にとって、われらだけが「人間」であり、辺境にするかれらは、「人間」であるよりむしろ動物に近似した生物であった。
(中略)
このカテゴリカルな思考様式は、しばしばある種の差別関係を産出し、あるいはそれを正当化するための心理的母体となる。人種的・民族的関係が葛藤を含む場合には、思想・宗教・行動などあらゆる場面にわたって、われらに正の意味を、かれらに負の意味を付与する傾向があらわれやすい。

この「自己からの距離をゆいいつ絶対の基準とし」た世界認識は、子どもの頃の感覚と似ていると赤坂は指摘する。

赤坂前掲書P242
たとえば、人体模型やフォルマリン漬けの魚や獣の標本がおかれた理科準備室、新聞紙にくるまった浮浪者がいく人も寝ころがっている地下道の昏がり、また、雑木林の奥の下草に覆いかくされ、ときにエロ本や下着が棄てられているあたり・・・・

そのような非日常の自己からの距離の臨界点を超える未知の空間を畏れ、あるいはときめきとともに想いを馳せるその空間認識と根本的には近しい。しかし、唯一の、絶対的な違いは、子どもの頃のその境界線は流動的で、成熟していく過程で日常的世界が広がっていくにつれて消失していくものであるのに対して、大人のそれはときに外部に対するタブーを伴なうほどに固定的であることにある。

近代というのは、「われら」だけでなく無数の「われら」がいてその「われら」がいかにして共存していくかという模索に時代で、その様々な文化圏の衝突を繰り返しながら、たとえばアダム・スミスが公平な観察者と呼び、ウェーバーが「神の目」と呼び、ハンナ・アーレントが「拡大された心性」と呼んだように、自己を客観視し規律化する理性の発見によって、隠喩的地理学のような二元論的コスモロジーは多様性を共存させる社会観へと移り変わることで始まった。

例えばそのような第三者的視点を持っていた例としてエイブラハム・リンカーンがいる。

南北戦争中の1862年、一人の聖職者がリンカーンの元を訪れ、「神は、私たちの側(on our side)に立っておられることでしょう」と北軍に正当性があることを伝えたが、リンカーンはこう答えたという。

アメリカの公共宗教―多元社会における精神性」P211
そのようなことを私はつゆほども気にかけておりません。なぜなら、私は知っているからです。神がいつも正しい者の側に立っておられるということを。しかし、私は絶えず心配し、祈り続けています。私とこの国(nation)が、神の側に立っていられますように、と。

常に「われらは正しい行いをしているのか」を神を公平な観察者として想定し、客観的な視点から問い続ける姿勢が良くあらわれたエピソードだ。

しかし、人はよほど心して居ない限り、自然な状態としてこのような「自己からの距離をゆいいつ絶対の基準とし」た世界認識に陥ってしまう。いかにして、自己を規律化する公平な観察者の目を意識させることができるか、それは「われら」と「かれら」の境界線を絶対化させず、流動化させることにあるのではないだろうか。

内と外を峻別し外に対して徹底した排除と攻撃を行う代表的な集団として原理主義組織がある。原理主義問題の研究家である小川忠は著書「テロと救済の原理主義 (新潮選書)」で、特にイスラム原理主義が西欧列強によって虐げられ、またその支援を受けた民族主義政府の弾圧の中で誕生した過程を受けて、貧困等の経済格差だけではなく、「誇りの不平等」こそ主要因であるとした。そして、その解消に向けた一歩として「相互理解」と「誇りの不平等」の解消の重要性を強く主張している。

地に落ちた誇りを癒してくれる拠り所として最もプリミティブな自己と自己同一化が可能な範囲に閉じこもり、他者に対する/他者からの無理解ゆえに、その排撃を行なおうとする。その解消が、おそらくは、「われら」と「かれら」の境界線を絶対化させず、流動化させる方法なのだろうが、その道は、途方もなく困難な道のりなのだと感じずには居られない。「対話」や「相互理解」までは出来無くとも、まずは相手のことを正しく知ろうとする努力から始めること。それが、これまで希薄であった現実性に実体を与え、二元論的世界観に陥らないようにする小さな小さな第一歩であると思う。

参考・関連書籍
・赤坂 憲雄著「異人論序説 (ちくま学芸文庫)
・藤本 龍児著「アメリカの公共宗教―多元社会における精神性
・仲正 昌樹著「今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)
・堂目 卓生著「アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)
・小川 忠著「テロと救済の原理主義 (新潮選書)

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