1994年、アメリカ合衆国議会中間選挙。民主党、歴史的大敗。

1994年、アメリカ中間選挙で上院下院とも共和党が過半数の議席を制し、40年もの間続いた民主党の下院支配は終わりを告げ、就任2年弱にしてクリントン民主党政権は苦しい政権運営を強いられることになった。

当時、クリントンブームの熱気が醒めやらぬ中で共和党の圧勝をもたらしたものはなんだったか。それはクリントンの大統領就任をまず振り返る必要がある。

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■クリントン大統領誕生

1991年、ジョージ・H・W・ブッシュ政権は米ソ冷戦の終結や湾岸戦争での勝利など対外的成功で90%近い支持率を誇っていた。まさか、そのわずか一年半後に大統領選に敗れるなど夢にも思わなかっただろう。

同年5月、無名の若い州知事だったビル・クリントンは1989年に設立された民主党の改革を訴え、新しい政策を模索する若手政治家からなる「民主党指導者協議会」の年次総会でこう演説を行った。

中岡 望 著「アメリカ保守革命 (中公新書ラクレ)」P145
「私たちの責務は古い価値に根ざした新しい選択肢を国民に提供することである。その選択肢は人々に機会を与え、人々に責任を求め、人々の要請に応える政府を作り上げることだ」

ニュー・デモクラット宣言」と呼ばれるクリントンの名演説は後に「“Putting people first”国民を最優先に」という政策綱領にまとめられた。「個人の責任」や「コミュニティの重要性」を主張するそれは、5つの「変化のための戦略」からなる。

  • 経済を再建し、防衛経済から平和経済に転換させ、都市を活性化させ、民間投資を促進し、世界市場を開放させることでアメリカを機能させる
  • 勤労家庭に税の公平を保証し、従来のような福祉政策を廃止する
  • 生涯学習を支援する
  • 質の高い健康保険制度を提供する
  • 政府の役人を一〇万人減らし、政府を改革する

このような従来の民主党の政策から大きく方向転換した、共和党のお株を奪う中道右派的な主張は圧倒的な支持率を誇るブッシュ政権の弱点を痛撃するものだった。

もともとサプライサイド経済学を”ブードゥー経済学”(呪術と一緒で効果がないという意味)と揶揄していたブッシュは、レーガン政権を受け継いでいたものの、徹底したレーガン離れを起こしていた。

まずネオコンを要職から外し、支持基盤をレーガン的保守主義者から東部エスタブリッシュメントへと移すと、「“kinder and gentler nation”より親切で、より紳士的な国家」を目指して様々な福祉関連法案を制定し、公的医療給付制度への予算を急増させ、大統領選の公約を破って増税を行うなど共和党でありながらリベラル的な福祉国家政策を中心とした大きな政府志向へとシフト。水面下では保守主義者たちのブッシュ政権離れが広がり、政権基盤が弱体化していた。その政権基盤のねじれという弱点を突いて、保守主義者を取り込んたのがクリントンの政策だった。

1992年、民主党大統領候補に選出されたクリントンは、演説の上手さもあって徐々に草の根レベルで支持を広げ、反対に演説ベタで知られるブッシュと互角の情勢に持ち込んでいた。しかし、その差は致命的な差へとなっていく。

中岡 望 著「アメリカ保守革命 (中公新書ラクレ)」P147
一〇月一五日、バージニア州リチモンドでブッシュ大統領とクリントン候補の公開討論会が行われた。そのときの様子をジャーナリストのジョー・クラインは次のように伝えている。黒人の女性が質問に立ち、「失業で苦しんでいる人々をどうするのか」と二人の候補に聞いた。ブッシュは官僚的な答えに終始する。だがクリントンはその黒人女性に向かって三歩ほど歩み寄り、「もう一度、不況があなたにどんな影響を与えているのか話してくれませんか」と語りかける。そしてクラインは次のように書いている。「これで大統領選挙は事実上終わった」と。

■ギングリッチの台頭

大統領選とともに上下院とも民主党が過半数を占め圧勝に終わったが、いわば政策のねじれがブッシュを敗北させたように、クリントンのニューデモクラットな主張もまた、彼の政権基盤を弱めていた。

民主党の支持母体である労働組合の反対を押し切って米加墨で自由貿易圏を作るNAFTAの批准を進め、最大35万人の公務員削減を柱とする「公務員制度改革」はやはり支持母体の公務員組合の反発を受け、民主党政権として初めて「均衡財政」を主張した予算案にも多くの民主党議員が反対票を投じるなど、支持率は高いが、支持基盤は決して磐石とはいえない状態での船出となった。

その頃、大統領選、議会選とも大敗した共和党でも一人の改革者が台頭しようとしていた。クリントンと同世代の下院議員ニュート・ギングリッチは、共和党の改革のため草の根の政治組織「コンサーバティブ・オポチュニティ・ソサエティ」を作り、福祉国家批判から、より国民が関心を持つ人工中絶の反対や税制改革などを訴え、草の根レベルで共和党の支持拡大に奔走する。

1993年9月、彼は自身のかねてからの政策をより深化させた政策綱領「アメリカとの契約」を発表する。

「財政均衡」「大統領の項目別拒否権」「福祉改革」「育児減税」「死刑の執行」「規制緩和」「訴訟改革」「社会保障改革」などからなるその政策綱領は367名の共和党下院議員と候補者が署名し、共和党の公約となった。「個人の自由」「経済的機会」「小さな政府」「個人の責任」「国内外の安全保障」を重視するその綱領は国民にもわかりやすく、また従来からの草の根運動もあって、もたつくクリントン政権を横目に共和党は急速に勢力を盛り返していった。

1994年11月、中間選挙が行われ、共和党は下院230議席(民主党204議席)、上院52議席(民主党48議席)を獲得。アイゼンハワー政権以降初めて共和党が両院とも過半数を占める結果となり、この歴史的大勝利の功績によってギングリッチは大統領に次ぐ地位である下院議長に選出。クリントンとギングリッチという二人の改革者による全面対決の火蓋が切って落とされた。

■最強の宗教右派”クリスチャン・コアリション”

共和党の勝利は、わかりやすいアジェンダ、地道な草の根運動だけで勝ち取れるものではない。共和党躍進の足腰として機能していたのが宗教右派勢力「キリスト教連合(クリスチャン・コアリション)」だ。

クリスチャン・コアリションは1989年、テレビ伝道師として人気だったパット・ロバートソンによって設立された。前年の大統領選挙にも出馬し、他の右派的宗教指導者がスキャンダルなどで次々失脚していく中で存在感を増していた彼を担ぎ出したのは、後に”神の右手”と畏れられることになる青年ラルフ・リードだ。

学生時代、共和党全国委員会の事務局長として政治活動を行っていたリードは、南部福音派の歴史研究で博士号を取得したのち、レーガン政権で圧倒的な影響力を行使しながら早期に解体したキリスト教原理主義団体モラル・マジョリティの失敗の原因を分析、新たな宗教右派の組織作りの手法についてまとめ、ロバートソンにコンタクトを取った。そのリードの分析を元に設立されたのがクリスチャン・コアリションである。

リードは若干28歳でクリスチャン・コアリションの事務局長に就任すると、その天才的な組織作りの手腕を如何なく発揮してみせた。

モラル・マジョリティが指導者ジェリー・ファルウェルのカリスマ性だけに頼っていたことを踏まえ、まず草の根レベルで宗教右派の市民組織を各地に設立、それらを育成すべくリーダーシップ・スクールを開催して機能的な組織を構築し、そこで学んだ人々を次々と地方の議会や各種委員会に輩出した。さらに、排他性を排して、福音派だけでなくモルモン教徒やカトリックなど様々な宗派の人々が幅広く参加できる組織にし、さらに「家族の価値」を中心に置きつつも、「小さな政府」「均衡財政」といった世俗的保守主義の主張も盛り込むことで運動の幅を広げていく戦略が取られた。

飯山 雅史 著「アメリカの宗教右派 (中公新書ラクレ)」P133-134
連合は「燎原の火が広がるような」という形容がぴったりする勢いで、草の根ネットワークを広げ、創設翌年の1990年には125支部で会員5万7000人だった組織は、1996年の絶頂期には、全米50州すべてに合計1700の支部を抱え、170万人の会員を持つまでに巨大化したのである。リーダーシップ・スクールも各地で開催されて、合計7500人の活動家が効果的なロビー活動の方法などの訓練を受けた。訓練を受けた人は、自分で地方選挙に立候補したり、投票ガイドを武器にして選挙キャンペーンを武器にして選挙キャンペーンを組織したりして、共和党の選挙運動の強靭な足腰となっていったのだ。

特に80年代以降、アメリカ社会で激化した文化戦争とよばれる思想対立の一方の極を担ったのが、クリスチャン・コアリションで、リードはその中核で戦略の采配を振るった。各地の教育委員会等公職選挙時に競争相手の候補者に知られないように教会のネットワークを使って隠密に選挙運動を進める「ステルス戦略」によって多くの宗教保守派系候補が各地の政治・行政に勢力を伸ばしていった。

ステルス戦略と並んで選挙時に活用されたのが「選挙ガイド」と呼ばれるパンフレットで、特定の候補を支援することは宗教団体では行う事ができないが、「選挙ガイド」は該当する選挙区の候補たちが宗教右派の主張である「人工妊娠中絶」「学校での祈り」「福祉改革」などに賛成か反対かを示す表になっている。つまり「信仰の篤い人が誰に投票するべきなのか」一目瞭然ということだ。

この「選挙ガイド」を使った選挙キャンペーンが中間選挙の勝敗に大きく影響を与えた。一方、支持者に保守系の有権者を多く抱える共和党候補にとっては、このパンフレットは”踏み絵”でもあった。もし、この「選挙ガイド」で”反宗教的”とレッテルを張られると当選が危うくなる。

飯山 雅史 著「アメリカの宗教右派 (中公新書ラクレ)」P141
キリスト教連合の圧倒的なパワーを目にした共和党候補には、政治的立場を変えて中絶反対派に回った人も少なくない。この”神の軍団”が、投票日直前に全国6万か所の教会周辺で配った投票ガイドは、合計3300万枚にのぼったという。下院選挙では全国435の選挙区のうち350選挙区でこの紙爆弾がばら撒かれた。福音派の教会では、牧師が説教で、家族の価値の復活を訴え、中絶がいかに罪なことかを説明した。候補名は挙げなくても、牧師が何を求めているかを信徒は理解した。

共和党の劇的な勝利は、このようにしてもたらされ、クリスチャン・コアリションは共和党に深く食い込んでいく。かくして、アメリカの民主主義は機能不全に陥っていた。

■ギングリッチvsクリントン、全面対決

中間選挙後初の議会となった1995年1月の第104議会はギングリッチ率いる共和党の大攻勢で幕を開けた。

まず「アメリカとの契約」の重要な柱である財政均衡憲法修正法案を下院で可決する。しかしこれは上院で否決され、憲法改正発議は出来なかった。続けて、これまで大統領は議会で成立した法案を一括承認か一括して拒否権を発動するかだけだったものを項目別に可能にする「大統領の項目別拒否権」を両院で可決するが、これは最高裁が大統領権限を過剰に拡大するものとして違憲判決を出し、無効とされる。この二つの成立に失敗したものの、続けて執行中の予算のうち160億ドルの歳出削減を求める法案を成立させ、続けて2002年までに財政を均衡させる枠組みに関する決議案を採択、民主党の歳出法案の採決はことごとく先延ばしされ、10月1日になっても予算案の承認されておらず、暫定予算でしのいだものの、12月半ばになって共和党と民主党の交渉は決裂、三週間に渡って連邦職員は自宅待機、行政窓口は閉鎖となり、政府機関の機能が一時的に停止されてしまうという前代未聞の事態となる。

さすがにギングリッチ共和党の強硬さに批判の声が上がり始めたころ、今度はクリントン民主党の反撃が始まった。

1996年1月、年初の一般教書演説でクリントン大統領は「大きな政府の時代は終わった」と宣言して「子供を持つ片親世帯への支援制度」の廃止を行い、小さな政府志向を明確にするとともに、宗教保守層へのアピールとして結婚防衛法の署名を行う。大統領就任前からクリントンのニューデモクラットの立ち位置は共和党より左、民主党より右という絶妙なバランス感覚の上を歩く通称「三角測量戦略」だったが、その本来の立ち位置をより明確にアピールすることで、保守層の取り込みを図っていく戦略に切り替えていった。

また、実はクリントン政権はギングリッチの財政均衡案は最初から実現性の低い内容で審議の過程で自壊すると考えており、ゆっくりと自滅するのを待つ戦略(通称「“スモーク・ゼム・アウト”燻し出し戦略」と呼ばれた)を取っていたのだった。そして、時期が来たと判断した1996年6月、福祉関連の歳出の緩やかな削減を柱とする2005年までに財政均衡を達成する政府案の概要を発表。現実的な政府案で一気に反転攻勢に出る。この戦略転換が政局のターニングポイントだった。

■瓦解する保守主義勢力

飛ぶ鳥を落とす勢いのギングリッチの失墜は、多くの政治家がそうであるように、実にささいなことがきっかけで始まった。95年末、クリントン大統領と共に訪れた中東から帰国した際のインタビューで、彼はエアフォースワンの中で大統領が話しかけてこなかったこと、後部座席を与えられたといった不平を軽口気分で漏らし、それがマスコミの餌食になった。それまでの強引な手法への批判も相まって、「ケツの穴の小さい奴」的なレッテルが張られ、女性スキャンダルや金銭スキャンダルも飛び出し急激に人気を失っていく。

さらに世論も、政府機能が停止するほどの急進的手法に嫌気がさしており、また過激な宗教右派が繰り返す文化戦争にも疲れきっていた。世論の支持対象は保守派から穏健な中道路線へと徐々に変わりつつあった。

そのころ、共和党躍進の原動力となったクリスチャン・コアリション内部でも亀裂が走り始めていた。96年に行われる大統領選挙を巡って、冷徹なリアリストであるラルフ・リード事務局長は、上記のような世論の変化を敏感に感じていたから、急進派候補ではなく、穏健派のボブ・ドール共和党上院院内総務への支持へ切り替えようとしていた。しかし、ドールは宗教右派とは対立する慎重な政治思想の持ち主で、クリスチャン・コアリションの幹部や熱心な信者達からは忌嫌われていた。

結局統一させた支持を行う事ができず、予備選ではクリスチャン・コアリションの多くは雑誌社社主で宗教保守派のスティーヴ・フォーブス候補と愛国主義的保守派のパット・ブキャナン候補に投票したものの、結局共和党大統領候補はボブ・ドールとなり、本戦でも保守派の支持が分裂したことで、議会は引き続き上院下院とも共和党が多数派を占めたものの、地滑り的にクリントンの再選が決まった。

このクリスチャン・コアリションの内部分裂によって、ラルフ・リードは翌97年に事務局長を辞任する事態にまで発展。その後、クリスチャン・コアリションは急激に支持を失い、要を失った指導部では内紛も勃発して組織の解体が進んでいった。

共和党は議会の多数は引き続き支配していたものの、あと一歩まで追い詰めていたはずのクリントンは再選で完全に息を吹き返し、アジェンダの説得力を失い、草の根の世論の支持を失い、集票マシーンの宗教右派の組織力は低下し、ギングリッチを支えていたすべてが揺らぎ始めていた。

1997年2月、再選を果たしたクリントン大統領はとどめを刺すべく、5年間で財政赤字を解消する内容の「予算教書」を議会に提出。共和党との交渉は難航したものの、その強硬な政治手法に対する批判を真正面から受けていたギングリッチは結局譲歩せざるを得なかった。かくして同年7月、5年間で2000億ドルの歳出削減と800億ドルの減税からなる「財政均衡法」が成立。翌98年には早くも財政黒字を計上する。

1998年にはモニカ・ルインスキースキャンダルがクリントン大統領を襲うが、これは攻め手を失った保守派の最後の足掻きで、結果としては確かにクリントンはダメージを受けたがそれ以上に、保守派の執拗な追及の方に世論の批判は集まった。

1999年、ニュート・ギングリッチは前年の中間選挙で再選を果たすものの、下院議長と下院議員を辞職し、政界から潔く身を引いた。ギングリッチ革命と呼ばれた保守主義運動は完全に潰えたのだった。

ギングリッチの失敗の理由は多くの識者によって分析されている。「議会の多数派の地位を十分に活用しなかった」「法案の優先順位が明確でなく、民主党との差別化ができなかった」「ギングリッチの個人的なエゴが全面に出すぎた」「クリントン大統領の能力を過小評価した」などだ。

だがクリントンの勝因はたった一つだろう。それは「最後まで立っていた」ということだ。たとえポピュリストと罵られても、民主党にありながら共和党的な経済政策をクリントノミックスと揶揄されても、セックススキャンダルで人間性を蔑まれても、どんな手を使ってでも生き残ることに全力を挙げた。

だが、強いライバルの不在が響いたのだろうか。あるいはサバイブすることで力を使い果たしたのだろうか。政権末期にはレームダック化し、政治的無風状態が訪れる。そしてその無風状態の中で行われたクリントンの後継を決める大統領選挙は政治的焦点の無いまま、後に裁判まで行われることになるほどの史上稀に見る僅差となり、ジョージ・W・ブッシュが大統領に就任することになるのだった。

■その後

ギングリッチはその後、執筆や講演活動などが中心で政治活動からはほぼ引退したが、二人の後継者が登場する。

ディック・アーミーはギングリッチの下で共和党下院院内総務として共和党内のとりまとめやクリスチャン・コアリションとの交渉窓口など、文字通りギングリッチの右腕として活躍した政治家で、政界を退いた後は「フリーダムワークス」という政治団体を設立する。草の根の政治活動を支援するその団体は2000年代後半から盛り上がるティーパーティー運動の中核団体として強い影響力を発揮し、下部組織「“Contract from America”(アメリカからの契約)」という団体が定めた(1)憲法の遵守 (2)排出権取引の拒否(3)連邦財政の均衡 (4)根本的な税制改革(5)小さな政府(6)歯止めのない歳出の終了(7)医療保険改革法撤回(8)無制限のエネルギー政策(9)バラマキ財政の停止(10)減税(増税の停止)からなる十か条の綱領は多くのティーパーティー運動参加団体が批准している。

ジョン・ベイナーはギングリッチに見出されて側近としてギングリッチの綱領「アメリカとの契約」の立案を行い、ギングリッチ引退後も共和党下院議員として活躍。2006年、反ギングリッチだった前任者に変わって共和党下院院内総務に就任すると、師のギングリッチに似た強気な政治手腕でリーダーシップを発揮し、共和党の新政策綱領「“Pledge to America”アメリカとの誓約」を作成。2010年11月の中間選挙では共和党大躍進の立役者として、次期下院議長就任が確実視されている。

クリスチャン・コアリションを退いたラルフ・リードだが、程なくして彼の辣腕を振るう場が再び与えられた。

歴史的大苦戦の末に誕生したブッシュ政権は、再選に向けた選挙戦略の抜本的な見直しを図る必要性にかられていた。大統領上級顧問カール・ローブは苦戦の理由を分析した結果、1900万人の白人福音派有権者のうち400万人が投票に行かなかったことを発見。共和党の支持基盤であった宗教右派はクリスチャン・コアリションの組織が崩壊したことでもはや集票マシーンとしては機能していなかった。

そこで、ブッシュ政権はラルフ・リードを選挙対策の特別顧問に招聘。活躍の場を与えられたリードはその悪魔的と言っていい組織づくりの才能をいかん無く発揮した。福音派教会のネットワークを使って信者名簿を収集すると、有権者登録リストと照合して有権者登録を行っていない信者をピックアップして、有権者登録を促すとともに、教会のネットワークを再生。それとあわせてブッシュ政権は「同性愛結婚の禁止」を明記する合衆国憲法修正法案に署名するなど宗教右派寄りの政策を次々打ち出した。そして9.11の悲劇によって穏健な中道路線だった世論は一気に保守化へと傾き、それにともなってリードらが再生した教会のネットワークと、分裂気味だった宗教右派の諸勢力が再び活性化し始め、彼らは一気にブッシュ支持へと傾いていった。

かくして、2004年の大統領選挙のアジェンダは多くの識者が分析していたテロ、戦争、経済政策ではなく、水面下で広がった宗教右派のネットワークによって妊娠中絶や同性婚、学校での祈りなどの「道徳的価値観」が主要トピックにすり変わり、ブッシュは圧倒的な強さで再選。アメリカにはキリスト教原理主義帝国とでも言うべき異様な光景が創りだされた。頓挫したはずの宗教右派の運動は90年代よりも遥かに先鋭化したかたちで最盛期を迎えたのだった。

その後、ラルフ・リードは宗教保守派系政治家向けの政治コンサルタントとして、現在も共和党の政治家たちに影響力を持っているが、さすがにブッシュ政権の無残な末路の後は宗教右派に対する社会の抵抗感が強く、その神通力にも陰りがみえているようだ。

レーガン政権にしても、ギングリッチ下の共和党にしても、ブッシュ政権の最盛期にしても、保守革命は大きく四つの要因の組み合わせでしかない。草の根の運動、分かりやすいアジェンダ、保守主義を体現する政治家(ポピュリスト)、そして集票マシーンとしての宗教右派だ。

2010年の中間選挙での共和党の躍進はギングリッチの亡霊が生んだかのような光景だ。オバマ政権の予想外のもたつきが亡霊を呼び覚ました。ティーパーティーという草の根の運動と、ギングリッチの綱領「アメリカとの契約」を継承するような、分かりやすいアジェンダという二つの組み合わせ。あと二つ。保守主義を体現し分かりやすい言葉で語るポピュリストと、集票マシーンとしての宗教右派は、社会がより不安定化していく中で、人々が確かなものにすがろうとする時に登場し、活性化し始める。ブッシュ政権で猛威を振るった宗教右派へのアレルギーから、まだその影響力は小さいようだが、このまま経済・雇用状態が改善せず社会不安が続けば、また宗教右派が集票マシーンとして力を盛り返すかもしれない。

オバマ政権の残り二年で採られる生き残り戦略の成否がアメリカ社会だけではなく、世界の趨勢を大きく変える。生き残り、生き残る過程で山積する難問に道筋をつけ、生き残った上で新たな風を起こさなければならない。オバマ政権は期待していたよりは無力な政権だが、最悪ではない。今の再び吹き荒れ始めた保守主義の風に乗って勢いを増す勢力が影響力を行使することになるよりは遥かにマシだろう。卓越したサバイブ能力を見せたクリントン政権を超えられるか、2010年の民主党大敗は織り込み済みとは言え、これまで以上に正念場が続く。

参考書籍・サイト
・中岡 望 著「アメリカ保守革命 (中公新書ラクレ)
・飯山 雅史 著「アメリカの宗教右派 (中公新書ラクレ)
・河野 博子 著「アメリカの原理主義 (集英社新書)
・蓮見 博昭 著「宗教に揺れるアメリカ―民主政治の背後にあるもの
ティーパーティー運動 – Wikipedia
ビル・クリントン – Wikipedia
ニュート・ギングリッチ – Wikipedia

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