明治十三年、財政破綻目前で検討された3つの経済政策案

明治十年九月(一八七七)、七ヶ月に及ぶ内戦となった西南戦争が終結する。しかし、成立して間もない明治政府の本当の正念場はこれからだった。

木戸孝允が西南戦争さなかの明治十年五月に病死、西郷隆盛は西南戦争で戦死し、明治十一年五月には大久保利通が暗殺され明治政府の実質的な指導者であった三人をすべて失った。

さらに西南戦争の戦費が重くのしかかる。殖産興業政策を推し進めてきた明治政府はこれまで積極財政を取っていたため、毎年おおよそ4000万円~5000万円の歳入に対して5000万円~6000万円の歳出という赤字財政を続けており、さらに戦費は4200万円の不換紙幣を発行することで賄っていた。そのため明治十一年以降紙幣価値の暴落、物価の急騰という急激なインフレに見舞われることになった。

猛烈なインフレーションは国内財政を逼迫させる。米価でいうと明治十年に一石五円三十銭だったが十二年には七円九六銭、十三年には十円五七銭と二倍になっている。当時税収は直接税である地租によっていた。地租は土地ごとに地価を算出し法定地租の二・五%を金納する仕組みで、物価に左右されず一定の税収が得られるわけだが、これが裏目に出た。米価がいくら上昇しようと、税収は変わらないのである。
また。紙幣価値の暴落は国際収支の悪化を招くことになる。当時日本の主要外貨は銀貨である。そこに一般会計歳出の七〇%におよぶ不換紙幣を発行したらどうなるか。

坂野 潤治 著「近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)」P43
巨額の不換紙幣の発行が、正貨に対する紙幣の価値を下落させたのである。重工業製品はもちろん、繊維製品すら自給のできなかった当時にあっては、銀・紙の格差(円安)は輸出を増やす以上に輸入の増大を招き、正貨流出を増加させた。

かくして、明治十三(一八八〇)年八月、参議黒田清隆は太政大臣三条実美にこう報告した。「現今大蔵省の金庫に存在する金銀および地金は、合計およそ八〇〇万円」で、今のままではあと一年で国庫は空になる。つまり財政破綻まであと一年と。

明治十一年に一二五〇万円の起業公債を発行することで一息ついてはいたものの、ことここに及んでは、選択肢はたった三つしか無い。外債募集か増税か財政緊縮か。

1)外債募集案
大蔵卿大隈重信は、外債募集を主張する。

戦費として増発した分の外債を募集することで、増発された紙幣に金銀貨の裏づけが出来、西南戦争以前の状態に戻ると考えた。そして五〇〇〇万円のポンド建て外債を償却期間二十五年、年利七%で募集する案を提案した。その後、殖産興業を一層加速させ輸出を増やし、輸入品の国産化が出来る体制にすれば、経済は回復し、さらに発展が望める。

だが、もし償却出来なかったら?国家の存立自体が危うくなることは避けられない。当時、諸外国を見回してみれば償却できなかったときにどのような状態になるかは火を見るより明らかだった。

その結果、外債募集案は退けられることになる。

2)増税案
参議黒田清隆は増税を主張する。と言っても黒田は経済にはそれほど明るくない。草案を書いたのは大阪の政商五代友厚である。

実は地租改正以降繰り返されてきた多くの農民一揆や反対運動によって、西南戦争勃発わずか一ヶ月前の明治十年一月、地租は三%から二・五%に減税されていた。そこに運悪く西南戦争とその後のインフレに見舞われたわけである。

現状、米価の上昇によって農民たちは相当潤っている。そこでさすがに減税したばかりで増税を主張するのは憚られるので、地租の四分の一を現物の納入してもらい、その米を政府で売却する。

坂野 潤治 著「未完の明治維新 (ちくま新書)」P220-221
明治十三年の米価は明治十年の二倍になっていたから、地租の四分の一を米で納めてもらって政府の手で売却すれば四分の一の二倍、すなわち四分の二の税収となる。それに残りの四分の三の紙幣納分を加えれば、地租は現在の四分の五になる。

だが、そもそも明治十年の減税は天皇の詔勅によって行われていた。ここで再び増税に転じれば天皇の詔勅を覆すことになる。ただ、米納であるから直接的に覆すことにはならないとしても、まだ民衆にとって馴染みの薄い明治政府に対して印象は良くないだろう。

当時徴兵令への反対で全国で最大数万人規模の一揆が起きていたし、地租改正に反対する農民一揆も明治九年に三重で最大規模の一揆が起きたのと同時に茨城、愛知、岐阜、滋賀、堺などの各県で一斉に起きており、西南戦争前にも政府軍はその鎮圧に忙殺されていた。

さらに当時、野に下った板垣退助らの民権派は高知で着々とその勢力を拡大しており、一説には八千余もの銃を隠し持っていたとも言われている。西南戦争の最中、元長州藩士でベルリン公使だった青木周蔵は、伊藤博文に宛てて西南戦争を鎮圧後にその軍隊を高知に差し向け板垣退助一派の討伐を進言している。増税による農民の不満に板垣退助らが便乗して蜂起しないとも限らなかった。

確かに農民は当時潤っていたが、もし再び大規模な農民一揆が起きたらどうなるだろう?さらに板垣ら民権派が蜂起したら?戦費などどこにも無いのである。

・・・明治某年、増税に端を発して発生した大規模な農民一揆は全国を席巻し、皇居前に数万の民衆が押し寄せた。明治政府の首脳陣は次々と広場に設置された断頭台の藻屑と消え、ついに、まだ若い天皇睦仁が処刑人に連れられて姿を現すと民衆の歓声は最高潮に達した・・・明治政府の首脳陣は西欧留学中に聞かされたであろう、わずか八〇年前におきた「市民革命」の悲劇を想起していたかもしれない。

かくして増税案も却下されることになる。

3)財政緊縮政策
この結果、明治政府がこれまで取ってきた殖産興業政策の主要路線だった「上からの工業化」は挫折を余儀なくされる。明治十三年十一月「工場払下ケ概則」が制定され、内務省・工部省・大蔵省・開拓使が所有していた工場や関連施設・設備は民間に払い下げられることになった。いわば行政のスリム化が図られたわけで、その売却益で財政は一息つくことになった。

また、これまでの大久保利通・大隈重信の積極財政路線から、井上馨・松方正義ら健全財政路線へと大きく財政政策は転換され、1880年代の有名な松方財政によってデフレ政策が推進、日本銀行の設立と、銀本位制導入への準備がなされ、各種税制を整備する歳入増加策や大幅なボトムアップ型の緊縮財政政策によって徐々に近代的な行政機構が形作られ、官営工場が民間に払い下げられたことで産業の活性化を招き、日本に近代資本主義社会の下地が作られていった。

一方で、大幅なデフレーションは農産物価格の下落を招き、一部の富裕農民を除いて多くの農民が生活に困窮し小作人化するか、都市に流入して労働者化していった。また官営工場払い下げを受けた三井三菱ら大規模な商人・政商がさらに力を持ち財閥を形成。しかし、資本主義の進展による産業構造の変化はこれまでの小規模な商人や職人の労働者化を促進し、彼らの多くが過酷な工場労働に従事していくことになる。それは格差の拡大を生み、その一部が都市の中で貧困層となりスラム街を形成していく。そして、このころに形成されていった経済格差が、昭和期に入って致命的な打撃を社会に与えていくことになる。

また財政危機に直面した明治政府に対して、徐々に民衆も政治意識に目覚め、草の根レベルでの議会設立運動が徐々に加熱していくことになった。

振り返ってみると、この三つの選択肢は明治維新最大のターニングポイントであったことは疑い得ない。そして最大の危機に直面した彼ら明治政府の政治家は確かに最も政治家らしい選択をした。少なくとも想定されうる限りで最悪ではない選択をする、ということだ。外債募集も増税も最悪のケースは容易に想定できた。一方で財政緊縮政策は前二つと比較すれば最悪な状態にはならないだろう、と言える。危機を回避し大きく社会を飛躍させることになる選択だったが、一方で結果として様々な弊害もあり、それは時に致命傷にもなった。しかし、それを理由として彼らを責めるべきではないし、その反対に、無駄に彼らを無謬なものとして神格化するべきでもない。

この例ではいい選択をした。他の場合ではここに出てきた政治家たちはそれぞれ大きく道を誤ってもいる。明治維新を殊更に特別なものと考え、神格化しないこと。当時の一人ひとりの政治家を一人の人間として捉えていくこと、が必要だと思う。明治維新期の出来事について語るときは、知らず知らずのうちに特別視してしまうある種の呪縛がこの社会にはあるので、その呪縛に自覚的であるべきである、と敢えて書いておく。

その上で、この時期に何が起こったかを冷静に理解しておくことはとても大事。敢えていうなら明治政府はなぜ誕生し、成長し、崩壊したのか、という問いが現代社会のスタートラインであると思う。そしてそれを考えていくと、明治維新はなぜ我々を呪縛し続けているのか、という問いが見えてくる。それを問うとき、このとき彼らがとったこの選択について知ることがとても重要になってくるのだけど、そういうあたりについてはまたそのうち。

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