明治維新直後の官軍総兵力について

坂野潤治著「未完の明治維新 (ちくま新書)」に、明治維新直後の明治政府の総兵力が紹介されている。

明治四年旧暦七月十四日に断行された廃藩置県は同年3月~5月にかけて薩摩、長州、土佐から献兵された御親兵の武力を背景として行われた。その内訳は以下のとおり。

1)第一官軍「御親兵」のち「近衛兵」
歩兵5649名
砲兵 539名
騎兵 87名
合計6275名
薩摩藩:歩兵四大隊、砲兵四隊
長州藩:歩兵三大隊
土佐藩:歩兵二大隊、砲兵二隊、騎兵二小隊
一小隊64名前後で一大隊が10小隊から構成されていたとされる。
この薩長土三藩の御親兵が近衛兵として第一官軍を形成した。

2)第二官軍
江戸無血開城後に政府側についた諸藩兵が廃藩置県後の明治四年旧暦八月二十日に四つの鎮台兵として再編された。以下歩兵のみ。鎮西=熊本、東北=仙台。
東京鎮台 7320名
大阪鎮台 4800名
鎮西鎮台 2040名
東北鎮台 840名
合計 14980名

3)第三官軍
明治六年(一八七三)一月十日の徴兵令の発布により向う三年間で以下の農民兵が徴集される計画になった。
東京鎮台 7140名(年2380名徴集)
東北鎮台 4460名(年1486名徴集)
名古屋鎮台 4260名(年1420名徴集)
大阪鎮台 6700名(年2234名徴集)
広島鎮台 4340名(年1446名徴集)
熊本鎮台 4780名(年1594名徴集)
合計 31680名

ただし、第二官軍と第三官軍はあくまで計画であって、実際はこの数字よりはるかに少なかったと考えられている。それは各軍の目的の違いによる。山県有朋の意見書によると、最精鋭の第一官軍が皇居の守備、第二官軍の四鎮台が国内の反乱に備え、第三官軍が外敵に備えるというものだった。

このため、徴兵令が出ると、明治六年三月から七月にかけて京都以西の九県を中心に日本各地で徴兵拒否の農民一揆が多発、規模も1000名から大規模なものでは一万名を超えるものがあり、四鎮台の第二官軍や警察、旧士族らが動員されたという。特に明治政府内のタカ派では征韓・征台論が浮上しており、民衆も外征に駆りだされることを最も嫌っていた。

また、西南戦争前に西郷隆盛の下野にともなって第一官軍の中核であった薩摩兵も多くが御親兵から離脱して帰薩しており、第一、第二、第三とも実数は上記より大幅に少なかったと考えられる。

このような訳で明治政府樹立直後から西南戦争前の官軍はせいぜい二万ないし二万五千名そこら程度であり、さらにいうなら財政は火の車だったため、実際外敵が攻めて来たらひとたまりもなかった。そのような中で、およそ一万五千名の士族、しかも当時最強の薩摩兵を中心とした大規模反乱となったのが西南戦争だった。

西南戦争は追い詰められた不平士族がやむにやまれず勝ち目のない小規模反乱を起こした、というイメージがあるが、このように兵力を見ると実はかなり危うい状況であったことがわかる。しかも要衝鎮西鎮台(熊本城)に立てこもる政府軍を率いるのは西郷隆盛の腹心中の腹心だった樺山資紀(参謀長、司令長官は谷干城)で、西郷軍に寝返る可能性は十二分にあったし、西郷もそれを期待していた。が、彼は寝返らなかった。

城兵二千四百名で西郷軍一万五千の猛攻を耐えしのぎ、その間に政府は4200万円の不換紙幣を発行(当時明治政府の年間予算はざっくり収入4000万円、支出5000万円程度の赤字財政)することでなんとか戦費を調達し、政府軍を整えて逐次投入し、勝敗を決したが、その結果、西南戦争終了の時点で紙幣価値が暴落、物価が暴騰して経済は大混乱。さらに当時の政府内の予測では一年以内に国庫が空になる、つまり財政破綻・政府崩壊目前という事態にまで追い詰められていたという。もはや官軍の数がどーの軍事費がどーのといってる場合では無くなっていた。

まぁ、こうして見ると、西欧列強ひしめく中でこんな状況をよく凌いだと思いますね。色々この頃のことを調べてみると、正直幕末・維新前より維新後の方が超絶圧倒的に危機です。いろいろと。ということで明治政府初期の戦力でした。何かの参考用として。

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